評価点:70点/2004年/アメリカ
監督:荒牧伸志/原作:士郎正宗
全編3Dで綴るアクション・アニメ。
無敵の傭兵デュナン・ナッツ(声=小林愛)は、廃墟となった街で、危ういところを何者かに助けられる。
彼らに連れて行かれた先は、「ユートピア」ともいえるほどの美しい街だった。
彼女は、そこで戦争が終った事を告げられる。
その巨大都市オリュオンポスは、半分以上がバイオロイドと呼ばれる、人造人間が街の安定を管理するという街であった。
しかし、バイオロイドの精神を管理する施設が破壊されて。。。
これは、士郎正宗原作の同名漫画のアニメ映画化作品である。
僕は原作を読んでいない。また、士郎正宗に対しても、別段、思い入れもない。
思い入れがない分、「動く」感動は味わえなかったが、その僕に言わせても、この映画は十分楽しめる映画だと思う。
正直、「甲殻機動隊」は、世界観がついていけなかった。
ファンには申し訳ないが、どうしても馴染めなかった。
漫画も読んだが、世界観の深さは確かにすごいと思ったが、展開は、「読者無視ですね」と思ったのを覚えている。
僕はその経験から、この映画がマニアにしかわからない映画になっていないことを
ひたすら祈っていたのだが、杞憂に終ったようである。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を一言で評価するなら、「子ども向け」である。
よくも悪くも、子ども向けの映画、という印象を持った。
先にいい意味での「子ども向け」の部分を挙げてみる。
まず、その3Dアニメと称される映像美である。
非常に綺麗である。
その一言に尽きると思う。
これまでのアニメでは、メカは殆んど2Dで描かれてきた。
もちろん、それを否定したいわけではない。
しかし、この映画は、下手なロボット・アニメよりも、よほど臨場感のあるシーンを作り出している。
「革命」とまでは言えないにしても、それでも一見の価値はある。
ただ単に、3Dで描いてみた、というのではなく、それによって、何をしたいか、という点が明確に表れている。
逆から言えば、
「これがしたかったから、俺たちは3Dアニメに挑戦したのだ」
という主張を感じるのである。
そのために、多少の未完成の部分は目をつぶることが出来るのである。
そして、「ロボット・アニメ」である点。
この点は、賛否両論あるだろうけれど、この映画はあくまでもロボット・アニメであり、「楽しませるため」の映画であることを自覚している。
後で述べるが、ストーリーの希薄さ、テーマの希薄さによって、小さく、コンパクトにまとめ上げることができている。
3Dのカッコよさに加えて、わかりやすい、楽しみやすい設定とストーリーであるため、逆に純粋に映像を楽しむ事ができた。その点も好感が持てる。
実際、僕が一番不安だった点も、ここにあった。
難解な設定や、入りにくい世界観で全編が語られてしまうと、マニアは喜ぶかもしれないが、僕のような者にとっては、つらいだけである。
対立構造や、目的をはっきりさせた事によって、子どもでもわかる、楽しみやすい作品になっているのである。
いかにわかりやすく展開させるか。
これは、どんな映画にも必要不可欠な要素である。
また、コンパクトにまとめたため、伏線もきちんと張られている。
「お母さんの顔も見た事がない」という、デュナンの台詞は、母親の追及という点が浮かび上がる。
また、細かいところではあるが、ランドメイト(ロボットみたいな戦闘スーツ)でデュナンがオリュンポスに帰るとき、綺麗な夕日が多脚砲台の陰が黒く映し出される。
これは、多脚砲台を印象付けるためのシーンとなり、後の暴走への伏線となる。
こうした安定したつくりは、やはり「子ども向け」なのである。
では、反対に悪い意味での「子ども向け」とはどういう意味か。
やはり、ストーリーの希薄さである。
登場キャラクターが少ないこともあり、主人公の周りであらゆることが起こりすぎる。
主人公の父親の遺伝子が使われていたり、母親が核心である「APPLESEED」を開発した科学者であったりと、都合が良すぎるきらいがある。
これほどまでに重要な人物が、今まで戦争が終った事を知らずに、何ヶ月も兵隊としてさまよっていたことは、不思議に感じる。
話のスケールのわりには、世界が狭くなってしまう。
ブリアレオス(声=小杉十太郎)との恋人関係も、丁寧に描かれているとは言え、思い入れが不十分である。
ラブ・シーンを回想で入れたり、あからさまに動揺する主人公のシーンを増やしたりするべきだった。
(そもそも、彼の名前が言いにくく、最後まで僕は覚えられなかった。。。)
そうすれば、「機械の顔になってしまった」ことへの主人公の戸惑いに同化することができただろう。
そしてその戸惑いが、彼への不信感を見逃してしまった、という裏のプロットへの伏線にもつながるのである。
人間関係が希薄であり、ドラマとしては非常に弱い。
人間性が描き出されていないため、テーマもストーリーも希薄になってしまう。
「ドラマ」としてではなく、「アニメ」としての印象が色濃く出てしまう。
だから、ラストでの主人公のナレーションは、こころに突き刺さることなく、アニメお決まりの理想論的な響きに聞こえる。
「人間の原罪」などという台詞も、やはり重さがなく、RPGをしているときのような軽さを感じてしまう。
全編を3Dアニメにしてしまった弊害もないわけではない。
人物は、やはり2Dのままでも良かったのではないか。
口に合っていない台詞や、どうしても堅い表情など、違和感が大きい。
ここでもやはり「人間」が描き出せるほどの〈画力〉がない。
他がリアルであるため、その粗が余計に目立ってしまう。
この点は、非常に重要である。
模索の中であるのだろうが、3Dと2Dの折り合いなど、どうみせていくかが、今後のアニメの課題となりそうだ。
やはり「子ども向け」という印象は強い。
大きなテーマを掲げているが、それが逆にアニメである事を浮かび上がらせている。
理屈をこねればこねるほど、神話や伝説、聖書などを取り込めば取り込むほど、ガキっぽさが眼についてしまう。
もちろん、それを割り切れれば、十分楽しめる。
そこがこの映画のボーダーラインであろう。
最後に、〈世界観〉について言及しておきたい。
ちなみに、ここでいう括弧つきの〈世界観〉は、広義の世界観であって、この物語を構築している、製作者側の世界観でもある。
主人公たちのいる世界は、極端な世界である。
一方ではユートピアを地でいくような街が広がり、一方では戦争が続く廃墟の街。
また、オリュンポスは、人間とバイオロイドとが共存する世界。
バイオロイドは、人間関係を円滑にするための無害の存在である。
しかし、人間には「血統」というものにこだわる性質がある。
「機動戦士ガンダム」で人間とスペースノイドが対立したように、バイオロイドに対立する人間が現れる。
その一方、争いを繰り返す人間たちに絶望し、長である七賢老たちが人間を絶滅しようと考える。
結果、デュナンたちが、七賢老たちの計画を阻止して物語は終了する。
僕はこの〈世界観〉に少し不安を感じる。
ものすごく、極端ではないか?
もっと言えば、安直ではないか? と思うのである。
絶望と希望が極端なほどの二項対立を描いている。
Aが駄目だから、B。
Bが駄目なら、壊してしまえ。
いやいやそれでは駄目だから、云々。
この思考回路が非常に怖い。
これこそ「オール・オア・ナッシング」や、「デジタル人間」の最たる考えではないだろうか。
所詮アニメだから、という逃げは許されない。
アニメで育ち、ゲームで学んだ人たちが作った〈世界〉であり、それを喜んで享受しているのも、またそうした人間なのである。
むしろ、「アニメ」という幅広い世代に受け入れられるように、作られた映画であるからこそ、余計に危惧する。
特に、あらゆる局面で、二極化していく、と必死に叫ばれる時代であるからこそ、そうした極端な二項対立を描く「近未来像」は、怖いのである。
その点に誰も気づかないということも、また怖い。
秘密を握っている娘は、狙われるかもしれない。
なら立派な兵隊にしよう。
そう考えるデュナンの父親は、愛情に満ち溢れているかのように思える。
しかし、彼の思考もまた、極端なほど「論理的」なのである。
(2004/5/3執筆)
監督:荒牧伸志/原作:士郎正宗
全編3Dで綴るアクション・アニメ。
無敵の傭兵デュナン・ナッツ(声=小林愛)は、廃墟となった街で、危ういところを何者かに助けられる。
彼らに連れて行かれた先は、「ユートピア」ともいえるほどの美しい街だった。
彼女は、そこで戦争が終った事を告げられる。
その巨大都市オリュオンポスは、半分以上がバイオロイドと呼ばれる、人造人間が街の安定を管理するという街であった。
しかし、バイオロイドの精神を管理する施設が破壊されて。。。
これは、士郎正宗原作の同名漫画のアニメ映画化作品である。
僕は原作を読んでいない。また、士郎正宗に対しても、別段、思い入れもない。
思い入れがない分、「動く」感動は味わえなかったが、その僕に言わせても、この映画は十分楽しめる映画だと思う。
正直、「甲殻機動隊」は、世界観がついていけなかった。
ファンには申し訳ないが、どうしても馴染めなかった。
漫画も読んだが、世界観の深さは確かにすごいと思ったが、展開は、「読者無視ですね」と思ったのを覚えている。
僕はその経験から、この映画がマニアにしかわからない映画になっていないことを
ひたすら祈っていたのだが、杞憂に終ったようである。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を一言で評価するなら、「子ども向け」である。
よくも悪くも、子ども向けの映画、という印象を持った。
先にいい意味での「子ども向け」の部分を挙げてみる。
まず、その3Dアニメと称される映像美である。
非常に綺麗である。
その一言に尽きると思う。
これまでのアニメでは、メカは殆んど2Dで描かれてきた。
もちろん、それを否定したいわけではない。
しかし、この映画は、下手なロボット・アニメよりも、よほど臨場感のあるシーンを作り出している。
「革命」とまでは言えないにしても、それでも一見の価値はある。
ただ単に、3Dで描いてみた、というのではなく、それによって、何をしたいか、という点が明確に表れている。
逆から言えば、
「これがしたかったから、俺たちは3Dアニメに挑戦したのだ」
という主張を感じるのである。
そのために、多少の未完成の部分は目をつぶることが出来るのである。
そして、「ロボット・アニメ」である点。
この点は、賛否両論あるだろうけれど、この映画はあくまでもロボット・アニメであり、「楽しませるため」の映画であることを自覚している。
後で述べるが、ストーリーの希薄さ、テーマの希薄さによって、小さく、コンパクトにまとめ上げることができている。
3Dのカッコよさに加えて、わかりやすい、楽しみやすい設定とストーリーであるため、逆に純粋に映像を楽しむ事ができた。その点も好感が持てる。
実際、僕が一番不安だった点も、ここにあった。
難解な設定や、入りにくい世界観で全編が語られてしまうと、マニアは喜ぶかもしれないが、僕のような者にとっては、つらいだけである。
対立構造や、目的をはっきりさせた事によって、子どもでもわかる、楽しみやすい作品になっているのである。
いかにわかりやすく展開させるか。
これは、どんな映画にも必要不可欠な要素である。
また、コンパクトにまとめたため、伏線もきちんと張られている。
「お母さんの顔も見た事がない」という、デュナンの台詞は、母親の追及という点が浮かび上がる。
また、細かいところではあるが、ランドメイト(ロボットみたいな戦闘スーツ)でデュナンがオリュンポスに帰るとき、綺麗な夕日が多脚砲台の陰が黒く映し出される。
これは、多脚砲台を印象付けるためのシーンとなり、後の暴走への伏線となる。
こうした安定したつくりは、やはり「子ども向け」なのである。
では、反対に悪い意味での「子ども向け」とはどういう意味か。
やはり、ストーリーの希薄さである。
登場キャラクターが少ないこともあり、主人公の周りであらゆることが起こりすぎる。
主人公の父親の遺伝子が使われていたり、母親が核心である「APPLESEED」を開発した科学者であったりと、都合が良すぎるきらいがある。
これほどまでに重要な人物が、今まで戦争が終った事を知らずに、何ヶ月も兵隊としてさまよっていたことは、不思議に感じる。
話のスケールのわりには、世界が狭くなってしまう。
ブリアレオス(声=小杉十太郎)との恋人関係も、丁寧に描かれているとは言え、思い入れが不十分である。
ラブ・シーンを回想で入れたり、あからさまに動揺する主人公のシーンを増やしたりするべきだった。
(そもそも、彼の名前が言いにくく、最後まで僕は覚えられなかった。。。)
そうすれば、「機械の顔になってしまった」ことへの主人公の戸惑いに同化することができただろう。
そしてその戸惑いが、彼への不信感を見逃してしまった、という裏のプロットへの伏線にもつながるのである。
人間関係が希薄であり、ドラマとしては非常に弱い。
人間性が描き出されていないため、テーマもストーリーも希薄になってしまう。
「ドラマ」としてではなく、「アニメ」としての印象が色濃く出てしまう。
だから、ラストでの主人公のナレーションは、こころに突き刺さることなく、アニメお決まりの理想論的な響きに聞こえる。
「人間の原罪」などという台詞も、やはり重さがなく、RPGをしているときのような軽さを感じてしまう。
全編を3Dアニメにしてしまった弊害もないわけではない。
人物は、やはり2Dのままでも良かったのではないか。
口に合っていない台詞や、どうしても堅い表情など、違和感が大きい。
ここでもやはり「人間」が描き出せるほどの〈画力〉がない。
他がリアルであるため、その粗が余計に目立ってしまう。
この点は、非常に重要である。
模索の中であるのだろうが、3Dと2Dの折り合いなど、どうみせていくかが、今後のアニメの課題となりそうだ。
やはり「子ども向け」という印象は強い。
大きなテーマを掲げているが、それが逆にアニメである事を浮かび上がらせている。
理屈をこねればこねるほど、神話や伝説、聖書などを取り込めば取り込むほど、ガキっぽさが眼についてしまう。
もちろん、それを割り切れれば、十分楽しめる。
そこがこの映画のボーダーラインであろう。
最後に、〈世界観〉について言及しておきたい。
ちなみに、ここでいう括弧つきの〈世界観〉は、広義の世界観であって、この物語を構築している、製作者側の世界観でもある。
主人公たちのいる世界は、極端な世界である。
一方ではユートピアを地でいくような街が広がり、一方では戦争が続く廃墟の街。
また、オリュンポスは、人間とバイオロイドとが共存する世界。
バイオロイドは、人間関係を円滑にするための無害の存在である。
しかし、人間には「血統」というものにこだわる性質がある。
「機動戦士ガンダム」で人間とスペースノイドが対立したように、バイオロイドに対立する人間が現れる。
その一方、争いを繰り返す人間たちに絶望し、長である七賢老たちが人間を絶滅しようと考える。
結果、デュナンたちが、七賢老たちの計画を阻止して物語は終了する。
僕はこの〈世界観〉に少し不安を感じる。
ものすごく、極端ではないか?
もっと言えば、安直ではないか? と思うのである。
絶望と希望が極端なほどの二項対立を描いている。
Aが駄目だから、B。
Bが駄目なら、壊してしまえ。
いやいやそれでは駄目だから、云々。
この思考回路が非常に怖い。
これこそ「オール・オア・ナッシング」や、「デジタル人間」の最たる考えではないだろうか。
所詮アニメだから、という逃げは許されない。
アニメで育ち、ゲームで学んだ人たちが作った〈世界〉であり、それを喜んで享受しているのも、またそうした人間なのである。
むしろ、「アニメ」という幅広い世代に受け入れられるように、作られた映画であるからこそ、余計に危惧する。
特に、あらゆる局面で、二極化していく、と必死に叫ばれる時代であるからこそ、そうした極端な二項対立を描く「近未来像」は、怖いのである。
その点に誰も気づかないということも、また怖い。
秘密を握っている娘は、狙われるかもしれない。
なら立派な兵隊にしよう。
そう考えるデュナンの父親は、愛情に満ち溢れているかのように思える。
しかし、彼の思考もまた、極端なほど「論理的」なのである。
(2004/5/3執筆)
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