評価点:82点/2013年/アメリカ/118分
監督:リドリー・スコット
こんな映画、つくるなよ。
カウンセラー(弁護士/マイケル・ファスペンダー)は恋人のローラ(ペネロペ・クルス)との愛を誓い、奮発して大きなダイヤでプロポーズを申し込んだ。
彼は人生の岐路に立っていた。
麻薬の密売に絡み、大金を手にしようとしていたのだ。
組織に一枚かむのかどうか、仕事仲間のライナー(ハビエル・バルデム)と麻薬の仲買人ウェストリー(ブラッド・ピット)はしきりに確認し、彼は裏稼業をする事に決めた。
そんなある日、表の顔である国選弁護人を務める依頼人から「息子がスピード違反で捕まった、保釈金を払って欲しい」と頼まれる。
たった400ドルだったので、それに応じてやるが、それが元でトラブルに発展していく。
マイケル・ファスペンダー、キャメロン・ディアス、ブラッド・ピット、ペネロペ・クルス、そしてハビエル・バルデム。
華キャスティングが目玉のクライム・ムービーである。
脚本はあの「ノーカントリー」で衝撃を与えたコーマック・マッカーシー。
監督はもはや職人芸のリドリー・スコット。
これだけの話題作はそうそうない。
それだけ期待度も上がってしまうというものだ。
「ノーカントリー」を見た人なら、この映画が「安易に飛びついてかまわない」という映画ではないことはわかるだろう。
タイトルも「悪の法則」。
何人かに話題をふってみると、「悪の教典」と勘違いするくらい知名度は低かった。
豪華キャスティングだけが先行しているが中身が見えない。
公開からずいぶん時間が経っていたが、それでも客席はかなり埋まっていた。
見終わった後は最近では珍しいほど、エンドロールで立ち上がる人が目立った。
是非見て欲しい作品だが、きっと理解されない。
ハネケの作品も生半可では見られないが、この映画も生半可な気持ちでは見に行けない。
その理由は見た人にしか理解できないだろう。
見るという選択をした時点で、それはどんな形であれ、この作品に「参加」してしまったことになる、とだけ言っておこう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画は決して難解なものではない。
「ノーカントリー」などと比してもそれほど分かりにくい映画ではないと思う。
むしろ、わかりやすすぎて「受け取れない」映画だ。
理解できないのではなくて、その世界観を受け入れられないのだ。
普通に生きている私たちにはこの映画はきつすぎる。
それはそのままこの映画の完成度が高いからに他ならない。
私はこの映画を見ながら、「ファニーゲーム・USA」を見ているときのように過剰なストレスを受け続けた。
あるいは見終わったあと、エンドロールを眺めながら「セブン」を見たときのような徒労感と絶望感に浸っていた。
いや、それらとは単純に比べることはできない。
けれども、徹底的に打ちのめされるとはこのことか、と久しぶりに後味の悪い、徹底的に後味の悪い映画を観たと思った。
「セブン」よりつらいのは、たった一人の「悪」によるものではないからだ。
そんな病的な、パーソナリティの問題ではないからこそ、この映画は「逃げられない」。
「逃げられない」私をさらに追い打ちをかけるのが、劇中での台詞だ。
「お前、殺人映画(スナッフフィルム)を観たことがあるか。」
「あれを観た時点で、そいつもそのことを関わっているんだ。わかるか?」
「その映画にお金を出しているだから、その制作資金に寄与したってことだ」
私たちはこの映画を観て、徹底的に「私はこの映画は嫌いだ、無関係でいたい」と望むだろう。
しかし、そんな私すらも、この映画を映画館で観てしまった時点で「無関係ではいられない」と突きつける。
一般に、この映画のレビューがどれだけ低かろうと関係がない。
私はもはや「逃げられない」のだ。
ボリートはすでに首に巻かれているのだ。
この映画の恐怖の本質は、そこにある。
話を映画の中身に移そう。
カウンセラーと呼ばれる男は、弁護士という仕事柄、きわどい犯罪者の弁護なども引き受けていたようだ。
しかし、今回ライナーやウェストリーの誘いもあり、麻薬の売買に一枚かむことにする。
具体的にどのような役割を果たすのかは一切明かされない。
しかし、大きなお金を手に入れるために、ということを考えるとかなり重要な役割を担っていたと思われる。
彼は、ローラという婚約者のために、大きなダイヤを購入する。
高級車を乗りこなし、何不自由ないような顔ぶりで彼女と話をしている。
けれども、実際にはその生活は身の丈にあったものではなかったのだ。
彼は危ない橋を渡ってでもその生活水準を維持しようとする。
彼の依頼人である女性の息子がスピード違反をしたことから事態は変化が生まれる。
そのバイカーは麻薬の密売に関与していた。
その保釈金を払ったと事で、彼が釈放され、彼は無残にも殺されてしまう。
マルキナ(キャメロン・ディアス)が麻薬を盗み出そうとしたのだ。
保釈金を払ったことをネタに、麻薬の元締めはカウンセラーに容疑をかけ、彼を仲間に引き入れたウェストリーやライナーまで「裏切り者」として処理していく。
話はごくごく単純だ。
ただし、所々が断片であり、曖昧なところはある。
ローラとマルキナが会って話をする場面はたった一度きりだ。
どれだけマルキナはローラのことを知り、その計画に影響したのかはわからない。
けれども、そのやりとりは印象的であり、マルキナの「恐ろしさ」は十分に伝わるだろう。
結局物語はマルキナの勝利という形で終わり、関係者全員に絶望を与えて終わる。
ほら、至極簡単な映画であることがわかる。
マルキナ以外の人間はすべて因果応報である。
欲を出し続けてとどまるところを知らなかったライナーは最後、最愛の女性に裏切られて殺される。
ウェストリーは自分で説明したボリートによって窒息死する。
その原因となったのはメキシコから来た女性に声をかけてしまったからだ。
彼自身が言っていた「おれは修道院でも生きていける」ということばを守ることはできなかったのだ。
カウンセラーにはもっと強烈な絶望が待っていた。
生きながらえることはできたが、妻だったローラを失ってしまう。
しかも、もっとも残酷な方法で殺され、もっとも残酷な方法でそのことが伝えられる。
元はと言えば、安易にこの世界に入り込んでしまった彼が「悪い」のだ。
この三人は残酷な、壮絶な絶望を与えられる。
だが、もっと残酷なのはその報復が全く意味がないということだ。
なぜなら、三人は事実として裏切っていないというだけではない。
麻薬は予定通りシカゴに到着し予定通り売買されたからだ。
つまりメキシコ(マフィア?)はまったく「損」していない。
彼らの死は全く意味がなかったのだ。
それはドラム缶に詰められた大陸を縦断する死体のようなものだ。
意味なんてない。
「悪ふざけ」なのだ。
胸くそ悪くなり、まったく救いどころがないのは、この映画がどこにも「ルール」なるものがないからだ。
「セブン」では一つの物語が完成するかのように、一つのテーゼのなかに全てが収まるように事件が画策されていた。
どれだけ残酷であろうと、そこには完結性があった。
たとえるなら、きちんと丁寧に蓋で閉じられていたのだ。
だからその箱を空けた衝撃はあっても、それは再び「閉じてしまえばいい」。
私たちはあの映画をみて、衝撃を受けても、再び自己の生活に戻れるのはそうした理由がある。
「だってケヴィン・スペイシーはいないもの」といって日常に戻ることができる。
しかし、この映画はそれができない。
いつどのような形でその「災い」が降りかかり、「罪」を背負わされるのかわからない。
それが自分の選択であったというのは後にしかわからないのだ。
なぜなら、私たちが日常頼りにしているはずの「ルール」そのものがないからだ。
この映画は巧みに私たちを誘導していく。
「すでに選択は終わっていたのだ。
あとはその運命がどうしようもないということを知りながら生きていくしかない。
それが死よりも苦しいことであったとしても。」
全く救いのない言葉の後に、「もう電話を切るよ、昼寝もしたいし」と言われる。
カウンセラーが唯一頼りにできる人間であっても「昼寝」よりもその運命は軽いのだ。
残酷な描写が多いから、この映画はとてもつらい映画となっている。
けれども、その残酷さはいわゆるホラーとしての怖さではない。
そこには「なんの救いもない」怖さだ。
しかし、先ほども言ったようにこの映画は、エンドロール後、それを安易に閉じさせてはくれない。
明確な「終わり」がなく(完結性がなく)、個人の問題でもなく、法則もないからだ。
そして何より、この映画をカウンセラーという個人名を剥奪された主人公に感情移入し、映画館にお金を払わせることで「参加」させているからだ。
固有名詞を剥奪された主人公に対して、徹底的な絶望を与えるマフィアのボスは名前どころか存在さえ明かされない。
この普遍性は、私たちを徹底的に物語の中に埋め込み、物語を深く刻み込ませる。
こんな映画の評価があがるはずがない。
ぞっとするほど徹底的な映画なのだ。
監督:リドリー・スコット
こんな映画、つくるなよ。
カウンセラー(弁護士/マイケル・ファスペンダー)は恋人のローラ(ペネロペ・クルス)との愛を誓い、奮発して大きなダイヤでプロポーズを申し込んだ。
彼は人生の岐路に立っていた。
麻薬の密売に絡み、大金を手にしようとしていたのだ。
組織に一枚かむのかどうか、仕事仲間のライナー(ハビエル・バルデム)と麻薬の仲買人ウェストリー(ブラッド・ピット)はしきりに確認し、彼は裏稼業をする事に決めた。
そんなある日、表の顔である国選弁護人を務める依頼人から「息子がスピード違反で捕まった、保釈金を払って欲しい」と頼まれる。
たった400ドルだったので、それに応じてやるが、それが元でトラブルに発展していく。
マイケル・ファスペンダー、キャメロン・ディアス、ブラッド・ピット、ペネロペ・クルス、そしてハビエル・バルデム。
華キャスティングが目玉のクライム・ムービーである。
脚本はあの「ノーカントリー」で衝撃を与えたコーマック・マッカーシー。
監督はもはや職人芸のリドリー・スコット。
これだけの話題作はそうそうない。
それだけ期待度も上がってしまうというものだ。
「ノーカントリー」を見た人なら、この映画が「安易に飛びついてかまわない」という映画ではないことはわかるだろう。
タイトルも「悪の法則」。
何人かに話題をふってみると、「悪の教典」と勘違いするくらい知名度は低かった。
豪華キャスティングだけが先行しているが中身が見えない。
公開からずいぶん時間が経っていたが、それでも客席はかなり埋まっていた。
見終わった後は最近では珍しいほど、エンドロールで立ち上がる人が目立った。
是非見て欲しい作品だが、きっと理解されない。
ハネケの作品も生半可では見られないが、この映画も生半可な気持ちでは見に行けない。
その理由は見た人にしか理解できないだろう。
見るという選択をした時点で、それはどんな形であれ、この作品に「参加」してしまったことになる、とだけ言っておこう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画は決して難解なものではない。
「ノーカントリー」などと比してもそれほど分かりにくい映画ではないと思う。
むしろ、わかりやすすぎて「受け取れない」映画だ。
理解できないのではなくて、その世界観を受け入れられないのだ。
普通に生きている私たちにはこの映画はきつすぎる。
それはそのままこの映画の完成度が高いからに他ならない。
私はこの映画を見ながら、「ファニーゲーム・USA」を見ているときのように過剰なストレスを受け続けた。
あるいは見終わったあと、エンドロールを眺めながら「セブン」を見たときのような徒労感と絶望感に浸っていた。
いや、それらとは単純に比べることはできない。
けれども、徹底的に打ちのめされるとはこのことか、と久しぶりに後味の悪い、徹底的に後味の悪い映画を観たと思った。
「セブン」よりつらいのは、たった一人の「悪」によるものではないからだ。
そんな病的な、パーソナリティの問題ではないからこそ、この映画は「逃げられない」。
「逃げられない」私をさらに追い打ちをかけるのが、劇中での台詞だ。
「お前、殺人映画(スナッフフィルム)を観たことがあるか。」
「あれを観た時点で、そいつもそのことを関わっているんだ。わかるか?」
「その映画にお金を出しているだから、その制作資金に寄与したってことだ」
私たちはこの映画を観て、徹底的に「私はこの映画は嫌いだ、無関係でいたい」と望むだろう。
しかし、そんな私すらも、この映画を映画館で観てしまった時点で「無関係ではいられない」と突きつける。
一般に、この映画のレビューがどれだけ低かろうと関係がない。
私はもはや「逃げられない」のだ。
ボリートはすでに首に巻かれているのだ。
この映画の恐怖の本質は、そこにある。
話を映画の中身に移そう。
カウンセラーと呼ばれる男は、弁護士という仕事柄、きわどい犯罪者の弁護なども引き受けていたようだ。
しかし、今回ライナーやウェストリーの誘いもあり、麻薬の売買に一枚かむことにする。
具体的にどのような役割を果たすのかは一切明かされない。
しかし、大きなお金を手に入れるために、ということを考えるとかなり重要な役割を担っていたと思われる。
彼は、ローラという婚約者のために、大きなダイヤを購入する。
高級車を乗りこなし、何不自由ないような顔ぶりで彼女と話をしている。
けれども、実際にはその生活は身の丈にあったものではなかったのだ。
彼は危ない橋を渡ってでもその生活水準を維持しようとする。
彼の依頼人である女性の息子がスピード違反をしたことから事態は変化が生まれる。
そのバイカーは麻薬の密売に関与していた。
その保釈金を払ったと事で、彼が釈放され、彼は無残にも殺されてしまう。
マルキナ(キャメロン・ディアス)が麻薬を盗み出そうとしたのだ。
保釈金を払ったことをネタに、麻薬の元締めはカウンセラーに容疑をかけ、彼を仲間に引き入れたウェストリーやライナーまで「裏切り者」として処理していく。
話はごくごく単純だ。
ただし、所々が断片であり、曖昧なところはある。
ローラとマルキナが会って話をする場面はたった一度きりだ。
どれだけマルキナはローラのことを知り、その計画に影響したのかはわからない。
けれども、そのやりとりは印象的であり、マルキナの「恐ろしさ」は十分に伝わるだろう。
結局物語はマルキナの勝利という形で終わり、関係者全員に絶望を与えて終わる。
ほら、至極簡単な映画であることがわかる。
マルキナ以外の人間はすべて因果応報である。
欲を出し続けてとどまるところを知らなかったライナーは最後、最愛の女性に裏切られて殺される。
ウェストリーは自分で説明したボリートによって窒息死する。
その原因となったのはメキシコから来た女性に声をかけてしまったからだ。
彼自身が言っていた「おれは修道院でも生きていける」ということばを守ることはできなかったのだ。
カウンセラーにはもっと強烈な絶望が待っていた。
生きながらえることはできたが、妻だったローラを失ってしまう。
しかも、もっとも残酷な方法で殺され、もっとも残酷な方法でそのことが伝えられる。
元はと言えば、安易にこの世界に入り込んでしまった彼が「悪い」のだ。
この三人は残酷な、壮絶な絶望を与えられる。
だが、もっと残酷なのはその報復が全く意味がないということだ。
なぜなら、三人は事実として裏切っていないというだけではない。
麻薬は予定通りシカゴに到着し予定通り売買されたからだ。
つまりメキシコ(マフィア?)はまったく「損」していない。
彼らの死は全く意味がなかったのだ。
それはドラム缶に詰められた大陸を縦断する死体のようなものだ。
意味なんてない。
「悪ふざけ」なのだ。
胸くそ悪くなり、まったく救いどころがないのは、この映画がどこにも「ルール」なるものがないからだ。
「セブン」では一つの物語が完成するかのように、一つのテーゼのなかに全てが収まるように事件が画策されていた。
どれだけ残酷であろうと、そこには完結性があった。
たとえるなら、きちんと丁寧に蓋で閉じられていたのだ。
だからその箱を空けた衝撃はあっても、それは再び「閉じてしまえばいい」。
私たちはあの映画をみて、衝撃を受けても、再び自己の生活に戻れるのはそうした理由がある。
「だってケヴィン・スペイシーはいないもの」といって日常に戻ることができる。
しかし、この映画はそれができない。
いつどのような形でその「災い」が降りかかり、「罪」を背負わされるのかわからない。
それが自分の選択であったというのは後にしかわからないのだ。
なぜなら、私たちが日常頼りにしているはずの「ルール」そのものがないからだ。
この映画は巧みに私たちを誘導していく。
「すでに選択は終わっていたのだ。
あとはその運命がどうしようもないということを知りながら生きていくしかない。
それが死よりも苦しいことであったとしても。」
全く救いのない言葉の後に、「もう電話を切るよ、昼寝もしたいし」と言われる。
カウンセラーが唯一頼りにできる人間であっても「昼寝」よりもその運命は軽いのだ。
残酷な描写が多いから、この映画はとてもつらい映画となっている。
けれども、その残酷さはいわゆるホラーとしての怖さではない。
そこには「なんの救いもない」怖さだ。
しかし、先ほども言ったようにこの映画は、エンドロール後、それを安易に閉じさせてはくれない。
明確な「終わり」がなく(完結性がなく)、個人の問題でもなく、法則もないからだ。
そして何より、この映画をカウンセラーという個人名を剥奪された主人公に感情移入し、映画館にお金を払わせることで「参加」させているからだ。
固有名詞を剥奪された主人公に対して、徹底的な絶望を与えるマフィアのボスは名前どころか存在さえ明かされない。
この普遍性は、私たちを徹底的に物語の中に埋め込み、物語を深く刻み込ませる。
こんな映画の評価があがるはずがない。
ぞっとするほど徹底的な映画なのだ。
再び忙しくなっております。
明日明後日で少しは落ち着くかと思います。
見たい映画がたまってきたのでそろそろまとめて行きます。
>通りすがりの一映画ファンですさん
返信が大変遅くなり申し訳ありません。
感性不足、というのはちょっと違うかもしれません。
この映画は本当に人を選ぶ映画です。
私は好きか嫌いかと言われれば嫌いだと即答します。
ただ、うまくは撮られていると感じます。
うまく感じるってことは、私とこの映画は相性がいいのかもしれません。
う~ん、難しいですが、やはり私は「好き」なのかもしれませんね。
まあ、単純におもしろかった、おもしろくなかったと言い合えばいいんじゃないでしょうか。
エンドロールが始まった瞬間の自分の感覚がもっとも大事な瞬間だと私はおもっています。
なるほど 。このレビューを先に読んでみると良かったかもしれません。 この作品に
関しては結果としてスジがネタバレしててもそれ自身にあまり意味ないと思いますし。
私としては作品自体の力不足でsecret boots さんが嗅ぎ取った類の恐怖に沢山の観る側を引きずり込めなかったんではないかと思います。所々に工夫はしていたと思いますが(スペイン語字幕無し等々)
しかしながら作った側は僕の感性不足とするのでしょうなあ(^^;