評価点:60点/2014年/アメリカ/120分
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
すくなくとも、私には奇跡は起きなかった。
「バードマン」という超大作ヒーロー映画で映画界のトップに君臨したリーガン・トムソン(マイケル・キートン)だったが、すでにそのブームは終わり、辛酸をなめ続けていた。
うだつの上がらない彼は再起をかけてブロードウェイの舞台に立つことを決意する。
しかし、ぎりぎりまでキャスティングが決まらず、共演者の恋人、マイク・シャイナー(エドワード・ノートン)を代役に立てた。
実力者のマイクの名前によって前売りチケットはバカ売れ、話題の作品となったが……。
「バベル」や「21g」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥが監督をした作品だ。
もちろん、アカデミー賞の作品賞でも話題になった。
今年2本めというなかなかのブランクを埋めるために、週末何とか劇場にいった。
ほとんど満員でチケットを取るのも難しい状態だった。
私はレイモンド・カーヴァーを全く読んだことがない。
村上春樹はよく読んでいるが、翻訳物はほとんど手を出していない。
だから、劇中劇の記号性やリーガン(キートン)、バットマン、カーヴァーの三点を結ぶ切り取り方はできてない。
それを確認してからこの映画をもう一度見直すだけのモティベーションもない。
そういう人が多いはずの日本で、はたしてこの作品が支持されるのか。
他の人のレビューも気になるところだ。
▼以下はネタバレあり▼
なぜこれがアカデミー賞作品賞なのだろうか。
私は見終わって、そんなことを考えながらエンドロールを眺めていた。
何かが決定的に足りない。
それは何なのか。
私がエンドロール後暫く考えていたのは、この映画の「読後感」が良かったからではない。
この不思議な物足りなさは何なのか、うまくまとまらなかったからだ。
この映画には「バードマン」なるもう一人のリーガンが登場する。
それは、本来自分がそうなるはずだった、理想とも言える。
だが、この映画が「もう一人の自分」が出てくるような、陳腐な映画ではない。
その理由は、バードマンが登場するカットとそうではないカットが常に連続性をもって描かれていくからだ。
この映画の一つの実験として、あるいは目玉として、長すぎるロングショットがある。
いつまで経っても画面が切り替わることなく、一つのショットとして物語が展開する。
実に映画の9割は一つの連続性あるカットとして描かれる。
これは奇をてらったものではない。
明らかに意図して、この難しい難題(技術的な難題)に挑んでいる。
CGの技術力があがった今では、もはやこれが「全てテイクで撮られている」と無邪気に考える人はいない。
それでも、緻密に計算された撮影技術がなければ、これだけの長いショットを撮ることは難しい。
バードマンは実際に存在する。
リーガンは単なる「昔売れた落ちぶれた役者」ではないことを印象づけるには充分な手法だ。
だから、バードマンは単なる「もう一人の自分」ではない。
彼は、公開から何十年も経っても、未だにバードマンであり続けている役者なのだ。
自分はバードマンであるという認識を捨てきれずに、あるいは捨てる必要さえ感じずに、彼は何年も役者をやってきた。
だから、カットは切れない。
彼はバードマンと共存している時間と、そうでない時間を区別することができない。
わかりきっていることだが、バードマンが現れるとき、彼の傍には誰もいない。
だから、リーガンは、〈他者〉がいない人物である。
自分が落ちぶれてしまったことを自認できない彼は、今なお「あり得たかもしれない4作目」を夢見ながら生きている。
だが、自分がバードマンとしてでしか売れないことを認めることもできない彼は、4作目を断った。
バードマンでないリーガンは、自分はバードマンなのだから、という自負が捨てきれない。
「3」が公開されて、20年以上も経っているのに、未だにバードマンの亡霊を背負っていることが象徴している。
彼は、バードマンであって、リーガンではない。
まして、彼は役者ですらないのだ。
だから、共演者がどれだけ大根役者であっても、また、その代役がどれだけ優秀な役者であったとしても、彼は舞台を演じるきる力などない。
「おれはこの舞台に賭けているんだ」と口で言いながら、どこまでも自由に飛びたいという願望を捨てきれずにいる。
そんな彼を取り巻く人々も、〈他者〉がいない。
天才的な舞台俳優のマイクも、舞台の上でしか自分を出せない、という悩みを抱えている。
いや、彼は悩んでなどいない。
だが、傍若無人な彼には、〈他者〉がいないのは確かだ。
それを批評するタビサ・ディッキンソンだって、〈他者〉がいない。
見たこともない演劇を「最低の出来」と評価し、それを周りは信じ込んでしまう。
彼女には演劇を見る目などなかったのだ。
ただ、好き嫌いだけで判断して、新聞の紙面を独占してしまっている。
権威をもっているだけで、決して演劇を評価しているわけではない。
と、私はここまで考えて、それも違う、と思いとどまった。
〈他者〉はいない。
だから、閉じられたロング・ショットで、誰も興味のない楽屋模様を描いている。
興味があるのは、ハリウッドの内部事情に詳しいアカデミー賞会員か、ブロードウェイファンくらいだ。
少なくとも、そういうことにシロウトの多くの日本人(まあ、日本人向けに作られた映画でないことはもちろん承知しているが)にとっては、「どうでもいい」話だ。
この映画がそれでも完成度が高いとは思えない理由、それは、〈他者〉ではなく、〈観客〉がいないという点だ。
彼らは演劇について激論を交わしているのにもかかわらず、誰も観客を向いて芝居をしていないのだ。
それはもう、見事としか言いようがない。
物理的なカットにしても、ほとんど背景にしか観客は映らない。
むしろ、裸で走り回るリーガンが動画サイトに投稿されて話題になった、という第三者(日本社会でいうところの「世間」)の評価しか話題に上らない。
あの有名な批評家だって、実は恣意的な記事しか書いていなかった。
彼女が〈観客〉を象徴しているとは言いがたい。
そう思い至って、はじめてこの映画の居心地の悪さを突き止めることができた。
ああ、こんなに不快な印象を受けるのは、この映画が全く〈観客〉という存在を無視したところに、「演劇」の話をしているところにあるのだ、と。
どれだけチケットを売れようともどうでもいい。
売るための工作のキャストの変更もどうでもいい。
すべては、話題作りであり、それはよい演劇を作り上げることとは全く別の観点の議論だ。
置き去りにされていたのは、リーガンではない。
リーガンの娘でもない。
私たち〈観客〉なのだ。
リーガンはどうしようもないところまで追い込まれて、いよいよ本物の銃で自分を「殺す」ことによって演じきろうと思い立つ。
しかし、自殺は完遂されなかった。
完遂されなかったどころか、彼は本当に「バードマン」になってしまう。
自殺の時、銃口がぶれてしまったリーガンは鼻だけに損傷を負った。
鼻の固定具を付けたリーガンは、まるでバードマンになる。
彼は自身の「命」を賭けることで、過去の自分を殺し、真の、無様なバードマンに生まれ変わるのだ。
病室を訪れた娘が、窓の外に見たのは何だったのか。
それは演技に命を賭することで〈観客〉を見出した、生まれ変わったリーガンなのかもしれない。
あるいは、いつまでもバードマンになることを捨てきれない、どうしようもない中年親父なのかもしれない。
あるいは、バードマンという亡霊を捨て去った、素のリーガンなのかもしれない。
確かなのは、その娘の表情から、彼は「愛されるべき」リーガンである、ということだ。
私は、まったく、この映画を愛する気にはなれないが。
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
すくなくとも、私には奇跡は起きなかった。
「バードマン」という超大作ヒーロー映画で映画界のトップに君臨したリーガン・トムソン(マイケル・キートン)だったが、すでにそのブームは終わり、辛酸をなめ続けていた。
うだつの上がらない彼は再起をかけてブロードウェイの舞台に立つことを決意する。
しかし、ぎりぎりまでキャスティングが決まらず、共演者の恋人、マイク・シャイナー(エドワード・ノートン)を代役に立てた。
実力者のマイクの名前によって前売りチケットはバカ売れ、話題の作品となったが……。
「バベル」や「21g」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥが監督をした作品だ。
もちろん、アカデミー賞の作品賞でも話題になった。
今年2本めというなかなかのブランクを埋めるために、週末何とか劇場にいった。
ほとんど満員でチケットを取るのも難しい状態だった。
私はレイモンド・カーヴァーを全く読んだことがない。
村上春樹はよく読んでいるが、翻訳物はほとんど手を出していない。
だから、劇中劇の記号性やリーガン(キートン)、バットマン、カーヴァーの三点を結ぶ切り取り方はできてない。
それを確認してからこの映画をもう一度見直すだけのモティベーションもない。
そういう人が多いはずの日本で、はたしてこの作品が支持されるのか。
他の人のレビューも気になるところだ。
▼以下はネタバレあり▼
なぜこれがアカデミー賞作品賞なのだろうか。
私は見終わって、そんなことを考えながらエンドロールを眺めていた。
何かが決定的に足りない。
それは何なのか。
私がエンドロール後暫く考えていたのは、この映画の「読後感」が良かったからではない。
この不思議な物足りなさは何なのか、うまくまとまらなかったからだ。
この映画には「バードマン」なるもう一人のリーガンが登場する。
それは、本来自分がそうなるはずだった、理想とも言える。
だが、この映画が「もう一人の自分」が出てくるような、陳腐な映画ではない。
その理由は、バードマンが登場するカットとそうではないカットが常に連続性をもって描かれていくからだ。
この映画の一つの実験として、あるいは目玉として、長すぎるロングショットがある。
いつまで経っても画面が切り替わることなく、一つのショットとして物語が展開する。
実に映画の9割は一つの連続性あるカットとして描かれる。
これは奇をてらったものではない。
明らかに意図して、この難しい難題(技術的な難題)に挑んでいる。
CGの技術力があがった今では、もはやこれが「全てテイクで撮られている」と無邪気に考える人はいない。
それでも、緻密に計算された撮影技術がなければ、これだけの長いショットを撮ることは難しい。
バードマンは実際に存在する。
リーガンは単なる「昔売れた落ちぶれた役者」ではないことを印象づけるには充分な手法だ。
だから、バードマンは単なる「もう一人の自分」ではない。
彼は、公開から何十年も経っても、未だにバードマンであり続けている役者なのだ。
自分はバードマンであるという認識を捨てきれずに、あるいは捨てる必要さえ感じずに、彼は何年も役者をやってきた。
だから、カットは切れない。
彼はバードマンと共存している時間と、そうでない時間を区別することができない。
わかりきっていることだが、バードマンが現れるとき、彼の傍には誰もいない。
だから、リーガンは、〈他者〉がいない人物である。
自分が落ちぶれてしまったことを自認できない彼は、今なお「あり得たかもしれない4作目」を夢見ながら生きている。
だが、自分がバードマンとしてでしか売れないことを認めることもできない彼は、4作目を断った。
バードマンでないリーガンは、自分はバードマンなのだから、という自負が捨てきれない。
「3」が公開されて、20年以上も経っているのに、未だにバードマンの亡霊を背負っていることが象徴している。
彼は、バードマンであって、リーガンではない。
まして、彼は役者ですらないのだ。
だから、共演者がどれだけ大根役者であっても、また、その代役がどれだけ優秀な役者であったとしても、彼は舞台を演じるきる力などない。
「おれはこの舞台に賭けているんだ」と口で言いながら、どこまでも自由に飛びたいという願望を捨てきれずにいる。
そんな彼を取り巻く人々も、〈他者〉がいない。
天才的な舞台俳優のマイクも、舞台の上でしか自分を出せない、という悩みを抱えている。
いや、彼は悩んでなどいない。
だが、傍若無人な彼には、〈他者〉がいないのは確かだ。
それを批評するタビサ・ディッキンソンだって、〈他者〉がいない。
見たこともない演劇を「最低の出来」と評価し、それを周りは信じ込んでしまう。
彼女には演劇を見る目などなかったのだ。
ただ、好き嫌いだけで判断して、新聞の紙面を独占してしまっている。
権威をもっているだけで、決して演劇を評価しているわけではない。
と、私はここまで考えて、それも違う、と思いとどまった。
〈他者〉はいない。
だから、閉じられたロング・ショットで、誰も興味のない楽屋模様を描いている。
興味があるのは、ハリウッドの内部事情に詳しいアカデミー賞会員か、ブロードウェイファンくらいだ。
少なくとも、そういうことにシロウトの多くの日本人(まあ、日本人向けに作られた映画でないことはもちろん承知しているが)にとっては、「どうでもいい」話だ。
この映画がそれでも完成度が高いとは思えない理由、それは、〈他者〉ではなく、〈観客〉がいないという点だ。
彼らは演劇について激論を交わしているのにもかかわらず、誰も観客を向いて芝居をしていないのだ。
それはもう、見事としか言いようがない。
物理的なカットにしても、ほとんど背景にしか観客は映らない。
むしろ、裸で走り回るリーガンが動画サイトに投稿されて話題になった、という第三者(日本社会でいうところの「世間」)の評価しか話題に上らない。
あの有名な批評家だって、実は恣意的な記事しか書いていなかった。
彼女が〈観客〉を象徴しているとは言いがたい。
そう思い至って、はじめてこの映画の居心地の悪さを突き止めることができた。
ああ、こんなに不快な印象を受けるのは、この映画が全く〈観客〉という存在を無視したところに、「演劇」の話をしているところにあるのだ、と。
どれだけチケットを売れようともどうでもいい。
売るための工作のキャストの変更もどうでもいい。
すべては、話題作りであり、それはよい演劇を作り上げることとは全く別の観点の議論だ。
置き去りにされていたのは、リーガンではない。
リーガンの娘でもない。
私たち〈観客〉なのだ。
リーガンはどうしようもないところまで追い込まれて、いよいよ本物の銃で自分を「殺す」ことによって演じきろうと思い立つ。
しかし、自殺は完遂されなかった。
完遂されなかったどころか、彼は本当に「バードマン」になってしまう。
自殺の時、銃口がぶれてしまったリーガンは鼻だけに損傷を負った。
鼻の固定具を付けたリーガンは、まるでバードマンになる。
彼は自身の「命」を賭けることで、過去の自分を殺し、真の、無様なバードマンに生まれ変わるのだ。
病室を訪れた娘が、窓の外に見たのは何だったのか。
それは演技に命を賭することで〈観客〉を見出した、生まれ変わったリーガンなのかもしれない。
あるいは、いつまでもバードマンになることを捨てきれない、どうしようもない中年親父なのかもしれない。
あるいは、バードマンという亡霊を捨て去った、素のリーガンなのかもしれない。
確かなのは、その娘の表情から、彼は「愛されるべき」リーガンである、ということだ。
私は、まったく、この映画を愛する気にはなれないが。
私はアメリカ人の好きそうなゴシップ満載映画だなって思いました。もっと背景知識があれば、笑えたのでしょうな。
映画を観てすぐ、レンタルビデオ屋で『バッドマン』借りてきました。私が生まれて初めて映画館で観たのが『バッドマン』でした。ジャックニコルソン扮するジョーカーが怖くてエロくてその印象が強かったので、若かりしキートンは「そういやこんな顔だったな」程度。日本でもよく「あの人はいま」って番組が放送されますが、当の本人さんは色々大変なんだろうなって思わされる映画でした。
DVDで借りた「つぐない」をアップしました。
映画館になかなか行けないので、ちょこちょこレンタルで見て、更新しようと思います。
>おゆばさん
書き込みありがとうございます。
マニアックな映画でしたね。
カーヴァーの戯曲や、ハリウッドネタを知っていればもっと楽しめたのかもしれません。
監督は「バベル」なども撮っている人なので、きっと様々なオマージュや記号をちりばめているのでしょうが…。
私はキートンの「バットマン」は覚えがありません。
たぶんどこかで見ていたのでしょうが、ほとんど記憶にありません。
だから余計に乗れなかったのかもしれませんね。