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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

他者はコントロールできない。

2023-11-26 21:33:21 | 毎日コラム
幸運なことに、職場にはかなり多くの「親」がいる。
大学生の親であったり、中学生の親であったり。
子どもが熱を出しても、理解ある職場であると言える。

そういう同僚と話をすると、畢竟、育児や家事、教育の話になる。
「ああ、お子さん、小学生? いいなあ、うちの子なんてもう全く親の言うことなんて聞いてくれないで」
と言うような話になる。
私も、夜泣きに悩む母親と話をしていると、「今が一番おもろいですよ」と先輩ヅラしてみる。

しかし、私は自分の子どもが親の言うことを聞いてくれた日々を全くと言っていいほど思い出せない。
生まれてすぐから夜泣きが一年以上続いて、発達の明らかな遅れの要素があり、今でもいつまでもお風呂に入ってくれず、靴下だけで裸で見えない敵と戦っている。
悪魔の⚪︎歳、天使の⚪︎歳と言われるけれど、いつまで経っても天使の日々は訪れない。
もちろん、毎日天使のような笑顔でご飯を頬張って、仏像のような穏やかな寝顔を見せてくれているが、親の言うことを聞いてくれる、と思ったことがない。

子どもが生まれた時、その生まれてきた子どもを抱いた時、私は、その子が他者であると言うことを明確に意識した。
父親であることも、関係しているだろう。
私の胎から生まれたわけではないから。

しかし、自分の支配下におくべき対象ではない、と言うことは非常に重要であると感じていた。
私は親として子どもたちと常に境界線にい続けることが、まさに親としての役割なのだ、と。
世界と自己、他者と自己、その境界線に親はいる。
そのトポスが、その子を家族以外の人間と触れ合った時の境界線になり、自己を守る壁になる。

その分かり合えなさを共有することが、親の役目なのだろうと。
そしてそれが、便利な装置がたくさんある現代において、私たちを子育てという営みを難しくさせている所以なのだろう。
わからなくていい、わかってもらえなくて良い、というのは子育てという呪いから、少し距離を置くための安全弁であると敢えて考えたい。

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