評価点:77点/2002年/アメリカ
監督:ダニー・ボイル
怖い、だけじゃない。
動物保護団体のメンバーがケンブリッジにある研究施設に侵入、実験中であった猿を逃がしてしまう。
しかし、その猿は原因不明のウイルスのワクチンを作るために、ウイルスに感染している猿だった。
猿は保護団体のメンバーに噛み付く…。
それから28日後、ロンドンの病院で目覚めたジムは、街の様子が異常なことに気づく。
住人を探すため歩き回ると、狂った神父が襲ってきた。
必死で逃げたジムを助けたのは、「生きた人間を見たのは六日ぶりだ」というセリーナとマークであった。
ジムは二人から原因不明のウイルスにより、ロンドンの住人に避難勧告が出たことを告げられる…。
「ドーン・オブ・ザ・デッド」の公開時、インターネットのレビュー・サイトに、「「28日後…」のほうがおもしろい」という書き込みが多くあったので、非常に気になっていた。
超大作ではないので、話題にはあまりならなかったようだから、知っている人は少ないかもしれない。
けれど、非常に面白い作品になっている。
▼以下はネタバレあり▼
まず気をつけたいのは、純粋な意味でのホラーではないということ。
まして「ゾンビ」とは全く違う。
手法などは「ゾンビ」から多くの示唆を受けているのだろうが、「ゾンビ」の「一旦死ぬ」という設定がないため、根本的に違う。
そもそも、先ほど言ったように、この作品はホラーをめざした作品ではない。
モティーフにホラーがもちいられているのだが、テーマは「人間性」にあるだろう。
そのあたりを間違って観てしまうと、観た後物足りなさを感じてしまうだろう。
本作では「怖がらせるための映画」をめざしているのではなく、「怖いということを見せることによって」映画として成り立たせているのである。
この映画の最大の成功しているポイントは、逃げ惑う住民を描かなかったことだ。
事件の発端からいきなり28日間も飛ばしてしまう。
街に残っているのは、人々のいない建物だけ。
誰もいない人のための建造物は、非常に怖い。
この演出によっても、単なるホラーとは違うことをうかがわせる。
この映画のテーマである人間性を分かりやすく説明するために、四人が兵士たちがいる館に行く前と、館での出来事、という対比で考えよう。
それがこの作品においての決定的な構造をなしているとまでは言いがたいが、この対比で考えることによって、より人間性を分かりやすくみることができるだろう。
マークを失ったセリーナとジムは、ビルに電気の点滅を見つける。
その点滅はフランクとその娘ハンナのものだった。
彼らは、水も食料も乏しいため、10日前からラジオで流れている兵士たちの呼びかける場所に行くことにする。
彼らは、大量の感染者たちから逃げるという極限の状態にあるにもかかわらず、ショッピングモールで買い物をしたり、牧場でつかの間の晩餐を楽しんだりする。
彼らは、どこからいつ襲ってくるかわからないという野外で、真に開放的になる。
それを象徴しているのが、自然の美しい描写である。
馬や芝生、そして咲き乱れる花。
これらの自然は非常に美しく撮られている。
それは「アザーズ」の二コール・キッドマンなどの、美しいがゆえに怖い、といった描写ではない。
光に溢れた自然の風景は、本当に美しい。
また、セリーナが生きる目的について問い直すという台詞も、彼らの前向きで解放的な心理状況を表わしている。
やがて兵士たちが指定した場所に彼ら四人はたどり着く。
フランクはここで命を落としてしまう。
隠れていた兵士たちに案内されたのは、完璧に警備された館だった。
しかし、その完璧さもやがて崩壊してしまうのである。
この館でのシークエンスは、四人での旅の様子とは逆になる。
まず、兵士たちはライフル銃を構えているにもかかわらず、非常に怯えている。
まわりに地雷を生め、完全な警備体制を整えている。
それはほんとうに完璧に見える。
しかし、それは感染者への極度の恐れの裏返しである。
銃を持つことで、兵士という訓練を受けることで、恐怖が増幅されているのである。
四人での旅とは違い、一気に閉鎖性を帯びる点にも表われている。
また、この館で最も象徴的なシーンは、晩餐である。
事件以来、めったに食べることの出来ないオムレツが食卓に並ぶ。
しかし、少佐が口にした瞬間、それが腐った卵であることが分かる。
ここで一気に兵士たちの顔色が変わる。
この卵は、この館の実態そのものである。
オムレツはめったに食べることができない料理である。
一見とてもおいしそうにみえる。
しかし、中身は腐っているのである。
ロンドンが崩壊した今、兵士たちが守る館など、イングランドにはまずありえない。
そしてその館は、非常に上手くいっているように見える。
しかし、「中身は腐っている」のである。
精神的に極限の状態である兵士たちは、セリーナとハンナを求める。
(ここで二人が名前ではなく、「二人の女」と呼ばれるのも象徴的だ。)
そして、外からの感染者の攻撃ではなく、人間同士の殺し合いが始まる。
ジムたちは、より多くの人間を求めて、安全な地を求めて館にたどり着く。
しかし、人間が多くなることによって、逆に組織は不安定になっていく。
兵士たちは美しい館を持ちながら、その美しさには気づかない。
綺麗に刈られた芝生には、地雷を埋めてしまう。
それは彼らに精神的な余裕がないことを表わしている。
四人は信頼が人と人とをつなぎとめていた。
館では、恐怖が人と人とをつなぎとめているのである。
よって、ウイルス感染は、単なるモティーフにすぎない。
あるいは舞台(シチュエーション)にすぎない。
物語は、人間性にある。
ゾンビとは違って死なずに感染するということも重要だ。
人間が、人間性を捨てた者=感染者なのだ。
四人も館の兵士もやはり人間ということになろう。
とても面白く作られている。
とくに、美しい自然の描写は、本当に上手い。
この映画を影で支えている描写といってもいい。
しかし、不満もある。
旅の中のセリーナの心理描写が不十分だった。
自身の過去を吐露したり、心情を直接的に語ってもよかっただろう。
逆に、館での兵士たちの心理描写や設定の見せ方は非常によかった。
さすが「トレインスポッティング」のダニー・ボイルである。
(いや、まだ観てないんだけどね。)
(2004/9/18執筆)
監督:ダニー・ボイル
怖い、だけじゃない。
動物保護団体のメンバーがケンブリッジにある研究施設に侵入、実験中であった猿を逃がしてしまう。
しかし、その猿は原因不明のウイルスのワクチンを作るために、ウイルスに感染している猿だった。
猿は保護団体のメンバーに噛み付く…。
それから28日後、ロンドンの病院で目覚めたジムは、街の様子が異常なことに気づく。
住人を探すため歩き回ると、狂った神父が襲ってきた。
必死で逃げたジムを助けたのは、「生きた人間を見たのは六日ぶりだ」というセリーナとマークであった。
ジムは二人から原因不明のウイルスにより、ロンドンの住人に避難勧告が出たことを告げられる…。
「ドーン・オブ・ザ・デッド」の公開時、インターネットのレビュー・サイトに、「「28日後…」のほうがおもしろい」という書き込みが多くあったので、非常に気になっていた。
超大作ではないので、話題にはあまりならなかったようだから、知っている人は少ないかもしれない。
けれど、非常に面白い作品になっている。
▼以下はネタバレあり▼
まず気をつけたいのは、純粋な意味でのホラーではないということ。
まして「ゾンビ」とは全く違う。
手法などは「ゾンビ」から多くの示唆を受けているのだろうが、「ゾンビ」の「一旦死ぬ」という設定がないため、根本的に違う。
そもそも、先ほど言ったように、この作品はホラーをめざした作品ではない。
モティーフにホラーがもちいられているのだが、テーマは「人間性」にあるだろう。
そのあたりを間違って観てしまうと、観た後物足りなさを感じてしまうだろう。
本作では「怖がらせるための映画」をめざしているのではなく、「怖いということを見せることによって」映画として成り立たせているのである。
この映画の最大の成功しているポイントは、逃げ惑う住民を描かなかったことだ。
事件の発端からいきなり28日間も飛ばしてしまう。
街に残っているのは、人々のいない建物だけ。
誰もいない人のための建造物は、非常に怖い。
この演出によっても、単なるホラーとは違うことをうかがわせる。
この映画のテーマである人間性を分かりやすく説明するために、四人が兵士たちがいる館に行く前と、館での出来事、という対比で考えよう。
それがこの作品においての決定的な構造をなしているとまでは言いがたいが、この対比で考えることによって、より人間性を分かりやすくみることができるだろう。
マークを失ったセリーナとジムは、ビルに電気の点滅を見つける。
その点滅はフランクとその娘ハンナのものだった。
彼らは、水も食料も乏しいため、10日前からラジオで流れている兵士たちの呼びかける場所に行くことにする。
彼らは、大量の感染者たちから逃げるという極限の状態にあるにもかかわらず、ショッピングモールで買い物をしたり、牧場でつかの間の晩餐を楽しんだりする。
彼らは、どこからいつ襲ってくるかわからないという野外で、真に開放的になる。
それを象徴しているのが、自然の美しい描写である。
馬や芝生、そして咲き乱れる花。
これらの自然は非常に美しく撮られている。
それは「アザーズ」の二コール・キッドマンなどの、美しいがゆえに怖い、といった描写ではない。
光に溢れた自然の風景は、本当に美しい。
また、セリーナが生きる目的について問い直すという台詞も、彼らの前向きで解放的な心理状況を表わしている。
やがて兵士たちが指定した場所に彼ら四人はたどり着く。
フランクはここで命を落としてしまう。
隠れていた兵士たちに案内されたのは、完璧に警備された館だった。
しかし、その完璧さもやがて崩壊してしまうのである。
この館でのシークエンスは、四人での旅の様子とは逆になる。
まず、兵士たちはライフル銃を構えているにもかかわらず、非常に怯えている。
まわりに地雷を生め、完全な警備体制を整えている。
それはほんとうに完璧に見える。
しかし、それは感染者への極度の恐れの裏返しである。
銃を持つことで、兵士という訓練を受けることで、恐怖が増幅されているのである。
四人での旅とは違い、一気に閉鎖性を帯びる点にも表われている。
また、この館で最も象徴的なシーンは、晩餐である。
事件以来、めったに食べることの出来ないオムレツが食卓に並ぶ。
しかし、少佐が口にした瞬間、それが腐った卵であることが分かる。
ここで一気に兵士たちの顔色が変わる。
この卵は、この館の実態そのものである。
オムレツはめったに食べることができない料理である。
一見とてもおいしそうにみえる。
しかし、中身は腐っているのである。
ロンドンが崩壊した今、兵士たちが守る館など、イングランドにはまずありえない。
そしてその館は、非常に上手くいっているように見える。
しかし、「中身は腐っている」のである。
精神的に極限の状態である兵士たちは、セリーナとハンナを求める。
(ここで二人が名前ではなく、「二人の女」と呼ばれるのも象徴的だ。)
そして、外からの感染者の攻撃ではなく、人間同士の殺し合いが始まる。
ジムたちは、より多くの人間を求めて、安全な地を求めて館にたどり着く。
しかし、人間が多くなることによって、逆に組織は不安定になっていく。
兵士たちは美しい館を持ちながら、その美しさには気づかない。
綺麗に刈られた芝生には、地雷を埋めてしまう。
それは彼らに精神的な余裕がないことを表わしている。
四人は信頼が人と人とをつなぎとめていた。
館では、恐怖が人と人とをつなぎとめているのである。
よって、ウイルス感染は、単なるモティーフにすぎない。
あるいは舞台(シチュエーション)にすぎない。
物語は、人間性にある。
ゾンビとは違って死なずに感染するということも重要だ。
人間が、人間性を捨てた者=感染者なのだ。
四人も館の兵士もやはり人間ということになろう。
とても面白く作られている。
とくに、美しい自然の描写は、本当に上手い。
この映画を影で支えている描写といってもいい。
しかし、不満もある。
旅の中のセリーナの心理描写が不十分だった。
自身の過去を吐露したり、心情を直接的に語ってもよかっただろう。
逆に、館での兵士たちの心理描写や設定の見せ方は非常によかった。
さすが「トレインスポッティング」のダニー・ボイルである。
(いや、まだ観てないんだけどね。)
(2004/9/18執筆)
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