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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

半落ち(V)

2009-07-20 21:20:45 | 映画(は)
評価点:52点/2004年/日本

監督:佐々部清

映画としての連続性と統一感がない。

元刑事の梶総一郎(寺尾聡)が妻を殺害したと自首してきた。
別の捜査に当たっていた志木正和(柴田恭兵)は、いきなり上司に呼ばれ、取り調べにあたる。
不審な点もなく、梶が殺したことに疑う余地がないが、殺してから二日間経った後、自首してきていること疑問をもった志木は、警察とは無関係に捜査をし始める。
そして明らかになってきたのは、二人の息子が死んでしまったと言うことであり、その死因が白血病であったことであった。
しかし、その間にも刻一刻と、梶の裁判は進行していく。

日本映画業界で、おそらくこれほどのキャスティングを組むことは、もうできないのではないだろうかと思わせるくらいの豪華な俳優陣だ。
予備知識なしで見たのだが、出てくる人間全てが「顔」のある役者ばかりだ。
吉岡秀隆、柴田恭兵、寺尾聡、高島礼子、鶴田真由、伊原剛志……。
これほどのキャスティングを擁した上で、もし、この映画が面白くないとすれば、それは完全に監督の責任だ。
そうまでしても、俺には描きたいものがあるのだ、という宣言にさえ聞こえるキャスティングだ。

しかも、原作は知らないが、この作品に流れている流れは、おそらく多くの者に共感を呼ぶ題材だ。
「半分しか落ちていない」状態をさす「半落ち」が意味する内容を、知ったとき、この映画の重さが改めてわかるだろう。

作品の善し悪しは、自分の眼で確かめるとしても、やはり見ておくべき作品の一つであることは、断言できる。
できれば、原作を先に読んだ方がいいかもしれない。
 
▼以下はネタバレあり▼

上にはかなり語気の強い調子で書かせてもらったが、この映画、本当に完成度が高いかと言われればかなり疑問が残る。
僕には、あまりにも原作(読んでいないけれど)に忠実に撮りすぎて、多くの要素を捨てきれなかった感が強い。
テーマがいいのはもちろんだろうが、それを全て、二時間強の時間の中に込めてしまうことは、そもそも無理難題だったような気がするのだ。
ちなみに、僕はこの作品を泣くために観たが、泣くことはできなかった。

話は実は単純だ。
結局は、ボケ老人を裁く権利は存在するのか、というところに行き着く。
タイトル「半落ち」とは、人間が裁くべきではないことを、裁いてしまった罪と、事件が解決しきらない矛盾を捜査していくという、ダブルミーニングになっていたのだ。

当然後者が表面上の意味になり、前者が後半以降で明かされていく、本当のテーマということになる。

愛する人を失った痛みから、妻が認知症になってしまった。
どんどん失われていく記憶の中で、妻は息子だけは失いたくなかった。
それと同時に、息子の生き写しのような骨髄を提供してあげた子どもの記憶だけは、忘れたくなかった。
息子はあたかも生き返ったかのような錯覚さえ持っていたからだ。
しかし、どんどん記憶はなくなっていく。
それを知った妻は、夫に殺して欲しいと頼むのだ。
つまりは、自分が自分で居られる状態で死にたいと考えたのだ。

このようにさらっと書けば味気ない。
しかし、このテーマはまさに現代が抱えるテーマそのものであるから重たい。

梶は決断する。
妻をこのまま生かしておくのは忍びない。
殺すしかない、と。
体よく言えば「安楽死」だ。

ここで話が終われば、物語は単純だ。
ここで夫の梶が気づいたのは、その白血病患者の少年が、北海道にいるということを、妻が知っていたことだ。
一目見たいという妻の希望を叶えてやるために、夫は、死んだ妻をそのままにして、自首する前に会いに行く。
そして、そのラーメンを食べ、自首を決行する。
謎の二日間は語らない。
なぜなら、その二日間のことを話せば、必然的に梶が助けたその少年に迷惑がかかり、結果的に追い込むことになるからだ。
だから事件は犯人がわかっていても、決して「落ちることのない」「半落ち」となったのだ。

このように、この映画は重たいテーマを持っている。
「よくある話」と言えばそうだが、それが「どこにもない話」まで昇華されているから、この映画は涙を誘うのだ。

が、やはりどうしてもこの映画の完成度は疑わしいと思ってしまう。
なぜだろうか。
それは一言で言えば、「あまりに要素を詰め込みすぎている」ということだ。
最も端的なのは、裁判官の藤林の件(くだり)だ。
かれが最終的に下す「有罪」の意味を持たせるために、かれの設定を見せている。
つまり偉大な裁判官である父親が、いまではもう見る影もなく、「認知症患者」になってしまっているシーンが出てくる。
だが、これだけでは内面をえぐれていない。
設定として見せただけに過ぎない。
そこから、もちろん、かれの苦悩に満ちた日常を想像することはできる。
しかし、いかんせん見せ方があまりに「がっつり」しているため、映画としてのテンポの中に収まりきっていない。
したがって、違和感の大きいシーンになり、感情移入どころか、余計な挿話になってしまっている。

なければ、この話の重みが生まれない。
けれども、「さりげなさ」がないために、映画としては「言い訳」にさえ聞こえてしまうあざといシーンになってしまっている。
それだけではない。
彼以外にも、キャスティングに「顔」がありすぎるために、ワンシーン、ワンシーンが全体的にぶちぶち、よく言えば存在感がありすぎる。
話が、走馬燈のように駆けめぐる印象はあっても、映画としての連続性や緊迫感、テンポなどがなくなってしまっている。
主人公が決められないまま、ずっと進んでいくから、だれを頼りにすれば良いのか、誰が主なのか、わからないのだ。
かといって、誰も感情移入できるほど細かく描いてはくれない。

前半、起訴までに時間を下さい、と懇願していた志木も、結局は解決前に期限が来てしまう。
そして、あとは、時間制限があまり感じられないような裁判へ突入し、真相を知りたいと思わせるものの、ドラマとしての迫力、魅力は減退してしまう。

「船頭多くして船山に上る」という言葉がある。
役者がぴったりとその中に納まっていなければ、映画も面白くはなりはしない。
結局、脚色と、演出の段階で失敗してしまっているのだ。

観客に挑戦的なキャスティングでも、結局はシナリオ次第である。
原作=映画のシナリオ という構図は幻想でしかない。
豪華キャスティングのお祭りのような浮き足だった映画だと言える。

(2006/10/15執筆)

そういえば、テレビでも映像化していたね。
やっぱりこの映画には不満が残っていたのかな。
そちらはみなかったけれど、やはり原作を超えることは難しいと見える。
それなら東野圭吾の「赤い手」も映画化しそうな気がする。
こちらのほうが、テーマとしては映像化しやすいまとまりがあるかと。

いい映画とは、商業的にヒットするだけではなく、いい作品なのだ。
いい映画とは、キャスティングで引っ張るだけの映画ではないことを、早く日本の映画関係者やテレビ関係者は気づくべきだ。
でなければ、アメリカの番組制作会社主体による、良質の海外ドラマにすべて持って行かれることになる。

正直、最近の連続ドラマ、おもしろいものありますか?

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