評価点:75点/2004年/アメリカ
監督:ジョエル・シューマカー(「フォーン・ブース」)
「楽しみたいなら勉強しろ」というスタンス。
1919年、パリ。
廃墟となってしまったオペラ座で開かれていたオークションに、一人の老人が訪れる。
そこに訪れた者たちに紹介された品は、50年前に落ちたシャンデリアだった。
1870年ごろ、オペラ座に新しいオーナーがついた。
新オーナーのラウル(パトリック・ウィルソン)が見守る中、オペラ「ハンニバル」のリハーサルが行われていた。
主役のカルロッタ(ミニー・ドライバー、「グッドウィル・ハンティング」など)は、不吉なことが立て続けに起こり、不安を感じて降板してしまう。
その代役に選ばれたのが、バレエ・ダンサーのクリスティーヌ(エミー・ロッサム、「ミスティック・リバー」「デイ・アフター・トゥモロー」など)だった。
そして、クリスティーヌは、代役を見事にこなしてしまう。
だが、クリスティーヌは、そのオペラ座に住むというファントム(ジェラルド・バトラー、「タイム・ライン」など)に才能を見出されて、連れ去れてしまう。
全くオペラを見たことがない人でも、「オペラ座の怪人」という題名は知っているだろう。
僕は、オペラを観にいったこともなければ、テレビ等でもほとんど観たことがない。
昔、音楽の時間で観たことがあったように思うが、あまり覚えていない。
だが、そんな僕でも「オペラ座の怪人」の題名は知っていた。
今回、この最も有名な物語が映画化されたのである。
しかも、それを手がけたのが、実際に舞台を手がけてきた、アンドリュー・ロイド・ウェバーなのである(……って、知らねぇ~)。
これは、音響設備が整った映画館で観るべき作品であることは間違いない。
▼以下はネタバレあり▼
巷では、「オペラ座の怪人」が映画化だってよ!
それは是非観にいかねば……という話題でもちきりだが、日本人が「映画館で「オペラ座」が楽しめるんだ!」と目を輝かせて行ったところで、まず肩透かしを喰らう。
オペラ座の怪人のミュージカルを映画館で鑑賞しうるスタイルに刷り直した作品、これがこの「オペラ座の怪人」なである。
だから、これは「平たい画面上で上演されるミュージカル」なのである。
これを映画として鑑賞しようとすれば、恐らくがっかりすることになる。
少したとえ話をしよう。
GLAYのコンサートは、チケットが非常に入手困難である。
ファンクラブに入会していても、100%席を確保することはできない。
ならばファンはどうするか。
ライブDVDを購入するのである。
だが、ここで考えてほしい。
ライブDVDは、GLAYのコンサートを非常によく再現しているだろう。
しかし、DVDと実際のコンサートは根本的に違う。
DVDを買った人が、「おい、こんなのGLAYのコンサートじゃない!」と苦情を言っても始まらない。
根本的に違うものを、イコールで結べるはずはないのである。
これとこの映画化は似ている。
オペラ座の怪人を誰もが観られるような機会を与えたい。
それなら、映画館で上映しよう、という映画なのである。
だから、これを映画として観ることは、映画を本当に楽しむための観方ではない。
これは舞台映像なんだ、と考えて観るべきだ。
僕はたまに考えることがある。
「film」と「movie」の違いである。
この映画を観るとき、「film」として観ることはオススメできない。
あくまで「movie」としてみる必要がある。
オペラの座の映画化ではなく、映像化、あるいは動画化である。
じゃあ、舞台と映画の違いはどこにあるのか、という問いが発生する。
だが、残念ながら、僕はそれを解き明かす知識と言葉を持たない。
ほとんど舞台を見たことのない僕が、それを語るのはほとんど犯罪行為である。
しかし、こういう説明は僕にもできる。
古典的芸術には、「型」が重要な意味を持つ、と。
例えば、歌舞伎。
歌舞伎には、数多くの「御約束」がある。
それは観るものも、観られるものも、既に出来上がっているルールである。
「見得」もそうだし、豪華な衣装もそうだ。
だから、いきなり歌舞伎を見ようとすると、かなり戸惑う。
言い回しがとにかくおそいし、日本語が古くて、何を言っているのかよくわからない。
だが、昔の人はそれで感激も感動もしたのである。
なぜなら、御約束を知っているからである。
だから、歌舞伎を観たいのなら、まず勉強する必要がある。
大まかなストーリーや、役者、演出など、知識がなければ、良さは理解できない。
昔の人は、見得に全てを見出したのだ。
それが感情表現そのものであり、歌舞伎的心理描写なのである。
それは、この映画「オペラ座の怪人」にも言えることだ。
ミュージカルにおける、感情表現の一つは歌である。
台詞の大半を歌で表現すること、それ自体がミュージカル的心理描写なのである。
だから、ファントムの内面がよくわからない、クリスティーヌはどちらに恋していたのか、と言った問いは、歌を〈読め〉ていないからなのである。
ミュージカルであるこの映画は、こうした型を知らなければ本当には楽しめない。
ミュージカルの常識は、映画の常識ではない。
映画の常識で考えれば、クリスティーヌの衣装はかなり堅牢である。
映画なら、エロスを醸し出すような衣装を着るシーンもあっても不思議ではない。
また、ファントムは前半から露出しすぎているため、怖さや「ファントム」さが感じられなくなってしまっている。
父親の墓の拙いアクションは、映画的に最悪である。
だが、ミュージカルで過激出露出度の高い衣装は、まずできないだろう。
(脱いでしまうと、ストリップショウになる。)
ミュージカルである以上、ファントムを小出し小出しにすることはできない。
歌わなければならないからである。
それに、ミュージカルは、アクションに力を注ぐ必要はあまりない。
ミュージカルの常識を知ってから、この映画を観たときはじめて、その偉大さと、限界性を知ることになるのである。
だから、例えば僕が、この映画をもっと楽しみたいと思って、
ミュージカルの「オペラ座」を勉強し始めたとする。
それはまさにウェバーの「思う壺」なのである。
ウェバーは、この映画を通してもっとミュージカルを知ってもらいたいと考えている。
だから、映画としてではなく、映像としてのミュージカルを追求したのである。
日本において、商業的には、失敗作となるだろう。
売れたとしても、多くの人は否定的な感想を持つのかもしれない。
だが、もともとミュージカルは、不特定多数の人間が鑑賞するものではない。
舞台という空間を共有できる範囲の者だけを、その客層にしている。
映画はある意味で暴力的なところがある。
全く知らない人を相手に、監督のペースで上演するのであるから。
その意味で、それほどミュージカルが浸透していない日本の映画館という位相で、いきなりオペラを知ってもらうことは不可能であり、
楽しめないのは仕方がないのかもしれない。
ミュージカル版を知らない僕でもわかったことは、出演者の圧倒的な歌唱力と、強烈で存在感のある歌声を持ちながら、それでも存在しないとされる「phantom」とされた男の悲運である。
(2005/2/9執筆)
……よくわからかない批評ですみません。
また、見直したときに書き直します……。
監督:ジョエル・シューマカー(「フォーン・ブース」)
「楽しみたいなら勉強しろ」というスタンス。
1919年、パリ。
廃墟となってしまったオペラ座で開かれていたオークションに、一人の老人が訪れる。
そこに訪れた者たちに紹介された品は、50年前に落ちたシャンデリアだった。
1870年ごろ、オペラ座に新しいオーナーがついた。
新オーナーのラウル(パトリック・ウィルソン)が見守る中、オペラ「ハンニバル」のリハーサルが行われていた。
主役のカルロッタ(ミニー・ドライバー、「グッドウィル・ハンティング」など)は、不吉なことが立て続けに起こり、不安を感じて降板してしまう。
その代役に選ばれたのが、バレエ・ダンサーのクリスティーヌ(エミー・ロッサム、「ミスティック・リバー」「デイ・アフター・トゥモロー」など)だった。
そして、クリスティーヌは、代役を見事にこなしてしまう。
だが、クリスティーヌは、そのオペラ座に住むというファントム(ジェラルド・バトラー、「タイム・ライン」など)に才能を見出されて、連れ去れてしまう。
全くオペラを見たことがない人でも、「オペラ座の怪人」という題名は知っているだろう。
僕は、オペラを観にいったこともなければ、テレビ等でもほとんど観たことがない。
昔、音楽の時間で観たことがあったように思うが、あまり覚えていない。
だが、そんな僕でも「オペラ座の怪人」の題名は知っていた。
今回、この最も有名な物語が映画化されたのである。
しかも、それを手がけたのが、実際に舞台を手がけてきた、アンドリュー・ロイド・ウェバーなのである(……って、知らねぇ~)。
これは、音響設備が整った映画館で観るべき作品であることは間違いない。
▼以下はネタバレあり▼
巷では、「オペラ座の怪人」が映画化だってよ!
それは是非観にいかねば……という話題でもちきりだが、日本人が「映画館で「オペラ座」が楽しめるんだ!」と目を輝かせて行ったところで、まず肩透かしを喰らう。
オペラ座の怪人のミュージカルを映画館で鑑賞しうるスタイルに刷り直した作品、これがこの「オペラ座の怪人」なである。
だから、これは「平たい画面上で上演されるミュージカル」なのである。
これを映画として鑑賞しようとすれば、恐らくがっかりすることになる。
少したとえ話をしよう。
GLAYのコンサートは、チケットが非常に入手困難である。
ファンクラブに入会していても、100%席を確保することはできない。
ならばファンはどうするか。
ライブDVDを購入するのである。
だが、ここで考えてほしい。
ライブDVDは、GLAYのコンサートを非常によく再現しているだろう。
しかし、DVDと実際のコンサートは根本的に違う。
DVDを買った人が、「おい、こんなのGLAYのコンサートじゃない!」と苦情を言っても始まらない。
根本的に違うものを、イコールで結べるはずはないのである。
これとこの映画化は似ている。
オペラ座の怪人を誰もが観られるような機会を与えたい。
それなら、映画館で上映しよう、という映画なのである。
だから、これを映画として観ることは、映画を本当に楽しむための観方ではない。
これは舞台映像なんだ、と考えて観るべきだ。
僕はたまに考えることがある。
「film」と「movie」の違いである。
この映画を観るとき、「film」として観ることはオススメできない。
あくまで「movie」としてみる必要がある。
オペラの座の映画化ではなく、映像化、あるいは動画化である。
じゃあ、舞台と映画の違いはどこにあるのか、という問いが発生する。
だが、残念ながら、僕はそれを解き明かす知識と言葉を持たない。
ほとんど舞台を見たことのない僕が、それを語るのはほとんど犯罪行為である。
しかし、こういう説明は僕にもできる。
古典的芸術には、「型」が重要な意味を持つ、と。
例えば、歌舞伎。
歌舞伎には、数多くの「御約束」がある。
それは観るものも、観られるものも、既に出来上がっているルールである。
「見得」もそうだし、豪華な衣装もそうだ。
だから、いきなり歌舞伎を見ようとすると、かなり戸惑う。
言い回しがとにかくおそいし、日本語が古くて、何を言っているのかよくわからない。
だが、昔の人はそれで感激も感動もしたのである。
なぜなら、御約束を知っているからである。
だから、歌舞伎を観たいのなら、まず勉強する必要がある。
大まかなストーリーや、役者、演出など、知識がなければ、良さは理解できない。
昔の人は、見得に全てを見出したのだ。
それが感情表現そのものであり、歌舞伎的心理描写なのである。
それは、この映画「オペラ座の怪人」にも言えることだ。
ミュージカルにおける、感情表現の一つは歌である。
台詞の大半を歌で表現すること、それ自体がミュージカル的心理描写なのである。
だから、ファントムの内面がよくわからない、クリスティーヌはどちらに恋していたのか、と言った問いは、歌を〈読め〉ていないからなのである。
ミュージカルであるこの映画は、こうした型を知らなければ本当には楽しめない。
ミュージカルの常識は、映画の常識ではない。
映画の常識で考えれば、クリスティーヌの衣装はかなり堅牢である。
映画なら、エロスを醸し出すような衣装を着るシーンもあっても不思議ではない。
また、ファントムは前半から露出しすぎているため、怖さや「ファントム」さが感じられなくなってしまっている。
父親の墓の拙いアクションは、映画的に最悪である。
だが、ミュージカルで過激出露出度の高い衣装は、まずできないだろう。
(脱いでしまうと、ストリップショウになる。)
ミュージカルである以上、ファントムを小出し小出しにすることはできない。
歌わなければならないからである。
それに、ミュージカルは、アクションに力を注ぐ必要はあまりない。
ミュージカルの常識を知ってから、この映画を観たときはじめて、その偉大さと、限界性を知ることになるのである。
だから、例えば僕が、この映画をもっと楽しみたいと思って、
ミュージカルの「オペラ座」を勉強し始めたとする。
それはまさにウェバーの「思う壺」なのである。
ウェバーは、この映画を通してもっとミュージカルを知ってもらいたいと考えている。
だから、映画としてではなく、映像としてのミュージカルを追求したのである。
日本において、商業的には、失敗作となるだろう。
売れたとしても、多くの人は否定的な感想を持つのかもしれない。
だが、もともとミュージカルは、不特定多数の人間が鑑賞するものではない。
舞台という空間を共有できる範囲の者だけを、その客層にしている。
映画はある意味で暴力的なところがある。
全く知らない人を相手に、監督のペースで上演するのであるから。
その意味で、それほどミュージカルが浸透していない日本の映画館という位相で、いきなりオペラを知ってもらうことは不可能であり、
楽しめないのは仕方がないのかもしれない。
ミュージカル版を知らない僕でもわかったことは、出演者の圧倒的な歌唱力と、強烈で存在感のある歌声を持ちながら、それでも存在しないとされる「phantom」とされた男の悲運である。
(2005/2/9執筆)
……よくわからかない批評ですみません。
また、見直したときに書き直します……。
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