1984年のロンドン。
極度に言語統制された世界では、あらゆる情報が絶えず政府に都合のよい情報に書き換えられていた。
その真実省に勤めているウィンストン・スミスは、テレスクリーンという監視装置の網目を縫って日記を書き始める。
「ビッグブラーをぶっつぶせ」と権力者にたてつく文言を書き連ねながら、自分が権力に屈せずに生きることを望む。
そしてまた一人、彼の同僚が忽然と姿を消した。
こちらもずっと積ん読状態だった、ジョージ・オーウェルの名作。
SF小説として未だに注目され続けている。
とくに「1Q84」が発表されたときに、話題になった。
そして今、ウクライナ侵攻もあり、1959年に出版されたとは思えない恐怖を抱かせる作品として注目されつつある。
古い作品ではあるが、訳は新しいものが出ているので、それほど読みにくさを感じることはないだろう。
▼以下はネタバレあり▼
三部作構成で、反発、融和、解放というような順番で推移する。
笑えないのは、徹底したその言語統制や監視社会が現代とうり二つであるという点だ。
この作品が書かれたころはそれほど現実的ではなかったのかもしれないが、今ではほとんどこのディストピアどおりの世界になっている。
この作品を読んでそれでもまだ「架空の話だ」と安穏としていられるとすれば、よほど鈍感だ。
テレスクリーンにしてもニュースピークにしても、これまでの為政者たちがおこなってきたことを、より高度に突き詰められた世界で話が動いていく。
ウィンストンはやがて恋に落ちて、その恋人を捧げることを当局に誓い、ラストは「ビッグブラザーを愛している」という究極の負けを宣言して絶命する。
笑えないのは、恋人に出会ったことさえも、ビッグブラザーのシナリオ通りだったと読めることだ。
ウィンストンが真に孤独な人間であれば、戦い続けることができたかもしれない。
しかし、ウィンストンは愛する人を見つけ、享楽に覚えることを知った。
愛欲を最も忌避するべきだと統制していたがゆえに、欲に溺れた途端、彼は弱点をさらしてしまう。
彼は生きる喜びを知ったことで、むしろビッグブラザーに虜にされてしまう。
おそらくビッグブラザーはこういう手法を通して、「権力に逆らう可能性のある者」を陥れていたのだろう。
いや、そもそもウィンストンが日記を書き始めたのだって、それより前に仕組まれていたことだったのかもしれない。
あらゆることが自然発生的に、偶然に左右されたことではなく、むしろ権力が人々を管理、強制していく過程なのだろう。
それは言うまでもなく、スマホによって統治され管理されている現代人を容易に想起させる。
私たちはどれくらい「個人の意思」や「個人の自由」を謳歌しているといえるだろうか。
スマホなしでは生きていけない、巨大な技術力にあらゆることを支えられている、依存している私たちにもはや人間らしい、自然な生活を営むことはできない。
あらゆることは得体の知れない何者かから制限され、強制され、意図されて、仕組まれたものばかりだ。
何十年も前に描かれた世界が、この現代になって立ち現れ、このような説得力を持っているということは恐ろしいことだ。
そして、それこそが文学の役割であるともいえる。
そして国立大学から文学部を放棄していくという我が国は、こういうことに最も近いところにいる。
権力者にとって権力者を疑う学問が最も危険分子であるからだ。
権力者を疑う、というスキルはプログラミングなんかよりももっと重要な「生きる力」になるのかもしれない。
私も死ぬ間際、ビッグブラザーを愛している、と宣言しないために。
極度に言語統制された世界では、あらゆる情報が絶えず政府に都合のよい情報に書き換えられていた。
その真実省に勤めているウィンストン・スミスは、テレスクリーンという監視装置の網目を縫って日記を書き始める。
「ビッグブラーをぶっつぶせ」と権力者にたてつく文言を書き連ねながら、自分が権力に屈せずに生きることを望む。
そしてまた一人、彼の同僚が忽然と姿を消した。
こちらもずっと積ん読状態だった、ジョージ・オーウェルの名作。
SF小説として未だに注目され続けている。
とくに「1Q84」が発表されたときに、話題になった。
そして今、ウクライナ侵攻もあり、1959年に出版されたとは思えない恐怖を抱かせる作品として注目されつつある。
古い作品ではあるが、訳は新しいものが出ているので、それほど読みにくさを感じることはないだろう。
▼以下はネタバレあり▼
三部作構成で、反発、融和、解放というような順番で推移する。
笑えないのは、徹底したその言語統制や監視社会が現代とうり二つであるという点だ。
この作品が書かれたころはそれほど現実的ではなかったのかもしれないが、今ではほとんどこのディストピアどおりの世界になっている。
この作品を読んでそれでもまだ「架空の話だ」と安穏としていられるとすれば、よほど鈍感だ。
テレスクリーンにしてもニュースピークにしても、これまでの為政者たちがおこなってきたことを、より高度に突き詰められた世界で話が動いていく。
ウィンストンはやがて恋に落ちて、その恋人を捧げることを当局に誓い、ラストは「ビッグブラザーを愛している」という究極の負けを宣言して絶命する。
笑えないのは、恋人に出会ったことさえも、ビッグブラザーのシナリオ通りだったと読めることだ。
ウィンストンが真に孤独な人間であれば、戦い続けることができたかもしれない。
しかし、ウィンストンは愛する人を見つけ、享楽に覚えることを知った。
愛欲を最も忌避するべきだと統制していたがゆえに、欲に溺れた途端、彼は弱点をさらしてしまう。
彼は生きる喜びを知ったことで、むしろビッグブラザーに虜にされてしまう。
おそらくビッグブラザーはこういう手法を通して、「権力に逆らう可能性のある者」を陥れていたのだろう。
いや、そもそもウィンストンが日記を書き始めたのだって、それより前に仕組まれていたことだったのかもしれない。
あらゆることが自然発生的に、偶然に左右されたことではなく、むしろ権力が人々を管理、強制していく過程なのだろう。
それは言うまでもなく、スマホによって統治され管理されている現代人を容易に想起させる。
私たちはどれくらい「個人の意思」や「個人の自由」を謳歌しているといえるだろうか。
スマホなしでは生きていけない、巨大な技術力にあらゆることを支えられている、依存している私たちにもはや人間らしい、自然な生活を営むことはできない。
あらゆることは得体の知れない何者かから制限され、強制され、意図されて、仕組まれたものばかりだ。
何十年も前に描かれた世界が、この現代になって立ち現れ、このような説得力を持っているということは恐ろしいことだ。
そして、それこそが文学の役割であるともいえる。
そして国立大学から文学部を放棄していくという我が国は、こういうことに最も近いところにいる。
権力者にとって権力者を疑う学問が最も危険分子であるからだ。
権力者を疑う、というスキルはプログラミングなんかよりももっと重要な「生きる力」になるのかもしれない。
私も死ぬ間際、ビッグブラザーを愛している、と宣言しないために。
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