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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

語りの難しさ

2018-03-11 07:28:58 | 毎日コラム
どこかにも書いたが、物語とは、物が語るものだった。
物とは、物の怪を言い、物の怪が語ることを、
物語と呼んだ。
それは、物語が普通の人々が語るような内容とは違うコードを持っていたからだ。
語り部と呼ばれる人たちが、専門的に物の怪を憑依させて語っていた。

だから、古くから残っている古典作品の多くは、日常的な会話とは全く違う調子で語られていたはずだ。
もちろん、それは書き言葉と話し言葉との相違を生んでいく。
私たちが、いや、私が古典作品を読むことが苦手なのは、そもそも話し言葉ではないからなのだ。

しかし、時代が下るに従って語ること、そして書くことは特別な所業ではなくなった。
識字率が上がり、紙や筆が手に入りやすくなり、印刷技術が向上した。
そうした流れの中で、ネット社会がある。
決してネット社会が特殊な流れで生まれてきた、広がってきたわけではない。

表現すること、語ること、そういう閉じられた行為が、次第に無限大に広がっていく行為になってきたのだ。

だが、そうした流れは、一方で、語ることの具体性を希薄にしていくことになった。
日本で生まれた語るという文化は、極めて具体的な行為だった。
目の前にいる聴衆に向かって、その時必要な話、知識、知恵、預言を、物の怪が語る。
それが一人歩きしていくようなことはありえない。

だが、文字に起こされ、印刷され、拡散されていく技術が生まれたことによって、ネットでは極めて抽象的にしか語れなくなってきた。

いま、ここで誰がこの文章を読んでいるのか、聴いているのか。
失言と呼ばれる言葉の誤解や、炎上と言われる騒動は、すべてそうした文脈のなさ、具体性をのなさからくることだろう。

語ることのが容易になった反面、語ることは極めて難しいいとなみになってきた。
それはまるで、語り部の専門的な技術を素人が学んでいくようなものなのだ。
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