評価点:73点/2014年/カナダ・スペイン/90分
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
監督さん、そりゃないよ。
歴史の教師をしているアダム(ジェイク・ギレンホール)は、ある日同僚に映画を薦められる。
その映画を見ると、自分にそっくりな男が出演していた。
気になってその男のことを調べていくと、映画3本に出ている役者だった。
住所を調べ、役者の男(アンソニー)に電話をすると、その男の妻が出て、その男は声まで同じだということを知る。
原題を代表する映像作家、といってもいいドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作品だ。
例によってAmazonプライムで鑑賞した。
かなり画面が暗くて、家で見るべきではない作品かもしれない。
事前のレビューで「わからなかった」ということを見て、そそられた。
どうせドゥニ・ヴィルヌーヴ(いつまでたっても名前が覚えられない)である、そういう期待をして見ていた。
だが、私にはこの映画が山川方夫の短編小説の雰囲気に似ているという頭しかなく、かなり終盤まで読み間違えていた。
「雨の日は会えない~」というような映画が好きな人には面白いと思う。
この映画も事前の予備知識をなしにみたい映画だ。
▼以下はネタバレあり▼
こういった種類の映画は、それほど多様な結末はない。
たいていは数種類くらいしか落ちはない。
本当に他人のそら似なのか、クローンなのか、同一人物なのか、エイリアンの仕業なのか。
だから、多くの人はすぐに落ちに気づくだろうし、それほど「落ち」にこだわった作品ではないようにおもう。
だが、それでも難解なのは、一つの結末に向かって映像や演出が収斂されていくタイプの映画ではないからだ。
はっきり言えば、読みにかなりの飛躍と恣意性が伴わなければ、説明がつかない。
全てのシーンについて、たった一つの真相によって説明が付くわけではない。
だから、嫌いな人は、特にミステリとして読んだ人は、この映画がどこか釈然としない映画のように感じることになるだろう。
私はどちらかというと、この映画に肯定的な印象を持たなかった。
その理由も述べてみようと思う。
真相はこうだ。
妻が妊娠したことをきっかけに、男は結婚することになった。
そうなると端役で生きていくような生活はできない。
だから、三流役者をやめて、歴史の教師になった。
教師であるという自分は至って真面目に、そして地味な生活を送っていた。
一方で、彼には「脚光を浴びたい」というような役者にありがちなプレイボーイのような一面があった。
その一面を知っている妻は、彼を常に浮気をしているのではないかという疑いを持って接していた。
ギラギラしている彼に惹かれたのだろうが、家庭的でない彼に疑念を抱いていた。
その彼は、教師であることから逃れるように、不倫を始める。
もちろん相手の女性(メアリー)は気づいていない。
六ヶ月後、同僚に自分が昔映画に出ていたことを気づかれる。
しょうもない映画だったが、そこで過去の自分と今の自分、あるいは教師としての自分と役者としての自分を引き合わされることになる。
いつまでも役者でいたい自分と、そろそろ真面目に誠実に人とつきあっていかなければならない自分とが交錯する。
それが「複製された男」なのである。
このタイトルもミスリードで、「分裂した男」だと落ちがそのままだし、「引き合わされた男」だとちょっと中身を想像できない。
原題は「ENEMY」。
自分の中にある敵、欲望との戦いを描いた作品なのだ。
妻の前ではいつまでも自由奔放な「役者」である。
不倫相手の彼女の前では誠実な「教師」となる。
二重生活をしていた彼は、次第に引き寄せられるようになる。
そのきっかけが同僚に役者としての自分を見抜かれたことであり、もう一つは、教師としての自分を妻に見られたことだ。
まるで二重人格のように棲み分けていた生活が、そこで邂逅してしまう。
妻はそのうり二つの別の顔をもつ教師の夫に惚れ直す。
夫もまた、その意味を掴む。
彼に欠けていたのは、「妻への気遣いである」ということに気づくのだ。
だが、それでも彼はもう一人の彼の欲情を抑えることができない。
だから、一夜だけでいいから、もう一度不倫相手のメアリーを抱きたいと願う。
そこで、彼は自分を入れ替えて、役者としての自分でメアリーに逢い、教師としての自分で妻に逢うのだ。
誠実さをもたない役者のアンソニーは、メアリーにとっては単なる「体目当ての男」としてしか映らない。
だから彼女は男を拒絶するわけだ。
逆に、教師のアダムを知った妻は、「今日の学校はどうだった?」と教師である彼に惹かれていく。
誠実な、自分のことを気遣える側面を彼女は見抜いたわけだ。
初めて教師としての自分を妻の前に出すことで、彼は誠実な男として生きていこうと決意する。
だから、自動車を横転させて、役者だったアンソニーは不倫相手との決別を誓うのだ。
物語はここで終わらない。
新しい朝を迎えた男は、役者の自分に送られた新しい鍵を見つける。
それは、役者だったころ気にかけていた女(だろう、たぶん)からの不倫の誘いだった。
「今夜ちょっと用事がある」と妻に声をかけた瞬間、蜘蛛が彼を見つめ返す。
この蜘蛛の象徴性が私には全く理解できなかったが、これは有名な芸術作品でママンというやつらしい。
つまり、母性によって彼の不貞を見抜かれた、という意味だ。
彼は完全に過去を捨て去ることはできなかった、ということになろう。
以上のように説明することは一定できる。
だが、この映画がミステリとして見たとき、ミスリードが多く、整合性がとれないシーンが多い。
タイトルもそうだし、ネットの写真を眺めるシーン、芸能事務所を探そうとする下り、自分と自分の電話のやりとりなど。
一つの結末に向かって収斂されていくように描くなら、ミステリとして納得してカタルシスも大きく、そしてラストの怖さが生まれたはずだ。
しかし、わざとミスリードして観客を混乱させているようにしか感じられない。
また、なにより私が評価できないのは、その混乱がアダムとアンソニーの混乱そのものではないことだ。
つまり「雨の日は……」のような混乱した構成は、人物の内面そのものを示していると読めるのに対して、この混乱はただ観客に向けられた混乱であり、物語のテーマに関する混乱ではないということだ。
物語の内容が、語りや構成に影響を与えているというのなら、私はその表現そのものを評価するし、必然性を感じるが、このようにただいたずらにミスリードをしていくことによって(タイトルも含めて)読者を陥れるような映画は好きではない。
これが文学的、芸術的な観点から見ても、完成度の高い映画とは思えない。
アイデアはいいが、テーマに即して構成し直せば、ミステリとしての高揚は得られなかったことだろう。
中身のない緊張と結論、というふうに私には映る。
だから、この映画を見て「わからなかった」「釈然としない」「おもしろくない」というのは、当たり前の感覚なのではないか。
これよりもっと難解な映画はたくさんあるが、そのどれもが、テーマと表現の一致をみているからこそ、私たちは楽しめるのだ。
そういうことを思わせる映画だった。
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