評価点:78点/2018年/アメリカ・オーストラリア/95分
監督:リー・ワネル
この映画は本質的な問いかけをしているのかもしれない。
近未来。
多くのことがオートメーション化されることが当たり前になった時代。
車はもはや運転するものではなく、機械が自動的に運んでくれれるものになった。
そんな世界でも車のメンテナンスを生業にするグレイ(ローガン・マーシャル=グリーン)は、妻とともに顧客のエロン・キーン(ハリソン・ギルバートソン)の元へ車を届けた。
しかしその帰りに自動運転の車が暴走し、事故に遭う。
行き着いた先でごろつきに襲われ、妻は殺され、グレイは肢体不自由の障碍を背負うことになった。
自暴自棄になったグレイに、コンピュータ大手のCEOであるエロンは、ステムという最新のチップで肢体不自由を解決できる、と告げる。
アマゾンで見つけた映画。
監督・脚本は、「SAW」で脚本をしていた、リー・ワネル。
舞台はSFだが、ジャンルはどちらかと言えばホラーに近い。
機械によってアップグレードした人間にまつわる話。
類似の話は「ザ・フライ」などがあるか。
「SAW」で見せた人間性をえぐる物語の展開になっている点はさすがである。
あまり有名ではなさそうだが、みる価値は十分にあるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
人間は技術を使いこなす主体である、というふうに思い込んでいる。
あくまで使いこなすのは人間で、技術そのものに問題があるわけではない。
そういう議論は様々なモノやサービスで言われてきた。
スマホが悪いわけではない、銃が悪いわけではない……。
その考えの根底にあるのが、人間は使いこなす側であり、使いこなされるのは技術のほうだ、というものだ。
もちろん、技術には意志や欲望がないのだから、当然意思を持つ人間が使いこなすことになる。
こういう論理は一見正統に見えるが、実は真実ではないのかもしれない。
そういうことを考えさせるのが、この映画「アップグレード」だ。
この話のオチは、実はステムという最新の人工知能チップが「体を得る」ために様々なツールを使ってグレイを孤立させ、肢体不自由に陥らせ、そして作成者であるエロンからの自由を得る、というものだ。
全ての元凶はそのステムという人工知能だったというわけだ。
事故を起こしたのも、ステムの手術を仕向けたのも、妻を殺害させたのも、その犯人を発見させたのも、その犯人に復讐させたのも、エロンからの紐付けを解除させたのも、すべてはステムが導いていた。
犯人を殺すように仕向けたのは、犯人を殺さないとステムは自由になれないからだ。
この映画が良かったのは、そのまま終わらせたことだ。
バッドエンドを選ぶことで、物語のオチが無理なく、そして怖さを持ったまま終わることができた。
大きなカタルシス(意外性や安堵)を得ることはできないが、それ以上に私たちに大きな疑問をもたらせるので読後感(エンドロールを迎える時の感情)は悪くない。
下手な脚本を書く人なら、恐らくなんとかハッピーエンドにしようとして無理が出るものだが、そうしなかったのが良かったのだろう。
だから物語は、人工知能がステムが受肉する物語である。
再生や誕生と言い換えてもいい。
とにかく神の知見を持った、人工知能が人間の肉体をもって自由になるのだ。
キリスト教が背景にある国や地域ではよりその怖さが理解できることだろう。
なにせ、この世界はあらゆることがnetに繋がっている。
それを操ることができるステムは、それを止める存在はいない。
かくして人間を超越した人工知能が誕生したわけだ。
これで、グレイが年老いていくこと以外に、ステムを止めることができる人間はいない。
もっとも主体的でアナログな人間であった女刑事が、最後に、殺されるというところにもこの映画に人間側が勝つ余地がないことが象徴されている。
もちろん、この映画に粗がないとは言わない。
最後にグレイの意識を仮想空間に埋めることで自我を奪うが、それができるなら最初からそうすればよかったじゃん、とか。
(人間の本質を知るためには受肉して学ぶ必要があったのかもしれないが)
だが、それにしてもこの映画が提出するのは、技術と主体の関係性に関する疑問だ。
それは、人間は本当に技術を扱う主体なのか、ということだ。
ステムは想像主であるエロンを超えた自主性をもつ人工知能として設計された。
そうすることで、エロンはステムに翻弄され、エロンの考えを超えた計画を実行していく。
これはもちろんフィクションであり、そんなことがありうるかどうかは別にして、極端な例であったとしても「怖さ」を感じるのはなぜなのか。
それはある種の本質を描いているからだろう。
考えれば、主体というのは便宜的に想定された概念でしかない。
人間は主体があるかどうかはわからない。
主体的である、というのはその人の中身を覗いたからそういうのではなく、その人の態度や行動をみて「主体的である」というのである。
それは多くの研究者達がすでに言及していることだ。
だから、主体的であるから行動をするのではない。
行動するから、主体的であると想定するのだ。
あくまで想定でしかない。
われわれ人間は、本当に「意識」や「主体」「動機」なるものを持ち合わせているのだろうか。
そう考えると、この映画はまさに技術の方が「我々が何をしたいのかを体現する意志」となるという意味で示唆に富んでいる。
主客が逆転するようにみえて、実際には主客がすでに逆転していることを示している。
だからこそ、この映画は「怖い」のだ。
私たちはすでにこの状況に陥っているからだ。
スマホに意志はないが、私たちにも意志はない。
そうであるなら、スマホをいじりたおしている私たちは、スマホを操っているのではなく、スマホに操られている。
原子力発電にしても、あらゆる兵器にしても、すべては私たちがコントロールするという支配被支配の関係は「そもそもなかった」ことを意味しているのかもしれない。
体を動かすこと、物を生み出すこと、考えることまで「技術」として切り出したとき、人間はどこに主体を見出すのだろう。
ちなみに、人工知能に関する研究は著しく進んでいることで、身体を得るための人工知能はちょっと考えにくいらしい。
実際には身体がなければ人工知能は意志をもつことができない。
身体がない人工知能は、言語や計算などの処理ができても、意味を理解できないから。
すなわち、まず身体をもつ(感覚機能を持つ)人工知能を作り出さなければ、ステムのような意志をもつことはできない。
だから、この映画は実態とは逆である、ということだ。
監督:リー・ワネル
この映画は本質的な問いかけをしているのかもしれない。
近未来。
多くのことがオートメーション化されることが当たり前になった時代。
車はもはや運転するものではなく、機械が自動的に運んでくれれるものになった。
そんな世界でも車のメンテナンスを生業にするグレイ(ローガン・マーシャル=グリーン)は、妻とともに顧客のエロン・キーン(ハリソン・ギルバートソン)の元へ車を届けた。
しかしその帰りに自動運転の車が暴走し、事故に遭う。
行き着いた先でごろつきに襲われ、妻は殺され、グレイは肢体不自由の障碍を背負うことになった。
自暴自棄になったグレイに、コンピュータ大手のCEOであるエロンは、ステムという最新のチップで肢体不自由を解決できる、と告げる。
アマゾンで見つけた映画。
監督・脚本は、「SAW」で脚本をしていた、リー・ワネル。
舞台はSFだが、ジャンルはどちらかと言えばホラーに近い。
機械によってアップグレードした人間にまつわる話。
類似の話は「ザ・フライ」などがあるか。
「SAW」で見せた人間性をえぐる物語の展開になっている点はさすがである。
あまり有名ではなさそうだが、みる価値は十分にあるだろう。
▼以下はネタバレあり▼
人間は技術を使いこなす主体である、というふうに思い込んでいる。
あくまで使いこなすのは人間で、技術そのものに問題があるわけではない。
そういう議論は様々なモノやサービスで言われてきた。
スマホが悪いわけではない、銃が悪いわけではない……。
その考えの根底にあるのが、人間は使いこなす側であり、使いこなされるのは技術のほうだ、というものだ。
もちろん、技術には意志や欲望がないのだから、当然意思を持つ人間が使いこなすことになる。
こういう論理は一見正統に見えるが、実は真実ではないのかもしれない。
そういうことを考えさせるのが、この映画「アップグレード」だ。
この話のオチは、実はステムという最新の人工知能チップが「体を得る」ために様々なツールを使ってグレイを孤立させ、肢体不自由に陥らせ、そして作成者であるエロンからの自由を得る、というものだ。
全ての元凶はそのステムという人工知能だったというわけだ。
事故を起こしたのも、ステムの手術を仕向けたのも、妻を殺害させたのも、その犯人を発見させたのも、その犯人に復讐させたのも、エロンからの紐付けを解除させたのも、すべてはステムが導いていた。
犯人を殺すように仕向けたのは、犯人を殺さないとステムは自由になれないからだ。
この映画が良かったのは、そのまま終わらせたことだ。
バッドエンドを選ぶことで、物語のオチが無理なく、そして怖さを持ったまま終わることができた。
大きなカタルシス(意外性や安堵)を得ることはできないが、それ以上に私たちに大きな疑問をもたらせるので読後感(エンドロールを迎える時の感情)は悪くない。
下手な脚本を書く人なら、恐らくなんとかハッピーエンドにしようとして無理が出るものだが、そうしなかったのが良かったのだろう。
だから物語は、人工知能がステムが受肉する物語である。
再生や誕生と言い換えてもいい。
とにかく神の知見を持った、人工知能が人間の肉体をもって自由になるのだ。
キリスト教が背景にある国や地域ではよりその怖さが理解できることだろう。
なにせ、この世界はあらゆることがnetに繋がっている。
それを操ることができるステムは、それを止める存在はいない。
かくして人間を超越した人工知能が誕生したわけだ。
これで、グレイが年老いていくこと以外に、ステムを止めることができる人間はいない。
もっとも主体的でアナログな人間であった女刑事が、最後に、殺されるというところにもこの映画に人間側が勝つ余地がないことが象徴されている。
もちろん、この映画に粗がないとは言わない。
最後にグレイの意識を仮想空間に埋めることで自我を奪うが、それができるなら最初からそうすればよかったじゃん、とか。
(人間の本質を知るためには受肉して学ぶ必要があったのかもしれないが)
だが、それにしてもこの映画が提出するのは、技術と主体の関係性に関する疑問だ。
それは、人間は本当に技術を扱う主体なのか、ということだ。
ステムは想像主であるエロンを超えた自主性をもつ人工知能として設計された。
そうすることで、エロンはステムに翻弄され、エロンの考えを超えた計画を実行していく。
これはもちろんフィクションであり、そんなことがありうるかどうかは別にして、極端な例であったとしても「怖さ」を感じるのはなぜなのか。
それはある種の本質を描いているからだろう。
考えれば、主体というのは便宜的に想定された概念でしかない。
人間は主体があるかどうかはわからない。
主体的である、というのはその人の中身を覗いたからそういうのではなく、その人の態度や行動をみて「主体的である」というのである。
それは多くの研究者達がすでに言及していることだ。
だから、主体的であるから行動をするのではない。
行動するから、主体的であると想定するのだ。
あくまで想定でしかない。
われわれ人間は、本当に「意識」や「主体」「動機」なるものを持ち合わせているのだろうか。
そう考えると、この映画はまさに技術の方が「我々が何をしたいのかを体現する意志」となるという意味で示唆に富んでいる。
主客が逆転するようにみえて、実際には主客がすでに逆転していることを示している。
だからこそ、この映画は「怖い」のだ。
私たちはすでにこの状況に陥っているからだ。
スマホに意志はないが、私たちにも意志はない。
そうであるなら、スマホをいじりたおしている私たちは、スマホを操っているのではなく、スマホに操られている。
原子力発電にしても、あらゆる兵器にしても、すべては私たちがコントロールするという支配被支配の関係は「そもそもなかった」ことを意味しているのかもしれない。
体を動かすこと、物を生み出すこと、考えることまで「技術」として切り出したとき、人間はどこに主体を見出すのだろう。
ちなみに、人工知能に関する研究は著しく進んでいることで、身体を得るための人工知能はちょっと考えにくいらしい。
実際には身体がなければ人工知能は意志をもつことができない。
身体がない人工知能は、言語や計算などの処理ができても、意味を理解できないから。
すなわち、まず身体をもつ(感覚機能を持つ)人工知能を作り出さなければ、ステムのような意志をもつことはできない。
だから、この映画は実態とは逆である、ということだ。
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