評価点:70点/2016年/アメリカ/127分
監督:セオドア・メルフィ
たしかに完成度の高い映画。だが、「それ以上」ではない。
1961年、アメリカとソ連は宇宙開発でも競い合っていた。
それは宇宙という新しいフロンティアを誰のものにするかという争いであり、軍事目的にも利用できるという意味でも重要だったからだ。
そして、ソ連が有人飛行で地球の軌道飛行を成功させた。
焦燥に駆られたNASAは発射と着水の計算ができないという窮地に陥っていた。
NASAのスペースタスクチームの長官ハリソン(ケヴィン・コスナー)は、黒人のキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)を採用することに決める。
キャサリンは小学生の頃から高校への飛び級を提案されるほどの、数学の秀才だった。
単純に時間があったので見にいった。
他にも候補はあったし、一週間遅ければ「猿の惑星」に行きたかったが、しかたがない。
ほとんど予備知識も入れず、予告編もみずに行った。
NASAの話である、黒人の女性が活躍する話、程度の触れ込みだった。
それというのも、またしてもパンフレットが完売するという憂き目にあってしまったからだ。
ほとんどキャスティングもままならないままに、上映が始まった。
風邪気味で、水分補給を心がけていた私は、尿意を我慢するというミッションを同時にこなす器用さを発揮したわけだ。
お陰で、キャサリンの気持ちを痛いほどよく分かるという共感ができた。
映画としての完成度は高い。
安心して誰にでも勧められる作品である。
Yahoo!のレビューが高いのも肯ける。
▼以下はネタバレあり▼
確かに面白い。
だが、それだけだ。
私は、だから不満に思いながら映画館を後にした。
この映画は、実話を元にしたよくできたおとぎ話になっている。
実話とはかなりかけ離れており、演出上、時系列や人物などをいじっている。
それが悪いわけではない。
映画はそういうものだし、実話でなければ映画として成立しない類の映画はドキュメンタリーに限られる。
むしろ、その脚色された部分にこそ、その映画で伝えたこと、メッセージ性が生まれるものだろう。
それはすでに邦題での論争で話題になったことも一つだろう。
「ドリーム」というタイトルに副題として「アポロ計画」と付けて批判を浴びた。
だから「ドリーム」というタイトルになって、余計になんの映画か分からなくなってしまった。
原題は「隠れた功労者」くらいだろうか。
この映画で描きたかったのは、黒人や女性に対する差別ではない。
どちらかというと、努力と才能によって自身の道を開いていった、サクセス・ストーリーだ。
万人受けする物語になっているのも、そのためだ。
黒人差別をモティーフにしているが、それそのものを描いてはいない。
それは、差別に関する描写がことごとくコメディの演出になっているところに象徴的に表れている。
特にわかりやすいのは、(そして個人的に共感できたのは)尿意の描写だ。
西側にある建物にしか、非白人用トイレがないため、東側の建物に採用されたキャサリンは日に何度もトイレに20分以上かかっていた。
それが一つの物語の契機となるわけだが、この描写はとてもコミカルに描かれる。
また、それが尿意であるだけに、どんな人にも共感できるという演出になっている。
(当時のNASAがすでにこのような仕組みの建物構造になっていなかったことを考えると、やはり映画としての演出であることを補強する)
ここに込められているのは、黒人差別への鋭い皮肉ではない。
キャサリンという個人が、いかに組織(NASA)との考えが乖離しているかという問題だ。
だから、黒人差別というのは単なる記号にすぎず、ここで示されているのは個人と組織の対立だということだ。
これはアメリカの大好きな構図だ。
巨大な組織は絶対的な悪で、弱い個人がその因習を打ち破る。
その構図はこれまでに使い古されてきた、お得意の構図で、その構図に当てはめた格好になっている。
だからコミカルで、楽しい。
これだけ差別をモティーフにしているはずなのに、全く「重く」ない。
その意味で万人受けする物語だし、そもそも黒人差別を知らなくても全く問題なく面白いと思える。
コミカルな演出は、非常にうまかったし、その結果有人飛行に成功したというカタルシスを高める効果も生んでいる。
間違いなく面白い。
だが、私はそれほど乗れなかった。
この映画が心底おもしろいと思う人と、そうでない人の違いは、おそらく映画に何を求めるかによるものだろうと思う。
私が乗れなかったその理由を述べよう。
端的に言えば、この映画における黒人差別、女性差別が、あまりにも記号化されたものだったからだ。
喩えるなら、日本映画の恋愛もので、恋人が白血病になるようなものだ。
私は白血病がどんな病気か知らないが、恋愛ドラマで白血病になった恋人はまず死ぬ。
それは白血病を描いたドラマではなく、「結ばれない二人」を描くための記号に過ぎないからだ。
これは私があまりそういったドラマを見ないので、かなりの偏見が含まれていることは認めよう。
だが、言いたいことは、この「ドリーム」でも同じことが起こっている。
差別そのものを描いたというよりも、差別はあるものとして一つの「困難さ」を示す記号として扱われていることに違和感をもった。
それは、白血病患者が恋愛ドラマをみたときに、「死なない人も大勢いるのに!」と怒りを起こすのに似ているかもしれない。
(実際私の知人は、14歳で白血病になったがその後寛解した)
この映画は、キャサリンやドロシー、メアリーらが白人からの差別を克服した映画、ではない。
彼女たちを取り巻く差別的環境は、すでにあるものとして描かれている。
いや、それは歴史的にも社会的にも「動かしがたいもの」であるからこの映画は成り立つ。
(史実はNASAにおける黒人の雇用制度や施設はずいぶん前に改善されていた)
私はだから、この差別があまりにも記号的で、中身のないものに映ってしまった。
だから、スリリングで、痛快で、笑えるし泣けるし、楽しい映画ではある。
だが、その一方で、魂を揺るがすような映画ではない。
エンターテイメント作品で、それを求めるなと言われればそれまでだ。
こういう映画があってはいけないとも思わない。
だから、私の評価は70点だ。
面白いが、熱量が圧倒的に足りない。
その熱量とは、「頭をバールのようなものでがつんとやられる」ような熱量だ。
記号で遊んだサクセス・ストーリーは、同化効果は高いが、異化効果は薄い。
とくに、これだけ黒人と白人の対立が激化しているなかで、私は乗れなかった。
それにしても、キルスティン・ダンストが年取ってしまったなぁ。
監督:セオドア・メルフィ
たしかに完成度の高い映画。だが、「それ以上」ではない。
1961年、アメリカとソ連は宇宙開発でも競い合っていた。
それは宇宙という新しいフロンティアを誰のものにするかという争いであり、軍事目的にも利用できるという意味でも重要だったからだ。
そして、ソ連が有人飛行で地球の軌道飛行を成功させた。
焦燥に駆られたNASAは発射と着水の計算ができないという窮地に陥っていた。
NASAのスペースタスクチームの長官ハリソン(ケヴィン・コスナー)は、黒人のキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)を採用することに決める。
キャサリンは小学生の頃から高校への飛び級を提案されるほどの、数学の秀才だった。
単純に時間があったので見にいった。
他にも候補はあったし、一週間遅ければ「猿の惑星」に行きたかったが、しかたがない。
ほとんど予備知識も入れず、予告編もみずに行った。
NASAの話である、黒人の女性が活躍する話、程度の触れ込みだった。
それというのも、またしてもパンフレットが完売するという憂き目にあってしまったからだ。
ほとんどキャスティングもままならないままに、上映が始まった。
風邪気味で、水分補給を心がけていた私は、尿意を我慢するというミッションを同時にこなす器用さを発揮したわけだ。
お陰で、キャサリンの気持ちを痛いほどよく分かるという共感ができた。
映画としての完成度は高い。
安心して誰にでも勧められる作品である。
Yahoo!のレビューが高いのも肯ける。
▼以下はネタバレあり▼
確かに面白い。
だが、それだけだ。
私は、だから不満に思いながら映画館を後にした。
この映画は、実話を元にしたよくできたおとぎ話になっている。
実話とはかなりかけ離れており、演出上、時系列や人物などをいじっている。
それが悪いわけではない。
映画はそういうものだし、実話でなければ映画として成立しない類の映画はドキュメンタリーに限られる。
むしろ、その脚色された部分にこそ、その映画で伝えたこと、メッセージ性が生まれるものだろう。
それはすでに邦題での論争で話題になったことも一つだろう。
「ドリーム」というタイトルに副題として「アポロ計画」と付けて批判を浴びた。
だから「ドリーム」というタイトルになって、余計になんの映画か分からなくなってしまった。
原題は「隠れた功労者」くらいだろうか。
この映画で描きたかったのは、黒人や女性に対する差別ではない。
どちらかというと、努力と才能によって自身の道を開いていった、サクセス・ストーリーだ。
万人受けする物語になっているのも、そのためだ。
黒人差別をモティーフにしているが、それそのものを描いてはいない。
それは、差別に関する描写がことごとくコメディの演出になっているところに象徴的に表れている。
特にわかりやすいのは、(そして個人的に共感できたのは)尿意の描写だ。
西側にある建物にしか、非白人用トイレがないため、東側の建物に採用されたキャサリンは日に何度もトイレに20分以上かかっていた。
それが一つの物語の契機となるわけだが、この描写はとてもコミカルに描かれる。
また、それが尿意であるだけに、どんな人にも共感できるという演出になっている。
(当時のNASAがすでにこのような仕組みの建物構造になっていなかったことを考えると、やはり映画としての演出であることを補強する)
ここに込められているのは、黒人差別への鋭い皮肉ではない。
キャサリンという個人が、いかに組織(NASA)との考えが乖離しているかという問題だ。
だから、黒人差別というのは単なる記号にすぎず、ここで示されているのは個人と組織の対立だということだ。
これはアメリカの大好きな構図だ。
巨大な組織は絶対的な悪で、弱い個人がその因習を打ち破る。
その構図はこれまでに使い古されてきた、お得意の構図で、その構図に当てはめた格好になっている。
だからコミカルで、楽しい。
これだけ差別をモティーフにしているはずなのに、全く「重く」ない。
その意味で万人受けする物語だし、そもそも黒人差別を知らなくても全く問題なく面白いと思える。
コミカルな演出は、非常にうまかったし、その結果有人飛行に成功したというカタルシスを高める効果も生んでいる。
間違いなく面白い。
だが、私はそれほど乗れなかった。
この映画が心底おもしろいと思う人と、そうでない人の違いは、おそらく映画に何を求めるかによるものだろうと思う。
私が乗れなかったその理由を述べよう。
端的に言えば、この映画における黒人差別、女性差別が、あまりにも記号化されたものだったからだ。
喩えるなら、日本映画の恋愛もので、恋人が白血病になるようなものだ。
私は白血病がどんな病気か知らないが、恋愛ドラマで白血病になった恋人はまず死ぬ。
それは白血病を描いたドラマではなく、「結ばれない二人」を描くための記号に過ぎないからだ。
これは私があまりそういったドラマを見ないので、かなりの偏見が含まれていることは認めよう。
だが、言いたいことは、この「ドリーム」でも同じことが起こっている。
差別そのものを描いたというよりも、差別はあるものとして一つの「困難さ」を示す記号として扱われていることに違和感をもった。
それは、白血病患者が恋愛ドラマをみたときに、「死なない人も大勢いるのに!」と怒りを起こすのに似ているかもしれない。
(実際私の知人は、14歳で白血病になったがその後寛解した)
この映画は、キャサリンやドロシー、メアリーらが白人からの差別を克服した映画、ではない。
彼女たちを取り巻く差別的環境は、すでにあるものとして描かれている。
いや、それは歴史的にも社会的にも「動かしがたいもの」であるからこの映画は成り立つ。
(史実はNASAにおける黒人の雇用制度や施設はずいぶん前に改善されていた)
私はだから、この差別があまりにも記号的で、中身のないものに映ってしまった。
だから、スリリングで、痛快で、笑えるし泣けるし、楽しい映画ではある。
だが、その一方で、魂を揺るがすような映画ではない。
エンターテイメント作品で、それを求めるなと言われればそれまでだ。
こういう映画があってはいけないとも思わない。
だから、私の評価は70点だ。
面白いが、熱量が圧倒的に足りない。
その熱量とは、「頭をバールのようなものでがつんとやられる」ような熱量だ。
記号で遊んだサクセス・ストーリーは、同化効果は高いが、異化効果は薄い。
とくに、これだけ黒人と白人の対立が激化しているなかで、私は乗れなかった。
それにしても、キルスティン・ダンストが年取ってしまったなぁ。
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