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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

アイアムアヒーロー(V)

2018-11-06 18:52:47 | 映画(あ)
評価点:56点/2017年/日本/127分

監督:佐藤信介

これが評価されるなら、日本映画は同情のまなざしで見られているということ。

35歳独身(同棲中)、漫画家のアシスタントの鈴木英雄(大泉洋)は、いつもの通り自宅とアトリエとの往復に明け暮れていた。
ある朝、自宅に帰ると彼女の様子がおかしかった。
いきなり彼女に襲われた英雄は、思わず彼女を殺してしまう。
趣味の猟銃を抱えて仕事場に戻るが、そこで日本に蔓延しているという謎の病気について知らされる。

Amazonプライムで見た。
評価が高かったので、本当は映画館で見に行きたかったが、やはり無理だった。
仕方がない、生きることが大切なので。

漫画は比呂美ちゃんがかまれたあたりまで読んでいるはずだ。
それもずいぶん前なので、どこまで読んでいるのか、あまり覚えていない。
全くの予備知識なしでこの物語を体験したわけではないことは、確かだ。

キャストは大泉洋しか知らなかった。
まあ、日本映画にそれほど興味のない私にとっては普通のことではあるが。

▼以下はネタバレあり▼

評価が高い、ということで私の期待も高かったのは間違いない。
だが、私はこの映画が評価が高いことが、日本映画の期待値がそもそも低すぎるのだというコンテクストに愕然とする。
ゾンビ映画として、あるいはホラー映画としても完成度は高くない。
漫画を読んでいなかった人で、いきなりこの映画を見た人はそこそこ楽しめたかもしれない。
それも、B級である、ということに変わりはないのだが。

私はこれを漫画家目線で、日本を舞台にしたこと、そして漫画として表現したからこそ、漫画「アイアムアヒーロー」に価値があるのだと思っている。
日常から非日常への引き込みは、特にすばらしかった。
(最後まで読んでいないので、最終的な物語としての評価はできないが)
では、それがある程度有名になっている漫画を、なぜ実写化したのだろう。
この映画には、その問いが全くないように思われてならない。

ゾンビ映画ということなら、別に日本でなくても面白い作品はたくさんある。
日本だからこそ、面白い、という点が私たちにはあったはずだ。
日常が壊れていくその感覚をいかに克明に描写していくか、それだけでも価値があったかもしれない。
だから前半はそこそこおもしろい。
だが、後半になると、退屈の極みに陥っていく。

そこで描かれる人間模様に、どこにも日本らしさはなく、日本でアメリカ映画であるゾンビが生まれたらどうなるかというシュミレートにはあまりにもお粗末だ。
だから、予算のない、リアリティのない映画に、魅力はなくなってしまう。
すっかり日本人が体験する「日常」がなくなってしまって、単なる「虚構」になってしまう。

もちろん、その反論に「原作がそうなっていたから仕方がない」というのは全く的外れだ。
原作がどんなものであれ、映画として世に出すのだから、映画として自律しなければならない。
映画にしたとき、面白くない要素があればばっさり切り捨てれば良いし、必要な要素があるなら付け加えるしかない。
それが映画という表現に求められていることなのだから。

「とにかく映画を作ることが制作会社に求められているから」などという商業主義についても議論の余地はない。
お金を払って、見ている人たちに対して、お金以上の何かを与えなければそれは表現として失敗したことになるわけだから。

物語はすべて英雄の目線を通して描かれる。
よって、なぜこの事態になったのか、原因も結果も、状況も、全く分からない。
それはゾンビ映画に限らず、ホラーやディザスターにはよくあるキリトリ方だ。
だから、大切なのは、説明ではない。
細かい描写によって観客は状況を理解して、整理していく。
そういう映画には、すべての画面、すべての台詞が観客に注目されていく。
ディティールをしっかり描かなければ、映画として破綻してしまうのだ。

だから、前半は面白かった。
壊れていく日常と混乱は描けていたからだ。
しかし、比呂美(有村架純)が出てきてから、物語が一気に説明不足、設定不備に陥っていく。
比呂美はどういう人物なのか、なぜ噛まれたのに平然としていられたのか、「噛まれたこと」が英雄に知られてから急に様子が変わってくる。
比呂美の言葉では約二日は経っている。
その説明や説明めいた台詞がない。
それなら、英雄の前で噛まれた方が自然だった。

彼女の設定が曖昧であること、彼女を助けてから富士の樹海に入っていくが、そこがどこなのか、よくわからない。
日本を設定にしているのだから、地図を出すべきだった。
そうすれば私たちがこの映画を見る価値が生まれる。
ああ、東京のあのあたりから逃げてきて、山梨のあたりに来たのだね、というような日常性が欠落している。
そして、アウトレットに入ってからは一気に物語の方向性が意味不明になっていく。

英雄があのアウトレットモールにたどり着いたのは、おそらく事件が発生し始めてから10日程度だと思われる。
それは長くて10日ということだ。
実際にはもっと短いかもしれない。
英雄が世間との交渉を絶っていたことがあっても、樹海で5日以上さまよっていたとは考えにくい。
私はこの事件発生からの日数が、どうしても重要だったと思うのだ。
(テロップか何かで明示する必要はもちろんない。
見ながら観客が推し量れば良い)

10日程度しか経っていないにもかかわらず、アウトレットモールの「安全地帯」はすでに組織だっている。
そしてその組織だった様子のわりには、彼らの一人一人の設定が描かれない。
伊浦(吉沢悠)はなぜリーダーなのか。
音を出しておびき寄せられるのは、どこでわかったのか。
あれだけのバリケードや資材倉庫の整頓はどう考えても数日程度で出来上がらない。
恐らく数週間はかかるはずだ。

「最初は良かったんですよ」というアベサンの台詞とも矛盾する。
いつからかれらはこうした戦いを繰り広げていたのだろうか。
いつからそれが壊れてきたのだろうか。
安全地帯にいる女性たちと、藪さん(長澤まさみ)との違いは何だろう。
なぜ藪さんは実働部隊なのに、他の主婦のような格好をしている女性たちは、なにもしないのだろうか。

こういう映画の場合、世界観をしっかりと描いておかなければどんどん不自然さが生まれて怖さよりも画面と観客との乖離が激しくなっていく。
飛びすぎる大学生ゾンビも、不自然きわまりない。
そこにあるこれらのコミュニティも、申し訳ないが、すでにアメリカ映画で何度も描かれてきた陳腐な様子だ。
日本らしいところは少しもない。
アメリカのゾンビ映画の日本版、という程度の薄さしかない。

そして、最後のシークエンス、あふれるゾンビを一体一体倒していく。
映画としてはかっこいいのかもしれないが、そもそも100程度の銃で殲滅できるなら、人数がいるときにしらみつぶしに倒していけば十分モール内の安全を確保できたのではないか。
わざわざ銃で、しかも猟銃という装弾に時間のかかる武器で100体を倒すシーンを入れたのは、映画としての見せ場を作るためだけに見えてしまう。

そしてやっちゃいけなかったのは、脱出したときの周辺の様子を見せなかったことだ。
それによって彼らがどこに向かうのか、そして何を守ったのか。
それがわからないから、カタルシスが小さい。
あれだけの銃をぶっ放しておいて、結局その成果が「よくわからない」ということがこの映画の失速感と徒労感を象徴してしまう。

私はこの映画が評価されることの意味のほうに、失望感が大きい。
本当に他のゾンビ映画を見まくったのだろうか。
それを日本でやることの意義や、そのオリジナリティについて語り合ったのだろうか。
そういう気概が感じられないし、ただ漫画の映像化にすぎないのだとしたら、日本映画は衰退していくのみだろう。
この映画が面白いのは、「日本映画(漫画の実写化)はどうせ面白くない、その中ではそこそこ楽しめるんじゃないの?」という同情のまなざしが含まれているからに他ならない。


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