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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

たそがれ清兵衛(V)

2008-11-04 20:17:35 | 映画(た)
評価点:85点/2002年/日本

現代人のための、時代劇映画。

監督:山田洋二、原作:藤沢周平

幕末の仙台。
井口清兵衛(真田広之)の妻は下の子が五歳のときに亡くなってしまった。
以来、清兵衛はひとりで、二人の女の子を育てながら、痴呆がはじまった母親の面倒をみていた。
そのため、彼は「たそがれ」時にはすぐに帰宅し、同僚の武士たちの間から、皮肉を込めて「たそがれ清兵衛」と呼ばれるようになった。
清兵衛はある日、幼なじみからその妹・朋江(宮沢りえ)が、ひどい夫と結婚しついには離婚したことを聞かせされる。

▼以下はネタバレあり▼

2003年度のアカデミー賞に外国語映画賞にノミネートされた作品。
その前から日本では、話題になっていたが、ようやく見る機会を得た。
僕は、個人的には「座頭市」「ラスト・サムライ」と比べる事ができないほど、
前の二作品より、この映画のほうがすばらしいと思う。
確かに、「座頭市」、「ラスト・サムライ」のほうが、それぞれのところで書いたように、アメリカ的、ハリウッド的で、売れるように作ってある。
また、「ラスト・サムライ」はもちろん、「座頭市」も世界を意識している。
しかし、僕はこの「たそがれ清兵衛」のほうが、すばらしいと思う。
(ちなみに僕は原作を読んでいない。)

この映画が、現代において評価される理由の一つに、清兵衛の人物像にあるといえる。
清兵衛は、「たそがれ清兵衛」と呼ばれる所以にもあるとおり、家族のためにすぐに家に帰り、そして多くを望まない生活を送っている。
彼の楽しみは、二人の娘の成長を見届ける事であり、「日々を生きていく」ことに満足を覚えている。
この姿は、ある意味では、現代人と全く正反対の人物像である。

過剰な期待をかける親。
過剰な欲望に身をゆだねる現代人。
生活がたとえ豊かであっても、それを省みることはせずに、もっと先をみようとする、もっと大きなものを望む人間たち。
夜が異常に長くなった生活習慣。
こうした僕ら現代人にとって、たそがれ清兵衛は、まさに理想像である。
家族のために、仕事のために生きるという潔さは、現代ではなくなりつつある。
その意味でも、「たそがれ」(=もうなくなりそうな)、「清兵衛」(=理想の人間像)である。

そう考えれば、必ずしもこの映画は、「幕末の江戸」の実態を精確に描いているとはいえないだろう。
やはり「平成の映画」であることはまちがいない。
例えば、「武士を辞めて百姓をする」という清兵衛の台詞は、あの時代の人間には言えない科白である。
長くなるので詳しく理由は述べないが、あの時代の武士に、「武士を辞める」という選択肢はなかった。
人は、平等でなかったため、武士と農民とは全く違う「人間」であたったからだ。
辞めるという言葉が出ること自体が、すでに現代的なのである。

しかし、時代劇にリアルさを求める必要はない。
いや、「リアルさ」を求めたとしても、それは「リアルさ」であり、「史実」「事実」ではないのだ。

この映画のもう一つの特徴は「たそがれ」である。
清兵衛という理想像が「たそがれ」ているという以外にも、この映画は、やはり「たそがれ」なのである。

「たそがれ」とは元来、
「夕方になり相手の顔が判別できなくなる」という意味がある。
だから、夕暮れ時には神隠しや、辻斬りなどが起こり、夜へと向かう不吉な時間として恐れられたのである。
それはおいておくとして、この映画でも「誰かわからない」というシーンが数多く見つけられる。
もっともわかりやすいのが、物語終盤に斬りあうことになる余吾善右衛門である。
善右衛門とのシーンでは、殆んどその顔を見ることができないほど、光を抑えた状態で撮られている。
表情を、顔で確認することはできない。
しかし、清兵衛と善右衛門の言葉や体のしぐさなどで、その心理が非常によく分かる。
この対決のシーンに、この映画の特徴が表れている。

顔の表情がわからないのは、このシーンだけではない。
そのほかのなんでもないシーンでも、逆光などによって意図的に表情を消し去っている。
例えば、釣りのシーン。
日中で、天気のいい場面であるにもかかわらず、男二人の顔の表情をまともに撮る事はない。

しかし、ここでもやっぱり二人の心理は手に取るようにわかるのである。
その理由としては、一つに顔以外の表情が豊かである事。
仕草や台詞の緩急によって、またそれを引き出すようなカメラ等の演出によって、顔以外での表情を豊かに撮られている。

もう一つは、少ない顔のアングルがうまく利用されているからだ。
顔を撮る事が少ないからといって、全くないわけではない。
顔のアップを少ないながらも、効果的に挿入していくことによって、より顔の表情がもつ意味が拡大され深化される。

この二つの理由により、顔に頼らない心理描写を可能にしている。

しかし、このような撮り方は、よほどの自信がなければできない。
その自信とは、監督の手腕ではない。
役者の手腕である。
役者が、その場にいる役柄になりきれる者でなければ、全く成り立たない演出である。
何しろ、顔ではなく、仕草、言葉の微妙なニュアンスで勝負するのである。
いかにこの映画の役者がすばらしい仕事をしているかがわかる。

ラスト・サムライ」で話題になったのは、渡辺謙だった。
しかし、僕の印象に残っているのは、断然真田広之だった。
数多くの役者が日本にいるが、時代劇の似合う役者は少ない。
宮沢りえにしても、同じである。
今の時代に時代劇の似合う、きちんと演じられる女優は少ない。

僕は、この映画の「たそがれ」具合が、とても好きだ。
それは、やはり「ラスト・サムライ」のような派手な映画にはない良さがある。

ただ、蛇足だと思ったのは、岸恵子のナレーションである。
冒頭はいいとしても、終幕のナレーションは蛇足だった。
「父は幸せだったと思います」というのは、説明的過ぎる。
それは観客にゆだねてもよかった。
ぶち壊しとまでいかないにしても、やや言い過ぎた感がある。
やはり、武士は多くを語らず、である。

(2004/5/7執筆)

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