※ この記事は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」について、いきなり分析から始めています。
「破」についてはまず「その1」からお読みください。
以下の記事は「その1」の補足的な内容です。
▼以下はネタバレあり▼
【子どもから神へ シンジのアガペー】
「破」では、結局シンジの内面には何が起こったのだろうか。
人類補完計画の全貌やゼーレの意図、さらには渚カヲルがどのような役割を果たすのか、などまだまだ次回作をみなければ位置づけられないことばかりだが、もう少し「破」について考えてみよう。
「大人になれ、シンジ」と言う碇ゲンドウにとっての大人とは、目的のためには、手段を選ばないとか、最小限の犠牲によって最大の利益を得る、といった種類の決断を下せる人を指している。
ジレンマに陥りながら生きている大人の世界では、どちらか一方を選択するという状況に追い込まれながら、何かを切り捨てている。
シンジは、そんな大人の世界を知りながら、そしてそれに拒否反応を示す、それが世界との関わり方だった。
それが、ドラスティックに変わる物語なのである。
レイという人間と関わることによって、「世界」や「自分」と天秤にかけることなく、他者を優先する生き方を選んだわけだ。
リツコはシンジがレイを救い出したときのエヴァ初号機をみて、神に近い存在へと姿を変えた、と分析する。
それは、先にも書いたように、碇ゲンドウや赤木リツコたちの取り巻く、妥協の産物としての現実世界とは違う。
シンジのレイへの、無償の愛、自己犠牲の愛は、まさに神の存在に近いのである。
それはキリスト教的な愛、アガペーである。
この映画シリーズが公開される前、テーマの改変が行われるだろうということがどこかの雑誌に書いてあった。
テレビシリーズが「自己肯定」であったのに対し、新シリーズは「人と関わること」へ? といった予想があった。
それは確かに僕も予想していた。
先に公開された「ハガレン」がそのようなテーマを持っていたからだ。
だが、何のことはない。
無償の愛へという昇華は、僕たちの予想の遥か先のテーマだったわけだ。
僕は、先には書かなかったが、この映画に流れているテーマによく似た話を最近体験していた。
それは村上春樹の「1Q84」に描かれる青豆と天吾の物語である。
他者のために、見返りを期待せずに自己を捧げる。
まったく物語的な位相も異なり、関連もまるでないわけだが、同じ時期に発表された作品として注目されるべきなのかもしれない。
この2009年を取り巻く世界は、まさにアガペーの決定的に欠落した〈現実〉世界なのかもしれない。
庵野と春樹が描いた物語に共感する日本社会には、どこかしらの情熱に飢えているのかもしれない。
【抽象から具体へ シンジの覚醒】
では、シンジがそこまでドラスティックに覚醒した理由は何だったのだろう。
シンジが描く世界観にどのような変化があったのだろう。
それは、抽象から具体へという変化である。
シンジは世界と関わるとき、従順と拒否を繰り返しながら生きてきた。
つまり、外面的な態度としては従順な様相を見せておきながら、何一つとして肯定できずに生きてきた。
それが、父親への態度に収斂されている。
現実に耳を傾けることなく、心を閉ざすことで、あるいは具体的に耳を閉ざすことで、世界と関わりを持とうとしてこなかった。
なぜなら、それらはすべて抽象的な世界であり、そこに具体的な人間が存在していなかったからだ。
たとえば、シンジは引っ越ししてきた人間であり、過去と全くのつながりを持たない「異邦人」として描かれている。
それが具体的な人間がシンジの内部に存在していない何よりの証である。
また、「序」でシンジが世界を救ったことを具体的に見せるために、ミサトは第三新東京市のが見える高台へと連れて行く。
だが、アスカが暴走したとき、彼にとってより具体的だったのは、第三新東京市の大勢の人間よりも、アスカ個人だった。
具体的な人間が、シンジにはいない。
エヴァに乗る理由が「父さんにほめられるためかもしれない」と言うシンジにとって父親は唯一具体的な人間であって、世界とつながる唯一のドアだったわけだ。
あるいは父親は鍵穴程度だったのかもしれない。
だからこそ、彼はその両肩に世界の運命を担っていることを、全然意識できないのだ。
彼にとってはすべて「いやなこと」を押しつけてくるのが、父親というたった一人の人間からのぞく、抽象的な世界だったからだ。
逃げちゃだめだ、という言葉を唱えていても、何から逃げるのか、なぜ逃げてはいけないのかを自問しない。
なぜなら、彼にもその具体性はつかめていないからだ。
ただ、強迫観念のように、逃げてはいけないという抽象的な要請だけがあるのみだ。
だが、レイとアスカの存在によって、それらが一気に瓦解する。
世界は父親以外にもつながる余地があり、具体的な血と肉と、感情をもった人間によって成り立っていることを知るのだ。
それはもちろん、アスカの犠牲によって呈示される。
アスカが「一人って寂しくないはずなのに」「話すっていいもんだね」と心を開いているのは、シンジもまた、心を開いていることを暗示する。
よって、レイへのアガペーは、恋といった過渡期的な感情というよりは、もっと劇的な、ドラスティックなものなのだ。
シンジにとって、レイは「代わりはいない」具体的な人間なのだ。
だから、世界を守るためと言われても全く納得できなかったエヴァの操縦を、具体的なレイのためなら決断できたわけだ。
この映画が劇的なのは、その解答が多くの観客にとって、あるいはヲタク文化が定着した若者たちの多くの人間にとって、命題に等しいからだ。
【若者の象徴としてのシンジ】
よく若者が犯罪を犯すと、「現実と虚構の区別がついてないからだ」とか「リアルな人殺しゲームばかりしているからだ」とか「ゲームのようにリセットできないことを若者は理解できないからだ」とか、いうコメントがされる。
それらはマス・メディアのごく一部からの批判であることは間違いないが、これは問題の本質を完全に見誤ったものだと言わざるを得ない。
ゲームが楽しい理由は、それが非日常世界であるからだ。
それはとりもなおさず、日常世界に対して疲弊しきっているという裏返しでもある。
現実と虚構の区別がつかなければ、ゲームはしないし、楽しくない。
現実では魔法が使えないからこそ、虚構に向かうのだ。
おそらく、若者にとって現実と虚構とのラインこそは、絶対的だ。
だが、それでも現代と少し前の若者(だけじゃないけれど)との違いがあるとすれば、それは具体と抽象という線引きだ。
「誰でもよかったから」といって人を殺せる人間には、誰もいない。
あるいは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発する人間や、その問いに答えられない人間には、誰もいない。
具体的な人間が誰もいないからこそ、抽象化して、「誰もでもよかった」となるのだ。
世界は具体的な人間同士が、うんざりするようなどうでもいいことで日々悩んで生活している。
「あの人とあの人はつきあっている」とか、「あの人があなたの悪口を言っていたよ」とか、「彼氏が最近メールを返してくれない」とか。
そういった本当にどうでもいいことを、積み重ねているのが現実という世界だ。
だが、メディアや虚構的空間が肥大化するに従って、それはひどく抽象化されて、一般化されてしまった。
若者たちは、具体的な人間の世界を体験する前に、その抽象的な世界に堕とされて、ひねてしまった。
若者たちは、どこか現実を見限り、精神を病み、あきらめている。
もちろん、僕もその一人だ。
愛、という言葉はあっても、そこに具体的な存在がない。
だが、愛や憎しみ、悲しみというのは、本来抽象化しようもない具体的なものだった。
シンジが生まれ変わったのは、そういった現代のコンテクストにおいてである。
ヱヴァが、再び日本を席巻することは、そう突飛なことでもないのかもしれない。
「破」についてはまず「その1」からお読みください。
以下の記事は「その1」の補足的な内容です。
▼以下はネタバレあり▼
【子どもから神へ シンジのアガペー】
「破」では、結局シンジの内面には何が起こったのだろうか。
人類補完計画の全貌やゼーレの意図、さらには渚カヲルがどのような役割を果たすのか、などまだまだ次回作をみなければ位置づけられないことばかりだが、もう少し「破」について考えてみよう。
「大人になれ、シンジ」と言う碇ゲンドウにとっての大人とは、目的のためには、手段を選ばないとか、最小限の犠牲によって最大の利益を得る、といった種類の決断を下せる人を指している。
ジレンマに陥りながら生きている大人の世界では、どちらか一方を選択するという状況に追い込まれながら、何かを切り捨てている。
シンジは、そんな大人の世界を知りながら、そしてそれに拒否反応を示す、それが世界との関わり方だった。
それが、ドラスティックに変わる物語なのである。
レイという人間と関わることによって、「世界」や「自分」と天秤にかけることなく、他者を優先する生き方を選んだわけだ。
リツコはシンジがレイを救い出したときのエヴァ初号機をみて、神に近い存在へと姿を変えた、と分析する。
それは、先にも書いたように、碇ゲンドウや赤木リツコたちの取り巻く、妥協の産物としての現実世界とは違う。
シンジのレイへの、無償の愛、自己犠牲の愛は、まさに神の存在に近いのである。
それはキリスト教的な愛、アガペーである。
この映画シリーズが公開される前、テーマの改変が行われるだろうということがどこかの雑誌に書いてあった。
テレビシリーズが「自己肯定」であったのに対し、新シリーズは「人と関わること」へ? といった予想があった。
それは確かに僕も予想していた。
先に公開された「ハガレン」がそのようなテーマを持っていたからだ。
だが、何のことはない。
無償の愛へという昇華は、僕たちの予想の遥か先のテーマだったわけだ。
僕は、先には書かなかったが、この映画に流れているテーマによく似た話を最近体験していた。
それは村上春樹の「1Q84」に描かれる青豆と天吾の物語である。
他者のために、見返りを期待せずに自己を捧げる。
まったく物語的な位相も異なり、関連もまるでないわけだが、同じ時期に発表された作品として注目されるべきなのかもしれない。
この2009年を取り巻く世界は、まさにアガペーの決定的に欠落した〈現実〉世界なのかもしれない。
庵野と春樹が描いた物語に共感する日本社会には、どこかしらの情熱に飢えているのかもしれない。
【抽象から具体へ シンジの覚醒】
では、シンジがそこまでドラスティックに覚醒した理由は何だったのだろう。
シンジが描く世界観にどのような変化があったのだろう。
それは、抽象から具体へという変化である。
シンジは世界と関わるとき、従順と拒否を繰り返しながら生きてきた。
つまり、外面的な態度としては従順な様相を見せておきながら、何一つとして肯定できずに生きてきた。
それが、父親への態度に収斂されている。
現実に耳を傾けることなく、心を閉ざすことで、あるいは具体的に耳を閉ざすことで、世界と関わりを持とうとしてこなかった。
なぜなら、それらはすべて抽象的な世界であり、そこに具体的な人間が存在していなかったからだ。
たとえば、シンジは引っ越ししてきた人間であり、過去と全くのつながりを持たない「異邦人」として描かれている。
それが具体的な人間がシンジの内部に存在していない何よりの証である。
また、「序」でシンジが世界を救ったことを具体的に見せるために、ミサトは第三新東京市のが見える高台へと連れて行く。
だが、アスカが暴走したとき、彼にとってより具体的だったのは、第三新東京市の大勢の人間よりも、アスカ個人だった。
具体的な人間が、シンジにはいない。
エヴァに乗る理由が「父さんにほめられるためかもしれない」と言うシンジにとって父親は唯一具体的な人間であって、世界とつながる唯一のドアだったわけだ。
あるいは父親は鍵穴程度だったのかもしれない。
だからこそ、彼はその両肩に世界の運命を担っていることを、全然意識できないのだ。
彼にとってはすべて「いやなこと」を押しつけてくるのが、父親というたった一人の人間からのぞく、抽象的な世界だったからだ。
逃げちゃだめだ、という言葉を唱えていても、何から逃げるのか、なぜ逃げてはいけないのかを自問しない。
なぜなら、彼にもその具体性はつかめていないからだ。
ただ、強迫観念のように、逃げてはいけないという抽象的な要請だけがあるのみだ。
だが、レイとアスカの存在によって、それらが一気に瓦解する。
世界は父親以外にもつながる余地があり、具体的な血と肉と、感情をもった人間によって成り立っていることを知るのだ。
それはもちろん、アスカの犠牲によって呈示される。
アスカが「一人って寂しくないはずなのに」「話すっていいもんだね」と心を開いているのは、シンジもまた、心を開いていることを暗示する。
よって、レイへのアガペーは、恋といった過渡期的な感情というよりは、もっと劇的な、ドラスティックなものなのだ。
シンジにとって、レイは「代わりはいない」具体的な人間なのだ。
だから、世界を守るためと言われても全く納得できなかったエヴァの操縦を、具体的なレイのためなら決断できたわけだ。
この映画が劇的なのは、その解答が多くの観客にとって、あるいはヲタク文化が定着した若者たちの多くの人間にとって、命題に等しいからだ。
【若者の象徴としてのシンジ】
よく若者が犯罪を犯すと、「現実と虚構の区別がついてないからだ」とか「リアルな人殺しゲームばかりしているからだ」とか「ゲームのようにリセットできないことを若者は理解できないからだ」とか、いうコメントがされる。
それらはマス・メディアのごく一部からの批判であることは間違いないが、これは問題の本質を完全に見誤ったものだと言わざるを得ない。
ゲームが楽しい理由は、それが非日常世界であるからだ。
それはとりもなおさず、日常世界に対して疲弊しきっているという裏返しでもある。
現実と虚構の区別がつかなければ、ゲームはしないし、楽しくない。
現実では魔法が使えないからこそ、虚構に向かうのだ。
おそらく、若者にとって現実と虚構とのラインこそは、絶対的だ。
だが、それでも現代と少し前の若者(だけじゃないけれど)との違いがあるとすれば、それは具体と抽象という線引きだ。
「誰でもよかったから」といって人を殺せる人間には、誰もいない。
あるいは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発する人間や、その問いに答えられない人間には、誰もいない。
具体的な人間が誰もいないからこそ、抽象化して、「誰もでもよかった」となるのだ。
世界は具体的な人間同士が、うんざりするようなどうでもいいことで日々悩んで生活している。
「あの人とあの人はつきあっている」とか、「あの人があなたの悪口を言っていたよ」とか、「彼氏が最近メールを返してくれない」とか。
そういった本当にどうでもいいことを、積み重ねているのが現実という世界だ。
だが、メディアや虚構的空間が肥大化するに従って、それはひどく抽象化されて、一般化されてしまった。
若者たちは、具体的な人間の世界を体験する前に、その抽象的な世界に堕とされて、ひねてしまった。
若者たちは、どこか現実を見限り、精神を病み、あきらめている。
もちろん、僕もその一人だ。
愛、という言葉はあっても、そこに具体的な存在がない。
だが、愛や憎しみ、悲しみというのは、本来抽象化しようもない具体的なものだった。
シンジが生まれ変わったのは、そういった現代のコンテクストにおいてである。
ヱヴァが、再び日本を席巻することは、そう突飛なことでもないのかもしれない。
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