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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ネバーランド

2009-02-05 07:57:34 | 映画(な)
評価点:86点/2004年/アメリカ・イギリス

監督:マーク・フォスター

誰もが知る物語の、誰も知らない制作秘話。

劇作家・ジェームズ・M・バリ(ジョニー・デップ)は、自身の新作芝居の初日を意気消沈してむかえた。
予想通り、批評家や観客は、がっかりして帰っていく。
翌日、公園のベンチでノートを開いていると、ジェームズは、そのベンチの下に子どもが隠れているのに気づく。
その子は、王に捕らわれ地下牢に幽閉されているのだ、という。
彼に興味を抱いたジェームズは、デイヴィス一家に、即興で小芝居を見せる。
しかし、父親を亡くした一家の中で、ピーター(フレディ・ハイモア)だけが、彼のイマジネーションの世界に入れずにいた。
ピーターに興味を持ったジェームズは、自身の家庭を離れ、デイヴィス一家に関わりはじめるのだった。

世界で最も有名な演劇の一つ、「ピーターパン」。
ディズニーから映画化されたこともあって、日本でも知らない人がいないほど有名な童話の一つとなっている。
その「ピーターパン」が1904年にロンドンの劇場で公開されて、ちょうど100年目の2004年にアメリカで公開された、
バリの制作秘話を描いたのが、この映画なのである。

この映画の成功は、誰もが知っている「ピーターパン」を題材にしたからではない。
ジョニー・デップを主演にもってきたからでもない。
もちろん、それらは重要な要因になっていることは疑いない。
だが、この誰もが知っている物語を、大人のための物語に昇華してしまった点にある。
ジャンルで言えば、「ファンタジー」に分類される作品だが、この映画が本質的に欲している客層は、大人である。
もっと正確に言えば、「大人」だと言われている人たちである。
子ども向けの映画ではない。
大人だからこそ、解る映画なのである。
 
▼以下はネタバレあり▼

【目に見えるものと、目に見えないもの】
映画のメッセージ性を一言で言うなら、「人生において、信じることは大切だ」という言葉に集約されるだろう。
だが、この映画が大人向けに作られている理由は、その言葉がありきたりで上滑りしているような理想主義者のそれではないからだ。

この映画の出発点は、つらすぎる現実である。
ジェームズは、自分の新作がまったく評価に値しないような、つまらない作品だとわかりながらも、公開せざるを得ない。
そのジェームズが出会ったデイヴィス一家も、父親を亡くして以来、頼る者もなく、絶望している。
気丈に振舞おうとする母親のシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)も、やがて病気に臥せってしまう。
父親を失ったことから、ピーターは「早く大人になろう」と、必死に現実を直視しようとする。

ジャンルとしてはファンタジー映画でありながら、人物たちが直面している状況は、決してなまやさしいものではない。
しかし、そうした厳しい状況の中、ジェームズは子供たちとの遊びを通して、「信じること」の大切さを確信していく。
そして、「見えないもの」を見ようとすることを子供たちに教えるのである。

この映画の主題の一つは、見えるものと見えないものという対立である。
ピーターが直面している問題は、見えるものに他ならない。
そして、ピーターが必死に目を凝らそうとしていることは、目に見える問題だけである。
イマジネーションで演じて見せるジェームズに対して、「それは熊じゃない、ただ犬だよ」
「それは単なる木の枝だ」と冷めた目で言い張るピーターは、見えるものしか見ようとしていない。
ピーターは、父親が死ぬという冷たい現実(目に見えるもの)を受け止めるには、目に見えるものだけを信じるべきだと考えているのである。

だが、目に見えるものだけを信じていると、つまらない人間になることは、ジェームズは知っていた。
例えば、ジェームズの妻・メアリーは、ジェームズに目に見えるものだけを求めていた。
一緒にいること、お金を稼ぐこと(ジェームズの仕事を増やすこと)……。
具体的で、目で見えるものだけしか、メアリーは信じないし、見ようとしない。
別れ際にメアリーはジェームズに告げる。
「私にもあなたのネバーランドを見せてほしかった」
しかし、彼女には見えない。
見えないものを見ようとしないからだ。

シルヴィアの母も、また、見えるものだけを見ようとした人物だった。
ジェームズが毎日子どもたちの遊び相手になることを拒み、シルヴィアに再婚を求める。
彼女もまた、目に見える現実のみのなかで生きていた。
作品の終盤、彼女にもネバーランドが見える。
それは、子どもたちの楽しそうな目に感化されて、ようやく目に見えないものを信じることができたからなのである。

だが、目に見えることだけを見ることが大人になるということではない。
「ピーターパン」でネバーランドに行けるのは、子どもたちだけだが、
この映画の「ネバーランド」に行けるのは、大人――子どもという対立ではない。
目に見えるものだけではなく、目に見えないものを信じられるかどうか、ということなのである。

だが、この映画のもう一つの主題は、〈大人〉と〈子ども〉という二項対立であることは確かだ。
では、その境界はどこにあるのだろうか。
そのてがかりは、ジョージに話す、「すごい、君は30秒で大人になったね」というジェームズの台詞にある。

この台詞は、母親が病気を偽っていることに気づいたジョージが、劇場にいるジェームズに相談しに行くという場面である。
ジョージは、母親がなぜ病気を偽るのかを悟る。
父親を亡くした子どもたちに、これ以上、心配と絶望を抱いてほしくなかったからである。
ジョージはそれをどうすればいいか具体的に考える。
そこで、ジェームズはこの台詞を呟くのだ。

ジョージは目に見えている「母親が病院に行こうとしない」という、現実以上のものをそこに見出したのだ。
味気ない言い方をすれば、母親の心、真意である。
ジョージは、目に見えない人の心を見出すことによって、〈大人〉になる。
ジェームズのいう〈大人〉の意味は、ここにある。

目に見えるだけの現実を直視することが〈大人〉になることではない。
多くの人がそうなってしまったが、ジェームズの考える〈大人〉は、目に見えない人の心を汲みとることができるか、という点にある。

ジェームズは、幼い日に兄を亡くす。
兄を愛していた母親は、彼の死に絶望して、ジェームズを見ようとしない。
自分を見てほしいジェームズは兄の格好をして、母親の前に現れる。
「僕はその時の母親の目を見た瞬間、大人になった」
ジェームズは気づいたのだ。
自分は兄以上に愛されることはない。
母親が本当に愛しているのは、兄であり、自分はその代わりになることは不可能だと。
〈子ども〉であれば、その目の意味をとらえることはできなかっただろう。
しかし、ジェームズはその時、〈大人〉になり、母親の渇望しているものを直観したのだ。

その意味では、ジェームズの行動に風評をささやく者は、皆〈大人〉ではなかった。
映画の前半あたりで、バリ夫妻と、デイヴィス一家が食事をする場面がある。
食事を終えた両者は、相手の悪口をささやきあう。
バリ夫人は、夫のジェームズに、シルヴィアの母の悪口を、シルヴィアの母・モーリエ夫人は、シルヴィアに、ジェームズの悪口をそれぞれ言う。
このとき、メアリーとモーリエ夫人は、相手の目に見える部分だけを見ている。

しかし、聞き手になったジェームズとシルヴィアは、相手の目に見えていない部分まで、それぞれの真意まで見通してしまう。
だから、互いが惹かれていくのである。

ピーターは大人になろうとしていた。
そのために想像を排除し、目に見えるものだけを直視しようと足掻いていた。
しかし、ジェームズの言う〈大人〉は、目に見えるものだけを追う人のことではない。
そのことをピーターパンを見せることで示そうとしたのである。


【ネバーランドという逆説】
ネバーランドという存在は、逆説的である。
ネバーランドが、真になければ、「ネバーランド」という名は存在しないし、誰も知ることがない。
だが、ネバーランドが、真にあるなら、「never」という単語は不適切となる。

ここに、、見えるもの=現実と、見えないもの = 虚構というジェームズ・バリに見出された「真実」がある。
多くの者は――ネバーランドに気づかない者は――、目に見えるもの = 現実であり、それだけがイコール真実という図式をもつ。
死んだ者が永遠に取り戻せないのが、現実だし、ジェームズは熊と踊っているのではなく、犬と踊っているのが真実だ。

だが、それは「真実」ではない。
いや、それは「真実」のある側面だけしか照射していない。
これが「ネバーランド」という世界に込められたテーゼである。
目に見えない虚構は、ウソではない。
目に見えない虚構の中にも、「真実」はあるのだ。

わかりやすい例は、孤児たちの25席である。
ジェームズは、「ピーターパン」の初日に、孤児のために25席用意する。
目に見えるもの=現実しか見ようとしない批評家たちは、犬の着ぐるみを見た瞬間、「なんだこれ、子ども騙しじゃないか」と考えてしまう。
しかし、舞台の上で目に見えないものを追う孤児たちは、素直にそれを「犬」と認識する。
それは虚構であっても、ウソではない。
そこに真実を見出すこと、それがジェームズの「ネバーランド」なのである。
「ネバーランド」とは、それが現実か虚構か、という問いを宙吊りにしてしまう世界なのである。

「ピーターパン」そのものは、児童文学と言ってもいいだろう。
子どもから大人へという、ウェンディの成長譚である。
ネバーランドで過ごした時を次第に忘れていくウェンディは、子ども時代を過ぎ、大人になってしまったという成長を示している。
子どもが大人になる際の通過点であり、通過儀礼のような作品である。

だがこの映画は、明確に、その物語を過去に経験している大人たちへ向けられたメッセージを持っている。
単なる童話、単なるファンタジーという枠を越えたリアリティを有しているのは、
そのためである。

(2005/2/7執筆)

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