映画の予告編を見て、この映画は見に行こうと決めて原作を手に取った。
ほとんど予備知識なしで読み始めたので戸惑ったが、一気に読了できたのは翻訳文学に対しての僕の抵抗が少なかったからだけではあるまい。
本屋にあまり平積みしているような本ではないので、ぜひ探し出して読んでほしい。
この本を読み終わったとき、自分にとって自明だった事柄がいくつか瓦解するだろう。
それは生やさしい経験ではないだろうし、人によっては拒絶してしまうしかないだろう。
けれども、そこには確実にこれまで問うべきではないとされてきた「タブー」について触れられている。
リアリティがない作品だとして断罪してしまう前に、その「可能性」について考える、懐の深さも必要になるだろう。
語り手は一人の女性である。
夫に向けて手紙を書き始めるという設定で、事件を語り始める。
息子ケヴィンに抱く不信感と、彼から感じられる悪意。
しきりに「木曜日」の事件に触れるけれども、具体的には何も語ってくれはしない。
高校生のケヴィンがどのような事件を起こしたのか、語り手の彼女は今、何を抱いているのか。
母と子、父と子、人に潜む悪意の一極が描かれていく。
▼以下はネタバレあり▼
語り手エヴァは、夫フランクリンに手紙を出すという形式で物語を綴っていく。
けれども、当然返信があるべきフランクリンからの手紙の痕跡は、一切ない。
彼はどこに行ったのか。
そして、「木曜日」に何が起こったのか。
もちろん、読んでいくとすぐにフランクリンが死んでいることは察しがつく。
けれども、重要なことはそんな安い謎ではない。
この小説の肝は、読み手である読者がフランクリンと同じ位置に引き込まれるという語りの装置をもっていることである。
すなわち、僕たちはフランクリンに同化することを余儀なくされる。
つらい経験を背負い込んだ妻エヴァの夫として振る舞うことを要求されてしまう。
それは逆に言えば、読者はフランクリンであり、フランクリンは一般読者の象徴でもある。
息子が産まれて馬鹿騒ぎする、普通の男性。
おもちゃを与えることでケヴィンを溺愛し、「常にこどもの味方」を演じ続ける。
それは、きっと読み手のどこかにある一般性を示唆している。
だから、この小説でフランクリンが死んでいるということが、非常に大きな意味を持つのだ。
ラストの数十ページで「木曜日」の出来事が明かされるとき、僕たちはフランクリン同様、ケヴィンに裏切られることになる。
それはそのまま、親としての無償の愛の否定であり、普遍性への懐疑である。
だからこそ、この小説は「人ごととは思えない説得力」を持っている。
物語は一切の妥協を許さず、そして淡い読者の望みも振り払いながら、残酷な矢を正確に的に刻んでいく。
それがとにかく恐ろしい。
だから読み切らずにはいられない。
ケヴィンはずっとカーテンの向こう側を期待しながら、何もない挫折感に見舞われてきた。
期待したような驚きは、この世界にはなかった。
わからないことがない世界のつまらなさを彼は直観していた。
だが、彼は妹と父親を殺すことでようやくその「わからない」ことに直面する。
この物語は、残酷でありながら、癒しがある。
わからないことと出会う、ケヴィンの物語。
変わることを要求するメディアが氾濫する世界。
変わることが、エヴァの身に起こった出来事のようなものでも、人は変わりたいと思うのだろうか。
土台を揺さぶる、おもしろい小説である。
ほとんど予備知識なしで読み始めたので戸惑ったが、一気に読了できたのは翻訳文学に対しての僕の抵抗が少なかったからだけではあるまい。
本屋にあまり平積みしているような本ではないので、ぜひ探し出して読んでほしい。
この本を読み終わったとき、自分にとって自明だった事柄がいくつか瓦解するだろう。
それは生やさしい経験ではないだろうし、人によっては拒絶してしまうしかないだろう。
けれども、そこには確実にこれまで問うべきではないとされてきた「タブー」について触れられている。
リアリティがない作品だとして断罪してしまう前に、その「可能性」について考える、懐の深さも必要になるだろう。
語り手は一人の女性である。
夫に向けて手紙を書き始めるという設定で、事件を語り始める。
息子ケヴィンに抱く不信感と、彼から感じられる悪意。
しきりに「木曜日」の事件に触れるけれども、具体的には何も語ってくれはしない。
高校生のケヴィンがどのような事件を起こしたのか、語り手の彼女は今、何を抱いているのか。
母と子、父と子、人に潜む悪意の一極が描かれていく。
▼以下はネタバレあり▼
語り手エヴァは、夫フランクリンに手紙を出すという形式で物語を綴っていく。
けれども、当然返信があるべきフランクリンからの手紙の痕跡は、一切ない。
彼はどこに行ったのか。
そして、「木曜日」に何が起こったのか。
もちろん、読んでいくとすぐにフランクリンが死んでいることは察しがつく。
けれども、重要なことはそんな安い謎ではない。
この小説の肝は、読み手である読者がフランクリンと同じ位置に引き込まれるという語りの装置をもっていることである。
すなわち、僕たちはフランクリンに同化することを余儀なくされる。
つらい経験を背負い込んだ妻エヴァの夫として振る舞うことを要求されてしまう。
それは逆に言えば、読者はフランクリンであり、フランクリンは一般読者の象徴でもある。
息子が産まれて馬鹿騒ぎする、普通の男性。
おもちゃを与えることでケヴィンを溺愛し、「常にこどもの味方」を演じ続ける。
それは、きっと読み手のどこかにある一般性を示唆している。
だから、この小説でフランクリンが死んでいるということが、非常に大きな意味を持つのだ。
ラストの数十ページで「木曜日」の出来事が明かされるとき、僕たちはフランクリン同様、ケヴィンに裏切られることになる。
それはそのまま、親としての無償の愛の否定であり、普遍性への懐疑である。
だからこそ、この小説は「人ごととは思えない説得力」を持っている。
物語は一切の妥協を許さず、そして淡い読者の望みも振り払いながら、残酷な矢を正確に的に刻んでいく。
それがとにかく恐ろしい。
だから読み切らずにはいられない。
ケヴィンはずっとカーテンの向こう側を期待しながら、何もない挫折感に見舞われてきた。
期待したような驚きは、この世界にはなかった。
わからないことがない世界のつまらなさを彼は直観していた。
だが、彼は妹と父親を殺すことでようやくその「わからない」ことに直面する。
この物語は、残酷でありながら、癒しがある。
わからないことと出会う、ケヴィンの物語。
変わることを要求するメディアが氾濫する世界。
変わることが、エヴァの身に起こった出来事のようなものでも、人は変わりたいと思うのだろうか。
土台を揺さぶる、おもしろい小説である。
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