評価点:48点/2008年/日本
原作:東野圭吾
監督:西谷弘
やっぱり、原作がすごすぎた。
数学の高校教師石神(堤真一)は、アパートの隣に住む花岡親子の部屋で何かが起こったことを察知した。
花岡親子(松雪泰子・金澤美穂)は、逃れるように別れた夫の急な訪れに対して、殺人を犯してしまう。
隣の石神にそれを聞かれたと知り、自首するしかないと思い立つ。
だが、石神は彼女らを助けることを申し出て、死体を処理することにする。
警視庁の草薙(北村一輝)は、河川敷に上がった死体を見つめ、内海(柴咲コウ)とともに捜査を開始する。
捜査上に浮かんだのは、被害者の元妻花岡靖子だった。
彼女たちには完璧なアリバイがあり、悩んだあげく、草薙は帝都大学の湯川教授(福山雅治)のもとを訪ねる。
ドラマのファンも、原作のファンも、多くの人が待ち望んだ待望の映画化作品だろう。
僕は、この原作が直木賞を取ったときに、購入して読んだ。
そして今回、観に行こうと思っていたので、観に行く二日前に文庫本を再度購入し、読んでいた。
僕にとっては大切な本だ。
同じ本を二冊買ったことは、初めての経験であり、何より、本で初めて泣いた作品だったからだ。
しかも二度目は電車の中で読んで、泣いていた。
前に座っていた女の子はちょっと不思議そうな顔をしていたが、僕はそれどころじゃなかった。
これほど思い入れのある物語も少ない。
よって、僕はこの映画を原作のイメージを払拭した立場で観ることはできない。
いくら別物だとわかっていても、不可能だ。
観に行く価値はあるか、と言われれば、僕はこれを観るくらいなら本を読め、と言いたい。
映画としての完成度は、残念ながら観に行くほどの価値はないように思う。
▼以下はネタバレあり▼
映画のラストで、僕は泣いた。
それはこの映画の完成度によるものではない。
僕は、この映画を観ながら、原作をフィードバックさせることによって泣いたのだ。
それは「疾走」を観たときに泣いた理由と同じだ。
大いなる原作を超えることは、確かに難しい。
映像として説明することと、文字で説明することの間には大きな隔たりがある。
その意味で、監督たちに求められているのは、原作の再現ではなく、やはり再構成だったと思われる。
脚本家は、この物語をミスディレクションの映画に仕立て上げようとしたようだ。
つまり、観客をたくみな演出によってミスリードして、ラストに一気に真相をあかす、という手法だ。
「シックス・センス」でおなじみの、あれである。
つまり、脚本家の青写真はこうだ。
一見してもてそうもない石神が、花岡靖子をかばったのは、彼の一方的な想いによってだ、と思いこませる。
しかし、真相はそうではなく、石神の感謝の気持ちからだった、というものだ。
そのための伏線として、写真を撮ったり、異常とも思えるほどに協力したりするシーンを挿入した。
この演出の狙いは理解できるが、残念ながら、失敗に終わったと言える。
まず、そのミスリードさせる謎が不明確な点だ。
捜査の行き詰まり、つまり謎がどういったものなのか、というのを提示し切れていない。
なにがおかしいのか、何が足りないのか、何が謎なのか、それがわからないのだ。
完璧なアリバイ、それをどう崩すのか、という点をもっとしっかりと描かないと、見えてこない。
また、石神への疑いへスライドしていく様も、わかりにくい。
それがわかりにくい理由は、湯川との関係性があまりにも不安定だからだ。
湯川が勝手に動いているが、それと警察の捜査との連動性や、謎との連動性が不明確だから、
何を追っているのか、
何をしたいのか、
いまいち見えてこない。
だから、ミスディレクション(誤った方向に持って行きたいのだ)だと気づかせるまでに時間がかかりすぎている。
もしストーカーであるとミスリードしたいなら、もっと積極的にそう描くべきだった。
真相もわかりにくい。
結局ストーカーだったのか、そうでなかったのか、わからないのだ。
死ぬ直前に現れた花岡親子が、石神にどのような光をもたらせたのか、見えてこない。
あの状況でもストーカーに成り下がったとしても、整合性はとれる。
だが、花岡靖子は泣いて謝るのだ。
このあたりの心理の不透明さは、いかんともしがたい。
それを補うために、一番やってはいけないことをしてしまう。
それは手紙だ。
「僕は感謝しているのです」
最後に送る手紙にはそのように言語化されてしまう。
これによって石神がやりたかった、
「完全に事実を隠し通す」
「花岡親子を守るために自分だけが犠牲になる」ということが揺るいでしまう。
それを花岡親子に言わないことが、彼の最大の「献身」だったのだ。
それを直接言ってしまっては、「僕はあなたの見返りを受けたい」と宣言しているようなものだ。
原作では確か、メモの内容は伏せられていたはずだ。
同情を買っては意味がないからだ。
それなのに、感謝していると書いてしまった。
心理を言語化するなら、もうすこしマシな言葉はなかったのか。
僕は「人は時としてけなげに生きるだけで他人を幸せにしていることがある」という原作の一節を、どこかに忍ばせておくことが大切だったと思う。
この言葉をたとえば、湯川に対してでも言わせることで、彼の心理が見えてくるはずだ。
心理を描いたドラマとしては、よって、破綻していると言える。
かといって、サスペンスとしても、やはり破綻している。
先にも書いたように謎を謎として提示しないばかりか、伏線の張り方も不自然きわまりない。
「技師」(富樫の遺体の代わりに使われたホームレスのあだ名)を撮る際の不自然なアングルや、明らかに怪しまれるだろう待ち伏せする石神の態度など、映画としてはあるまじき陳腐な伏線になっている。
二時間ドラマやサスペンス劇場ならともかく、これは二時間ぶっ続けでCMなしで観る映画だ。
観るのはただで観る無責任な視聴者ではなく、お金を払って集中して勝負しようとしている観客なのだ。
それを意識した作りとは言い難いくらいの「なめた」伏線だ。
ドラマではなく映画として意識したという監督の言葉は、どうやら大風呂敷のようだ。
そもそも、もてない石神のキャラクターをかっこいい堤真一をあてたところに、この映画の大きな間違いがある。
売れたい、売りたい、という態度では、良い映画は生まれるはずもない。
湯川のキャラクターはまだなんとか観られるが、柴咲コウの一言、
「苦しんでるなら、私もあなたとその苦しみを共有したいんです」という訳のわからない台詞。
唐突すぎて、愛の告白か、気でも触れたか、心配してしまう。
結局、「紅」を置かないと映画として展開できないことが、もう「負けている」証拠だと思えてならない。
原作:東野圭吾
監督:西谷弘
やっぱり、原作がすごすぎた。
数学の高校教師石神(堤真一)は、アパートの隣に住む花岡親子の部屋で何かが起こったことを察知した。
花岡親子(松雪泰子・金澤美穂)は、逃れるように別れた夫の急な訪れに対して、殺人を犯してしまう。
隣の石神にそれを聞かれたと知り、自首するしかないと思い立つ。
だが、石神は彼女らを助けることを申し出て、死体を処理することにする。
警視庁の草薙(北村一輝)は、河川敷に上がった死体を見つめ、内海(柴咲コウ)とともに捜査を開始する。
捜査上に浮かんだのは、被害者の元妻花岡靖子だった。
彼女たちには完璧なアリバイがあり、悩んだあげく、草薙は帝都大学の湯川教授(福山雅治)のもとを訪ねる。
ドラマのファンも、原作のファンも、多くの人が待ち望んだ待望の映画化作品だろう。
僕は、この原作が直木賞を取ったときに、購入して読んだ。
そして今回、観に行こうと思っていたので、観に行く二日前に文庫本を再度購入し、読んでいた。
僕にとっては大切な本だ。
同じ本を二冊買ったことは、初めての経験であり、何より、本で初めて泣いた作品だったからだ。
しかも二度目は電車の中で読んで、泣いていた。
前に座っていた女の子はちょっと不思議そうな顔をしていたが、僕はそれどころじゃなかった。
これほど思い入れのある物語も少ない。
よって、僕はこの映画を原作のイメージを払拭した立場で観ることはできない。
いくら別物だとわかっていても、不可能だ。
観に行く価値はあるか、と言われれば、僕はこれを観るくらいなら本を読め、と言いたい。
映画としての完成度は、残念ながら観に行くほどの価値はないように思う。
▼以下はネタバレあり▼
映画のラストで、僕は泣いた。
それはこの映画の完成度によるものではない。
僕は、この映画を観ながら、原作をフィードバックさせることによって泣いたのだ。
それは「疾走」を観たときに泣いた理由と同じだ。
大いなる原作を超えることは、確かに難しい。
映像として説明することと、文字で説明することの間には大きな隔たりがある。
その意味で、監督たちに求められているのは、原作の再現ではなく、やはり再構成だったと思われる。
脚本家は、この物語をミスディレクションの映画に仕立て上げようとしたようだ。
つまり、観客をたくみな演出によってミスリードして、ラストに一気に真相をあかす、という手法だ。
「シックス・センス」でおなじみの、あれである。
つまり、脚本家の青写真はこうだ。
一見してもてそうもない石神が、花岡靖子をかばったのは、彼の一方的な想いによってだ、と思いこませる。
しかし、真相はそうではなく、石神の感謝の気持ちからだった、というものだ。
そのための伏線として、写真を撮ったり、異常とも思えるほどに協力したりするシーンを挿入した。
この演出の狙いは理解できるが、残念ながら、失敗に終わったと言える。
まず、そのミスリードさせる謎が不明確な点だ。
捜査の行き詰まり、つまり謎がどういったものなのか、というのを提示し切れていない。
なにがおかしいのか、何が足りないのか、何が謎なのか、それがわからないのだ。
完璧なアリバイ、それをどう崩すのか、という点をもっとしっかりと描かないと、見えてこない。
また、石神への疑いへスライドしていく様も、わかりにくい。
それがわかりにくい理由は、湯川との関係性があまりにも不安定だからだ。
湯川が勝手に動いているが、それと警察の捜査との連動性や、謎との連動性が不明確だから、
何を追っているのか、
何をしたいのか、
いまいち見えてこない。
だから、ミスディレクション(誤った方向に持って行きたいのだ)だと気づかせるまでに時間がかかりすぎている。
もしストーカーであるとミスリードしたいなら、もっと積極的にそう描くべきだった。
真相もわかりにくい。
結局ストーカーだったのか、そうでなかったのか、わからないのだ。
死ぬ直前に現れた花岡親子が、石神にどのような光をもたらせたのか、見えてこない。
あの状況でもストーカーに成り下がったとしても、整合性はとれる。
だが、花岡靖子は泣いて謝るのだ。
このあたりの心理の不透明さは、いかんともしがたい。
それを補うために、一番やってはいけないことをしてしまう。
それは手紙だ。
「僕は感謝しているのです」
最後に送る手紙にはそのように言語化されてしまう。
これによって石神がやりたかった、
「完全に事実を隠し通す」
「花岡親子を守るために自分だけが犠牲になる」ということが揺るいでしまう。
それを花岡親子に言わないことが、彼の最大の「献身」だったのだ。
それを直接言ってしまっては、「僕はあなたの見返りを受けたい」と宣言しているようなものだ。
原作では確か、メモの内容は伏せられていたはずだ。
同情を買っては意味がないからだ。
それなのに、感謝していると書いてしまった。
心理を言語化するなら、もうすこしマシな言葉はなかったのか。
僕は「人は時としてけなげに生きるだけで他人を幸せにしていることがある」という原作の一節を、どこかに忍ばせておくことが大切だったと思う。
この言葉をたとえば、湯川に対してでも言わせることで、彼の心理が見えてくるはずだ。
心理を描いたドラマとしては、よって、破綻していると言える。
かといって、サスペンスとしても、やはり破綻している。
先にも書いたように謎を謎として提示しないばかりか、伏線の張り方も不自然きわまりない。
「技師」(富樫の遺体の代わりに使われたホームレスのあだ名)を撮る際の不自然なアングルや、明らかに怪しまれるだろう待ち伏せする石神の態度など、映画としてはあるまじき陳腐な伏線になっている。
二時間ドラマやサスペンス劇場ならともかく、これは二時間ぶっ続けでCMなしで観る映画だ。
観るのはただで観る無責任な視聴者ではなく、お金を払って集中して勝負しようとしている観客なのだ。
それを意識した作りとは言い難いくらいの「なめた」伏線だ。
ドラマではなく映画として意識したという監督の言葉は、どうやら大風呂敷のようだ。
そもそも、もてない石神のキャラクターをかっこいい堤真一をあてたところに、この映画の大きな間違いがある。
売れたい、売りたい、という態度では、良い映画は生まれるはずもない。
湯川のキャラクターはまだなんとか観られるが、柴咲コウの一言、
「苦しんでるなら、私もあなたとその苦しみを共有したいんです」という訳のわからない台詞。
唐突すぎて、愛の告白か、気でも触れたか、心配してしまう。
結局、「紅」を置かないと映画として展開できないことが、もう「負けている」証拠だと思えてならない。
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