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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

村上春樹「騎士団長殺し」

2017-05-31 17:12:43 | 読書のススメ
言わずもがな、村上春樹の長編小説である。

画家である「私」は、依頼をうけて肖像画を描くという仕事をしていた。
そんなある日、6年間連れ添った妻から一方的に「もうこれ以上一緒に暮らすことはできない」と告げられる。
放浪の旅に出た後、彼が行き着いたのは大学時代からの友人の雨田の父が住んでいた小田原の家だった。
創作活動にもどれないで白いキャンバスを前に立ち止まっていた「私」に、莫大な金額による肖像画の依頼の電話が入る。

もちろん、初版で買った。
すぐに読むには中途半端にしていた作品があったので、結局この時期になった。
それでも、ネタバレされてしまう前に読まないと、あるいは私の周りにいる春樹好きな人と話をするためには、できるだけ早く読んでしまおうと予定をすっ飛ばして手に取った。

春樹好きか嫌いかによって評価が分かれるのは、いつも通りだ。
そろそろ批判するために読むのは止めたら良いのに、と思うが、そういうわけにもいかないらしい。
私は学生時代、春樹を研究対象にしていたので、読まないわけにはいかない。
最近はフリークと言われるほどは読んでいないので、もはや研究者の端くれにもなれないだろう。

春樹について語りたがる人は多い。
私もその一人として、少しだけ書いてみよう。

▼ネタバレあり▼

「風の歌を聴け」から、「騎士団長殺し」まで、たいていの創作小説は読んでいる。
逆にエッセイや翻訳ものはほとんど読んでいない。
研究するとき、作家論の立場を取らなかったので、あえて読みを左右される内容をシャットアウトしたかったからだ。
だから春樹フリークのみなさんには、下の内容は物足りないかもしれない。

私が「1Q84」を読んだとき、三人称視点になっていることが嬉しかった。
私が研究していたときの仮説として、村上春樹は語りの位相を探している、と指摘していたからだ。
一人称視点の「風の歌」から、「ノルウェイ」、「世界の終わり」、「アフターダーク」などの作品を発表するに従って、一人称視点から三人称視点へと語りの位相を追求しているのだろうと考えていた。
そして、その集大成として「1Q84」がいよいよ三人称視点でも「違和感のない語り」が実現した。
それについてはその記事を読んでもらおう。

そして、気になっていたのは彼は次にどこへ向かうのか、ということだった。
あれほどの長編を、そして文体と語り、物語を三人称視点へと昇華させたとき、彼が次に何模索するのだろうと、考えていた。

彼が描いたのは、「画家」だった。
どこかの作家が「ピアニスト」を描いたことでなにやら大賞をとったらしい。
音楽を克明に文字にすることが、評価されたというのだ。
村上春樹は「画家」を選んだ(もちろん、そこに物語があるからだが)。

文章は線条的な表現媒体である。
要するに、表現するには時間が掛かるということだ。
逆に空間は要しない。
絵画はその逆で、空間的表現であり、鑑賞するのに時間はかからない。
見た瞬間にその表現を理解することができる。
その意味で、真逆である。
絵を文字にするのは、ある意味挑戦であり、一つのゴールにもなりうる。

文章表現としてどれだけ絵画に接近できるのか、そこにある表現としての可能性を追求しようとしたと私は読んだ。
これだけ売れながら、村上春樹という作家は、自分なりのテーマを模索しつづけている、ということは間違いない。
森博嗣のような「所得を得るための作家」ではなく、「文学の担い手としての作家」であると私は思う。

物語としては、非常にシンプルだ。
別れを告げられた「私」が、妻と寄りを戻すまでの物語。
よくある話と言えば、よくある話だ。
東京から離れ、小田原に住み、そして東京に戻る物語。
日常・非日常・日常の往来の物語ともいえる。
もう一つ、「穴」に籠もり、そこから抜け出してくる物語、でもある。

その中で絵を描くことについて、その意味や本質について問い直す物語にもなっている。
36歳というのは、人生の折り返し地点として設定したものだろう。
「私」はその8ヶ月の時間を通して、もう一度自分の位置を問い直す。
画家としても、男としても、夫としても、そして「父」になることになる。

私は読みながら、なぜか「雨の日は会えない、晴れの日は君を想う」という映画を思い出していた。
妻を愛するために必要な物語を、通過儀礼として「私」は経験したのだろう。

これだけ話がシンプルなのに、500頁を越える分量が2冊だ。
読んでいるときには、最初はやはりもって回った言い方に対する違和感、そしてしだいにぐいぐい引き込まれる感覚。
画家を描く小説家という側面と、もう一つの村上春樹の挑戦はことばの力と、目に見えないものの力の問い直しではないかと思う。

私たちの生きる現代は、言葉が軽んじられている。
映像や音など直接的な表現(それはむしろ表現ですらないのかもしれないが)が流布されて、言葉によって何かを認識し、言葉によって何かを思考するということがずいぶん脆弱化している。
そのことを取り戻そうとしているかのような文章だ。
内容的にそれほど入り組んだ話でないのに、長編となっているのも、言葉によってなんとか目の前の出来事を表現するためにどうすればいいのかを考え尽くした挙げ句、あのようなやたらと比喩が多い文体になったのではないか。
それは言葉遣いというよりは、むしろ言葉を通した「身体感覚」のようなものなのかもしれない。

そこには不思議な、超自然的な出来事も起こる。
目に見えるものだけ、実際的なものだけを信じるようになった私たちへの問いかけでもあるだろう。

この本を読んでいるとき、読み終わった後は、世界を言葉で表現したくなる。
それは、文学の定義を「異化効果があること」としている私の考えと矛盾しない。
言葉による認識や思考、伝達がいかにして可能なのか。
その追求を続ける限り、彼は「文学者」なのだと私は思う。

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