評価点:90点/2005年/アメリカ
監督:アン・リー
ヒトは愛する人と添い遂げることはできないのか。
1963年、貧しい牧場経営を強いられているイニス(ヒース・レジャー)は、羊を放牧する季節型労働を始める。
自然保護区のブロークバックマウンテンに、二人で野宿し、一人が羊を獣から守り、一人が野宿生活を運営する。
ジャック(ジェイク・ギレンホール)とともに山にこもってテント生活をはじめた二人だが、予想以上に過酷な状況だった。
ある晩、二人は感情の高ぶりを覚え、結ばれてしまう。
一度きりの過ちだと考えていたイニスだったが、やがて恋愛感情が芽生え始める。
異変に気づいた雇い主は、二人を下山させることにしたが、二人は下山した後もお互いを忘れることができなかった。
今は亡き、と紹介しなければならないのが非常に残念だ。
ヒース・レジャー主演の究極の愛を描いた名作である。
誰もが知っている作品となってしまった本作は、同性愛という特殊な愛の形を普遍的なものまで高めている。
周りに勧められながらも、僕は正直、ずっと観ることをためらっていた。
重たい話であることは知っていたし、やはりモティーフが同性愛であるということに、興味以上に怖さ(畏怖)を感じていたからだ。
だが、やはり、ものすごい作品である。
大画面液晶テレビで鑑賞したい、美しい映画である。
いや、プラズマでもプロジェクターでもいいけれど。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を観た後なら「ベンジャミン・バトン」の感想はずいぶん変わったかも知れない。
ともに愛の普遍を描いた作品であり、悲しみに満ちた物語を描いている。
この映画のおもしろさは、二人の内面を描くのに、背景となる人物や事物を巧みに利用している点にある。
たとえば、舞台となるブロークバック・マウンテンは、驚くほど美しい。
この世の楽園だろうか、というほどの美しさだ。
過酷な労働を強いられているにもかかわらず、画面から溢れる風景の美しさは、息をのむ。
冬でも雪が積もり、またその雪が溶け、澄んだ空が二人を包む。
その開放感や情景は、自然の厳しさよりもものがもののままに存在する自然(じねん)の美しさである。
そうした世界にいる彼らが惹かれあうのも無理はない。
二人の愛は一気に燃え上がり、やがて忘れられない“火傷”となる。
イニスは予定通り結婚し子どもが生まれる。
自分の生活に追われながらも、ジャックを忘れることができない彼は、突然の友人からの誘いに我をも忘れてしまう。
再会の喜びを、熱烈なディープキスで表した二人を目撃してしまった妻は、動揺を隠しきれない。
二人のキスよりも、彼女の動揺こそが二人の絆の強さを反照する。
それは、男同士の恋愛という禁忌であり、差別であり、それを凌駕する愛の深さである。
二人が結ばれたのは、明確に、禁忌の恋だったからだ。
人は禁忌を犯すことで、最大のエロスを感じる。
死を求めてジェットコースターやバンジージャンプにいそしむのも、タナトスの向こう側にあるエロスを感じるためである。
男を愛することが、社会的な死であることは、二人は諒解していた。
けれども、それを越えたところにエロスを見いだしてしまったのだ。
二人の絆は、ジャックにも妻子ができても続く。
老け込むお互いの妻と、成長していく子どもたちが、二人のつながりが継続的であり、かつ断続的であることを暗示する。
傍目からみれば、幸せな家庭であっても、それは二人にとっては地獄でしかない。
幸せな家庭であればあるほど、逃げられないのであり、問題がないと言うことはそのバラ色の鎖が恒久的に継続されてしまうことを意味する。
しかし、二人の関係に破綻が起きる。
それが、イニスの離婚である。
女として扱われない妻が、どれほどの屈辱を感じていたか、それは彼女にしかわからない。
今は同性の結婚も認められるほどに、認知度は高い。
差別もないことはないが、社会的な理解も高まってきた。
だが、当時はそれほど周りは優しくはない。
それを知りながらつきあい続けることが、妻にとってどれほどの侮辱であっただろうか。
黒人と白人が恋に落ちるよりも、遥かに強力なタブーであったに違いない。
イニスが離婚したことは、彼ら自身には朗報だったに違いない。
二人の関係の進展を求めるジャックに対して、同性愛がもつ社会的な危険性を知るイニスは、それに応じることができない。
同性愛者が父親に殺されたエピソードを明かすイニスにとって、父親はやはり超えられない壁(=課題)であった。
イニスはジャックしか愛せなかった。
だが、ジャックはパーソナルな性格として同性愛者だった。
メキシコで男と寝るジャックの行動は、イニスとっては裏切りであった。
イニスが別の女性を抱いても再婚に踏み切れないのは、そのためだ。
もはやほかの男性も、ほかの女性も愛することはできない。
イニスにとって愛とは、抽象的な、誰にでも与えられるものではすでになくなっていたのだ。
やがて二人に転機が訪れる。
「タイヤの破裂で死んだ」と妻が告げるジャックの死は、実は同性愛者を憎む人間らによって殺されてしまったのだ。
おそらくイニスよりも羽振りがよく、ほかの男との関係があり周囲に漏れてしまったのだろう。
結局二人は永遠に結ばれることはなかった。
ジャックの「俺たちにはブロークバック・マウンテンしかなかったんだ!」という叫びは、真実だった。
あの時間、あの場所でしか二人は結ばれることはできなかった。
それは、社会的にも歴史的にも閉ざさされた世界であり、永遠に成就することのない悲運の愛である。
二人の特殊な愛を描きながらも、それでも僕たちの心を打つのは、それが普遍性を伴うものだからだ。
男女の恋であれ、同性の恋であれ、本当に愛するべき人とは添い遂げられないのかもしれない。
愛せない禁忌の相手を愛すること、それが本当の愛なのかもしれない。
愛せない相手を愛そうとする。
それこそ、普遍的で究極の愛なのかもしれない。
イニスは抱きしめ続けるだろう。
あのときの血が残るジャックのシャツとともに、あの山で過ごした時間を。
ヒトは愛する人の残り香を愛するだけでも生きていけるのだ。
本当に愛するべき人を見いだせただけでも、イニスは幸せなのかもしれない。
それは、ヒース・レジャーという役者を亡くしてしまった僕たちも同様なのだろう。
監督:アン・リー
ヒトは愛する人と添い遂げることはできないのか。
1963年、貧しい牧場経営を強いられているイニス(ヒース・レジャー)は、羊を放牧する季節型労働を始める。
自然保護区のブロークバックマウンテンに、二人で野宿し、一人が羊を獣から守り、一人が野宿生活を運営する。
ジャック(ジェイク・ギレンホール)とともに山にこもってテント生活をはじめた二人だが、予想以上に過酷な状況だった。
ある晩、二人は感情の高ぶりを覚え、結ばれてしまう。
一度きりの過ちだと考えていたイニスだったが、やがて恋愛感情が芽生え始める。
異変に気づいた雇い主は、二人を下山させることにしたが、二人は下山した後もお互いを忘れることができなかった。
今は亡き、と紹介しなければならないのが非常に残念だ。
ヒース・レジャー主演の究極の愛を描いた名作である。
誰もが知っている作品となってしまった本作は、同性愛という特殊な愛の形を普遍的なものまで高めている。
周りに勧められながらも、僕は正直、ずっと観ることをためらっていた。
重たい話であることは知っていたし、やはりモティーフが同性愛であるということに、興味以上に怖さ(畏怖)を感じていたからだ。
だが、やはり、ものすごい作品である。
大画面液晶テレビで鑑賞したい、美しい映画である。
いや、プラズマでもプロジェクターでもいいけれど。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を観た後なら「ベンジャミン・バトン」の感想はずいぶん変わったかも知れない。
ともに愛の普遍を描いた作品であり、悲しみに満ちた物語を描いている。
この映画のおもしろさは、二人の内面を描くのに、背景となる人物や事物を巧みに利用している点にある。
たとえば、舞台となるブロークバック・マウンテンは、驚くほど美しい。
この世の楽園だろうか、というほどの美しさだ。
過酷な労働を強いられているにもかかわらず、画面から溢れる風景の美しさは、息をのむ。
冬でも雪が積もり、またその雪が溶け、澄んだ空が二人を包む。
その開放感や情景は、自然の厳しさよりもものがもののままに存在する自然(じねん)の美しさである。
そうした世界にいる彼らが惹かれあうのも無理はない。
二人の愛は一気に燃え上がり、やがて忘れられない“火傷”となる。
イニスは予定通り結婚し子どもが生まれる。
自分の生活に追われながらも、ジャックを忘れることができない彼は、突然の友人からの誘いに我をも忘れてしまう。
再会の喜びを、熱烈なディープキスで表した二人を目撃してしまった妻は、動揺を隠しきれない。
二人のキスよりも、彼女の動揺こそが二人の絆の強さを反照する。
それは、男同士の恋愛という禁忌であり、差別であり、それを凌駕する愛の深さである。
二人が結ばれたのは、明確に、禁忌の恋だったからだ。
人は禁忌を犯すことで、最大のエロスを感じる。
死を求めてジェットコースターやバンジージャンプにいそしむのも、タナトスの向こう側にあるエロスを感じるためである。
男を愛することが、社会的な死であることは、二人は諒解していた。
けれども、それを越えたところにエロスを見いだしてしまったのだ。
二人の絆は、ジャックにも妻子ができても続く。
老け込むお互いの妻と、成長していく子どもたちが、二人のつながりが継続的であり、かつ断続的であることを暗示する。
傍目からみれば、幸せな家庭であっても、それは二人にとっては地獄でしかない。
幸せな家庭であればあるほど、逃げられないのであり、問題がないと言うことはそのバラ色の鎖が恒久的に継続されてしまうことを意味する。
しかし、二人の関係に破綻が起きる。
それが、イニスの離婚である。
女として扱われない妻が、どれほどの屈辱を感じていたか、それは彼女にしかわからない。
今は同性の結婚も認められるほどに、認知度は高い。
差別もないことはないが、社会的な理解も高まってきた。
だが、当時はそれほど周りは優しくはない。
それを知りながらつきあい続けることが、妻にとってどれほどの侮辱であっただろうか。
黒人と白人が恋に落ちるよりも、遥かに強力なタブーであったに違いない。
イニスが離婚したことは、彼ら自身には朗報だったに違いない。
二人の関係の進展を求めるジャックに対して、同性愛がもつ社会的な危険性を知るイニスは、それに応じることができない。
同性愛者が父親に殺されたエピソードを明かすイニスにとって、父親はやはり超えられない壁(=課題)であった。
イニスはジャックしか愛せなかった。
だが、ジャックはパーソナルな性格として同性愛者だった。
メキシコで男と寝るジャックの行動は、イニスとっては裏切りであった。
イニスが別の女性を抱いても再婚に踏み切れないのは、そのためだ。
もはやほかの男性も、ほかの女性も愛することはできない。
イニスにとって愛とは、抽象的な、誰にでも与えられるものではすでになくなっていたのだ。
やがて二人に転機が訪れる。
「タイヤの破裂で死んだ」と妻が告げるジャックの死は、実は同性愛者を憎む人間らによって殺されてしまったのだ。
おそらくイニスよりも羽振りがよく、ほかの男との関係があり周囲に漏れてしまったのだろう。
結局二人は永遠に結ばれることはなかった。
ジャックの「俺たちにはブロークバック・マウンテンしかなかったんだ!」という叫びは、真実だった。
あの時間、あの場所でしか二人は結ばれることはできなかった。
それは、社会的にも歴史的にも閉ざさされた世界であり、永遠に成就することのない悲運の愛である。
二人の特殊な愛を描きながらも、それでも僕たちの心を打つのは、それが普遍性を伴うものだからだ。
男女の恋であれ、同性の恋であれ、本当に愛するべき人とは添い遂げられないのかもしれない。
愛せない禁忌の相手を愛すること、それが本当の愛なのかもしれない。
愛せない相手を愛そうとする。
それこそ、普遍的で究極の愛なのかもしれない。
イニスは抱きしめ続けるだろう。
あのときの血が残るジャックのシャツとともに、あの山で過ごした時間を。
ヒトは愛する人の残り香を愛するだけでも生きていけるのだ。
本当に愛するべき人を見いだせただけでも、イニスは幸せなのかもしれない。
それは、ヒース・レジャーという役者を亡くしてしまった僕たちも同様なのだろう。
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