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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

私がクマにキレた理由(V)

2010-02-13 21:08:09 | 映画(わ)
評価点:53点/2007年/アメリカ

監督: シャリ・スプリンガー・バーマン&ロバート・プルチーニ

すべてにおいて中途半端なコメディ。

大学で人類学を専攻していたアニー(スカーレット・ヨハンソン)は就職の面接で「あなたを説明してください」といわれ、絶句してしまう。
自分という存在のなさに途方に暮れていたところに、ミセスX(ローラ・リニー)なる貴婦人が現れ、ナニーにならないかと持ちかけられる。
ナニーとは子守兼教育係のことで、白人で恋人がいないアニーはうってつけだとして、スカウトされてしまう。
したい職業が見つからないアニーは当面の職としてナニーになることにするが…。

スカーレット・ヨハンソンがナニー役をするということだけが魅力の映画。
この映画に新たな知見や興奮、示唆、異化効果などを求めてはいけない。
タイトルからもわかるように、この映画は何か特定のメッセージをもっているわけではない。
テレビ局が企画した日本の映画のようなお手軽、かつ安易な映画にすぎない。

それでも観たくなるのはスカーレット・ヨハンソンに魅力を感じられるか、その一点にある。
何も考えないでも楽しめるという点はあるものの、これを女性がともに観たくなるかというとそれも疑わしい。
やはりどこまでも男の視点から描かれた旧態依然の映画である。

まあ、僕は観ましたけれども。

▼以下はネタバレあり▼

まずコメディであるにもかかわらず、最後の最後までドラマの方向性が見えないという点だ。
だから安心して笑えない。
古典的でも陳腐でもいいから物語の土台をしっかりしていれば、もう少しおもしろくなっただろうに、という反実仮想の表現をしきりに言いたくなる。
コメディなのか、ドラマなのか、それはどちらでもいいが、笑えないシーンが多すぎるのは確かだ。
物語がしっかりしていない理由も明白で、この映画には登場人物の一人としてきちんと描かれていないからである。
もっと厳密に言えば、キャラクターとして描き分けさえできていない。
だから、物語がどのように展開するのか、全く方向性が見えてこない。
オチはハッピーエンドのように見えるが、果たしてそうなのか。

主人公のアニーは、自分という存在の不安定さに悩む。
とりあえずと思っていたナニーの職にも、情で流されて、自分のあるべき姿を見失ってしまう。
しかし、いただけないのはそのままずっとずるずると終幕を向かえてしまう点だ。
彼女はナニー先のマンションの上層に住むハーバードに恋されて、彼と結ばれるという結末に至る。
ハッピーエンドに見えるが、彼女は結局飾りものとして愛されているにすぎず、彼女のアイデンティティの確立とはほど遠い結論に至ってしまう。
彼女は自分で道を見いだすこともせず、就職もせず、誰かを能動的に愛するのではなく、相手から愛されるという受動態の形でしか幸せを手に入れない。
もちろん、愛し合っているという能動性はあるものの、結局それは彼女自身が見いだしたのではない。
彼女はやがて10年もすればミセスXになってしまうだろう。
愛されるという形でしか自分を見いだせない彼女に、未来はない。

その未来像であるミセスXも、離婚という形を取ることで丸く収まるかのように見える。
だが、彼女もまた内面を描けていないし、課題を解消するまでに至っていない。
彼女は忙しそうにナニーに育児を任せてしまうが、何で忙しいのかよくわからない。
企業を経営しているのは夫だし、毎日のようにセミナーがあるように執拗に台詞に織り交ぜているが、そこまでセミナーばかり参加しているようにも見えない。
セミナーばかり受けているというのなら、そのセミナーばかり受けたがる要因を取り除かなければ、離婚しても同じ事だ。
夫に愛されたいというのなら、もっとそれを切実に描くべきだし、当然、夫の望むように育児に専念するはずである。
その辺りの彼女のキャラクターの甘さが、結局ラストのカタルシスを減退させる。
課題が示されもしないの、課題を解決したように見せかけるのは、ただその真相から逃げようとしているにすぎない。
ミセスXは、周りに流されて離婚しただけであって、彼女自身の問題を解決したとは言えない。
彼女の問題はやはり成金婦人として生きるのみであって母親になれないという点に問題があるのだろう。
その辺りをいい加減に「よくある成金婦人X」として内面に踏み込まなかったので、課題が中途半端に解決されてしまうのだ。

それは固有名詞を剥奪してしまったことにも理由があるのかもしれない。
ステレオタイプのキャラクターを描きたかったのだろうが、それでは〈個〉に迫れない。
〈個〉に迫らない物語など、何の価値もない。

アニーとミセスXとの対決の見せ方も良くなかった。
クマに仕掛けられたナニーカメラに独白する姿を、セミナーで見せられ解決する。
だが、やはりこれは直接対決するべきだった。
さらに言うなら、言葉のやりとりで対決するべきではなかった。
行動や表情、出来事でミセスXの課題を描き出さないと、どうしても言葉による対決だと軽くなってしまう。
言わない重さを持たせることで、よりいっそうその課題が重くなったはずなのに、残念だ。

そもそも、なぜこのビデオの様子がいきなりあの場面で流されたのかが解せない。
もし中身をミセスX本人が事前に観ていたなら、あの驚きぶりは変だし、何も観ていない映像を講師に渡していきなりあの場で流すのも変だ。
かといって、セミナー講師が事前にアニーが毒づく内容を見ていたのなら、あの場でいきなり流してしまうと、セミナー自体を否定する内容なので、講師が職を失ってしまう。
もしそうなら、少なくともセミナー講師が意図的に流したというような表情を入れるなりして、示唆しておくべきだ。
結局なぜあそこであのビデオが流されたのか意味不明になっている。

そんなことは些細なことだ、というかもしれない。
しかし、この映画にとってあの「対決」は不可欠なシークエンスだったし、あれがなければミセスXが改心することもなかった。
だとすれば、あのビデオがこの映画の最も重要な転換部分だったわけだ。
それを考えると、その対決の演出にはもっとこだわるべきだったはずだ。
あの中途半端な矛盾だらけの対決で、どんなカタルシスが得られるというのだろう。

息子のグレイヤーも、また中途半端だ。
彼もまたよくある両親の愛情不足の少年以上の描写はない。
だから、憎たらしい以上の感情は持てないし、特に演技が上手いわけでもない。
父親をみて飛びつく姿も、もううんざりするぐらい紋切り型のリアクションだし、そうかといって、彼のパーソナリティは描けていない。
少なくとも、父親に昔買ってもらった人形をぼろぼろになるまで大事にしていた、くらいのエピソードがほしかった。
のどに引っかかった骨がないのに苦しんでいるように、課題が見えない。

もちろん、アニーと結ばれる男にも個性がない。
なぜアニーに惚れたのか、見えてこない。
僕をはじめとするスカーレット・ヨハンソンのハイチのチャリティーデートオークションに真剣に入札しにいこうと考えている、彼女のファンならともかくとして、見つけたナニーに惚れる男はいないだろう。
しかもそのナニーには自分で自覚する個性がないのだ。
ナニーに育てられたという経験をさらっと語る彼には、おそらく多くの過去があったのだと想像させるが、それ以上に見えてこない。
担当したグレイヤーを捨てたナニーに、9人のナニーに育てられた男が惚れるとはどういうことだろう。
ナニーに育てられたのならナニーの気苦労を察する台詞の一つでも吐いてもらいたかった。

だが、この映画の命運は、冒頭で決まっていたのかも知れない。
この映画の設定は、アニーがナニーになったことを報告するという形で展開する。
すなわち、語られる話なのである。
よって全ては語りによって提示されるという形をとり、全ては語り手からの説明という極めてクドい野暮ったい展開になる。
グレイヤーと離れる理由をさらっと外側から語られたのには、少なからず閉口した。
語りという手法が駄目というわけではないが、その扱いは注意が必要だ。
少なくとも、語られる話がどんどん相対化するように語られては、見ている方はどんどん物語から遠ざかってしまう。

とにかく中途半端。
安い邦画を観ているかのようなぬるい映画だ。

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