secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

愛と経済

2018-03-24 12:24:54 | 毎日コラム
私たちは愛をもらうことを求める。
「愛がほしい」というとき、たいてい自分を愛してもらいたいという意味で発する。

その発想はおそらく資本主義経済が支えた、アポステリオリなものだ。
むしろもらうことは受動的なことであり、行為としてトクをすることではない。
そのことを私たちは忘れてしまっている。

少し前、又吉が出ている経済の話でプレゼントをもらう方は三割程度その価値を低く受け取るという話が出ていた。
その時それを知った時、なんだプレゼントをやってるのに安く受け取られるのなんて、割に合わないな、と感じた。

だが、それは私がやりもらいや、愛というものを、経済の指標で考えていたからだ。
好意は、与えられることで知ったり受け取るのではないのだ。
逆説的だが、好意は行為をすることによってもらうことができる。
与えることでそれと同等の対価を得ることを基本としている経済にはわからない。

愛は交換ではない。
愛は与えることによってしか得られない。
主体的に行為をしなければ愛は得られない。
だから私たちは、プレゼントをするのだ。
与えることが愛を受け取る唯一の方法だと潜在的に知っている。
いつまでも愛してほしいと飢えている人間には愛は感じることができない。
それらのことを勘違いすると、私たちはうまく愛せない人間に、あるいは生活に陥るだろう。

与えることと与えられることは同義である。
しかし、受動的な愛は存在しない。
与えられることから愛が生まれることはない。
それは他者に対する愛ではない。
自己愛にすぎない。

与えることでしか人は生きられないと言い換えてもいい。
全て外部のサービスに委託できるようになったが、それでも受動的には生きられないのは、人は愛がなければ、愛を与えずには愛を受けることはできないからだろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 作業と創造 | トップ | ギャンブルについて »

コメントを投稿

毎日コラム」カテゴリの最新記事