評価点:51点/2003年/アメリカ
監督:ウィリアム・フリードキン(「英雄の条件」ほか)
やっぱ、デル・トロはカッコいい。
アメリカ・オレゴンで素人ハンターのビジネスマンが、森で惨殺される事件が起こった。
その解決に向けて、呼ばれたのはL・T(トミー・リー・ジョーンズ)であった。
彼は、サバイバルのあらゆる訓練を兵士に施すという、トラッカーの育成の経験を持っていた。
現場を訪れた彼は、残されていたナイフの後を見て何かを直感する。
犯人のねぐらを探し始めると、現われたのはアーロン・ハラム(ベニチオ・デル・トロ)という元兵士で、L・Tの教え子であった。
格闘の末、なんとかハラムを捕まえたL・Tだったが、軍に身柄を渡した後、護送中ハラムは脱走する。
トミー・リー・ジョーンズといえば、誰かを執拗なまでに追うという役が有名である。
この「ハンテッド」も、「逃亡者」「追跡者」「ダブルジョパディ」と同様、執拗までに追うという役どころになっている。
同じ系列の映画と見ていいだろう。
シリーズからの本作の大きな変更点は、「サバイバル」という要素と、「アクション(格闘)」という要素が加わった事である。
これによって、単たる追跡ではなく、殺し合いという新機軸に至っている。
▼以下はネタバレあり▼
公式ホームページによれば、二人は「トラッカー」と呼ばれる人間だそうだ。
自然と一体になることによって、サバイバルするという。
本作では、このトラッカーぶりが、随所にみられる。
森に仕掛けられた罠と、それを見破る眼。
全く何もない状態からナイフを創り出す技術。
銃に頼らない格闘スタイル。
瞬時に気配を消してしまう身のこなし等々。
彼らのサバイバルぶりは、モチーフであると同時に、テーマでもある。
その証拠に、二人とも自然を無闇に壊してしまう人間に対して、大きな憤りを感じているのである。
トラッカーという言葉は本編で一切登場しなかった(字幕スーパーには)が、なぜ登場させなかったのか、疑問なほど、「トラッカー」の精神を貫いている。
このサバイバルとアクションの要素が加わった事で、
単なる追跡ではなく、迫力と「見せ場」が加わっている。
やはり血の吹き出る姿などを見せられると、緊迫感が倍増し、映画としても魅力がアップする。
この点は、この映画の大きな見所になっている。
その一方で、残念といわなければならない事もある。
一つは、犯人役のデル・トロの心理が全く描けていない点である。
コソヴォの紛争を、映画の冒頭に大量の爆薬を使って撮影したにも関わらず、彼の精神の崩壊の様子が描けていない。
人間の醜さにうんざりしたということは理解できるが、
なぜハンターを襲ったのか、
妻子とのいきさつはどうだったのか、
オレゴンの森にこもっていたのは何故なのか、といった疑問が、全く説明されない。
特に、妻子とのいきさつは、絶対にいれるべきだった。
なぜなら、非常に美しい妻と、かわいらしい子というのは、デル・トロの光の部分を象徴する事になるからである。
妻子を登場させることによって、美しい妻と子を持っていながら、山にこもってしまうというギャップが生まれる。
そのギャップを説明するために妻子を利用するならわかるが、どういう家族生活であったのか、いつから狂い始めたのか、描くべきだった。
1999年の兵役から帰ってきたころからおかしくなってしまったと推測されるが、それなら完全に捨て去ってしまうのが、常識的な判断である。
それでもなお、彼の傍に(あるいは妻子の傍に)いるのは何故なのか。
妻子を唐突に(写真は示されるがオレゴンにいるという事実は唐突すぎる)登場させる意味が理解できない。
デル・トロの心理が描かれないため、彼に感情移入することもできないし、戦争が如何に悲惨なものであるか、ということも伝わらない。
「ランボー」の一作目に似た雰囲気をもっているものの、主人公の独白の有無によって、映画としての明暗を分けている。
デル・トロが単なる殺人鬼と化してしまっているのである。
これでは彼に救いの余地がない。
もっとも、これは映画の悲劇性を押さえるための演出と考えられなくはない。
すわなち、純粋に追うもの追われるものの様子を、すこし離れた目から純粋に楽しむための配慮である。
だから、両者のどちらにも感情移入できるし、どちらにも感情移入しにくい、という演出効果を狙っているのかもしれない。
「ランボー」のような悲劇的な映画にしてしまっては、テーマが重過ぎると考えたのなら、ある程度納得できる。
しかし、それでも納得できないマイナス要素がある。
それが二つめの「残念な点」である。
それは、「地理」という要素の欠如である。
この一連の事件は、オレゴン州という一つの州で起こったもので、広範囲にわたるものではない。
よって、地図という具体的なアイテムは、映画のなかでは必須だった。
なぜなら、森、街、妻子の家、護送車が横転するトラックの場所、
橋の場所など、具体的な位置関係が示されなければ、追う側の目星が全くなくなってしまう。
そうなると、L・Tが行く先で、なぜデル・トロが待ち構えているのか、という説明がつかなくなる。
平たく言えば、戦略性が失われてしまうのである。
その地図が現実のものでなくとも、勿論構わない。
また、実際の地図ではなく、言葉によって台詞に紛れこませるという手法でも構わない。
「この先は橋しかない、奴は袋のネズミだ」とか、「この川の上流はどこにつながっているんだ?」
「森です!」とか、「彼の妻子は今どこに?」
「このオレゴンにいます」といった台詞を入れる事によって、戦略性が一気に高まるのである。
(勿論、それくらい頭に入れとけよ、というのは映画には問答無用である。
あくまで「台詞」は意図されたものであるのだから。)
これは「逃亡者」でもあった要素である。
「奴はこの街にもどってきたんだ」という台詞を捜査員が口走る。
この台詞によって、キンブル(ハリソン・フォード)が、相当遠くから走ってきたことがうかがえるのである。
しかし、この映画には地理的な要素が全く出てこない。
台詞の中にもない。
或いは、登場人物が地図を見るシーンでも良かった。しかし、それもない。
だから、一つ一つのシーンがブチブチの印象を受けてしまい、戦略性が失われている。
この地理性の欠如は、この映画全体を揺るがしかねない。
なぜなら、先ほども書いたように、心理描写が少なく、デル・トロ、L・T双方に感情移入できないため、人間ドラマとして観ることができない。
さらに、二人のアクションや攻防を楽しむために必須である、地理性の欠如によって、サスペンスやアクションとしても失敗してしまっているのである。
要するに、ドラマとしても、サスペンスやアクションとしても、失敗しており、
どちらの映画として演出していくか、という映画の狙いの時点で既に失敗しているのである。
トラッカーを扱ったことや、一つ一つの攻防はとても面白くできている。
にもかかわらず、演出やちょっとした配慮の足りなさによって、残念な映画になってしまっている。
思えば、このウイリアム・フリードキンという監督は、「英雄の条件」を撮った監督である。
あれも、どっちつかずな映画になって、観客を引っ張るという演出で失敗した。
「エクソシスト」の雰囲気づくりは良かったのに、この監督は、戦争をモティーフにすると、失敗するようである。
ちなみに、FBI捜査官のアビーを演じた女優はコニー・ニールセン。
彼女は、「グラディエーター」の王の姉だった人。
これも公式サイトをみて、やっと思い出せた。ちょっとすっきりした。
(2004/8/1執筆)
監督:ウィリアム・フリードキン(「英雄の条件」ほか)
やっぱ、デル・トロはカッコいい。
アメリカ・オレゴンで素人ハンターのビジネスマンが、森で惨殺される事件が起こった。
その解決に向けて、呼ばれたのはL・T(トミー・リー・ジョーンズ)であった。
彼は、サバイバルのあらゆる訓練を兵士に施すという、トラッカーの育成の経験を持っていた。
現場を訪れた彼は、残されていたナイフの後を見て何かを直感する。
犯人のねぐらを探し始めると、現われたのはアーロン・ハラム(ベニチオ・デル・トロ)という元兵士で、L・Tの教え子であった。
格闘の末、なんとかハラムを捕まえたL・Tだったが、軍に身柄を渡した後、護送中ハラムは脱走する。
トミー・リー・ジョーンズといえば、誰かを執拗なまでに追うという役が有名である。
この「ハンテッド」も、「逃亡者」「追跡者」「ダブルジョパディ」と同様、執拗までに追うという役どころになっている。
同じ系列の映画と見ていいだろう。
シリーズからの本作の大きな変更点は、「サバイバル」という要素と、「アクション(格闘)」という要素が加わった事である。
これによって、単たる追跡ではなく、殺し合いという新機軸に至っている。
▼以下はネタバレあり▼
公式ホームページによれば、二人は「トラッカー」と呼ばれる人間だそうだ。
自然と一体になることによって、サバイバルするという。
本作では、このトラッカーぶりが、随所にみられる。
森に仕掛けられた罠と、それを見破る眼。
全く何もない状態からナイフを創り出す技術。
銃に頼らない格闘スタイル。
瞬時に気配を消してしまう身のこなし等々。
彼らのサバイバルぶりは、モチーフであると同時に、テーマでもある。
その証拠に、二人とも自然を無闇に壊してしまう人間に対して、大きな憤りを感じているのである。
トラッカーという言葉は本編で一切登場しなかった(字幕スーパーには)が、なぜ登場させなかったのか、疑問なほど、「トラッカー」の精神を貫いている。
このサバイバルとアクションの要素が加わった事で、
単なる追跡ではなく、迫力と「見せ場」が加わっている。
やはり血の吹き出る姿などを見せられると、緊迫感が倍増し、映画としても魅力がアップする。
この点は、この映画の大きな見所になっている。
その一方で、残念といわなければならない事もある。
一つは、犯人役のデル・トロの心理が全く描けていない点である。
コソヴォの紛争を、映画の冒頭に大量の爆薬を使って撮影したにも関わらず、彼の精神の崩壊の様子が描けていない。
人間の醜さにうんざりしたということは理解できるが、
なぜハンターを襲ったのか、
妻子とのいきさつはどうだったのか、
オレゴンの森にこもっていたのは何故なのか、といった疑問が、全く説明されない。
特に、妻子とのいきさつは、絶対にいれるべきだった。
なぜなら、非常に美しい妻と、かわいらしい子というのは、デル・トロの光の部分を象徴する事になるからである。
妻子を登場させることによって、美しい妻と子を持っていながら、山にこもってしまうというギャップが生まれる。
そのギャップを説明するために妻子を利用するならわかるが、どういう家族生活であったのか、いつから狂い始めたのか、描くべきだった。
1999年の兵役から帰ってきたころからおかしくなってしまったと推測されるが、それなら完全に捨て去ってしまうのが、常識的な判断である。
それでもなお、彼の傍に(あるいは妻子の傍に)いるのは何故なのか。
妻子を唐突に(写真は示されるがオレゴンにいるという事実は唐突すぎる)登場させる意味が理解できない。
デル・トロの心理が描かれないため、彼に感情移入することもできないし、戦争が如何に悲惨なものであるか、ということも伝わらない。
「ランボー」の一作目に似た雰囲気をもっているものの、主人公の独白の有無によって、映画としての明暗を分けている。
デル・トロが単なる殺人鬼と化してしまっているのである。
これでは彼に救いの余地がない。
もっとも、これは映画の悲劇性を押さえるための演出と考えられなくはない。
すわなち、純粋に追うもの追われるものの様子を、すこし離れた目から純粋に楽しむための配慮である。
だから、両者のどちらにも感情移入できるし、どちらにも感情移入しにくい、という演出効果を狙っているのかもしれない。
「ランボー」のような悲劇的な映画にしてしまっては、テーマが重過ぎると考えたのなら、ある程度納得できる。
しかし、それでも納得できないマイナス要素がある。
それが二つめの「残念な点」である。
それは、「地理」という要素の欠如である。
この一連の事件は、オレゴン州という一つの州で起こったもので、広範囲にわたるものではない。
よって、地図という具体的なアイテムは、映画のなかでは必須だった。
なぜなら、森、街、妻子の家、護送車が横転するトラックの場所、
橋の場所など、具体的な位置関係が示されなければ、追う側の目星が全くなくなってしまう。
そうなると、L・Tが行く先で、なぜデル・トロが待ち構えているのか、という説明がつかなくなる。
平たく言えば、戦略性が失われてしまうのである。
その地図が現実のものでなくとも、勿論構わない。
また、実際の地図ではなく、言葉によって台詞に紛れこませるという手法でも構わない。
「この先は橋しかない、奴は袋のネズミだ」とか、「この川の上流はどこにつながっているんだ?」
「森です!」とか、「彼の妻子は今どこに?」
「このオレゴンにいます」といった台詞を入れる事によって、戦略性が一気に高まるのである。
(勿論、それくらい頭に入れとけよ、というのは映画には問答無用である。
あくまで「台詞」は意図されたものであるのだから。)
これは「逃亡者」でもあった要素である。
「奴はこの街にもどってきたんだ」という台詞を捜査員が口走る。
この台詞によって、キンブル(ハリソン・フォード)が、相当遠くから走ってきたことがうかがえるのである。
しかし、この映画には地理的な要素が全く出てこない。
台詞の中にもない。
或いは、登場人物が地図を見るシーンでも良かった。しかし、それもない。
だから、一つ一つのシーンがブチブチの印象を受けてしまい、戦略性が失われている。
この地理性の欠如は、この映画全体を揺るがしかねない。
なぜなら、先ほども書いたように、心理描写が少なく、デル・トロ、L・T双方に感情移入できないため、人間ドラマとして観ることができない。
さらに、二人のアクションや攻防を楽しむために必須である、地理性の欠如によって、サスペンスやアクションとしても失敗してしまっているのである。
要するに、ドラマとしても、サスペンスやアクションとしても、失敗しており、
どちらの映画として演出していくか、という映画の狙いの時点で既に失敗しているのである。
トラッカーを扱ったことや、一つ一つの攻防はとても面白くできている。
にもかかわらず、演出やちょっとした配慮の足りなさによって、残念な映画になってしまっている。
思えば、このウイリアム・フリードキンという監督は、「英雄の条件」を撮った監督である。
あれも、どっちつかずな映画になって、観客を引っ張るという演出で失敗した。
「エクソシスト」の雰囲気づくりは良かったのに、この監督は、戦争をモティーフにすると、失敗するようである。
ちなみに、FBI捜査官のアビーを演じた女優はコニー・ニールセン。
彼女は、「グラディエーター」の王の姉だった人。
これも公式サイトをみて、やっと思い出せた。ちょっとすっきりした。
(2004/8/1執筆)
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