評価点:80点/2006年/アメリカ
監督:ポール・グリーングラス
アメリカの迷いと決意
9月11日日早朝。いつも通りの忙しさにニューアークの管制塔はいつも通りの対応だった。
しかし、一機の応答不能に陥った航空機を察知。
ハイジャックではないかと俄に騒がしくなった。
そうしている間に、目の前のトレードセンターが煙を上げていた。
応答不能の航空機と目の前の事件がいかにつながっているかもわからぬまま、次々と不審な航空機が発見されていく。
ユナイテッド航空93便は、いつも通りのルートを通るはずだった。
しかし、この航空機も、事件の渦中にあった…。
あの9・11の事件を初めて映画化した作品が、この「ユナイテッド93」である。
記憶に新しいあの事件を、早くも映画化してしまうところが、いかにもアメリカ・ハリウッドらしい。
当然、この新しすぎる、そして衝撃的すぎる事件を、「物語」としてどう料理するのか。
この映画の注目はそこにつきる。
そして、下手をすれば遺族や関係者から猛烈な反対や批判が出るだろう、題材にどのようなテーマを持たせるのか。
この映画は間違いなく成功した映画の一本である。
この夏、機会があるなら、是非みたい、観て欲しい映画である。
▼以下はネタバレあり▼
初めに、この事件が映画化されるというのを聞いたときの、その印象を書いておこうと思う。
映画や小説、アニメ・漫画というストーリーを持つもの全ては、必ず共通点がある。
それは、「終わっている」という点だ。
それが作品である以上、区切りがあり、完了していることが、「物語」の条件なのだ。
途中で未完のままの文章であっても、そこで終わったことに読み手は何らかの意味を見出す。
ならば、全ての「物語」は終わっていることを前提として語られるのである。
そのように考えると、この映画は、9・11の出来事を描くということ、それそのものが、事件を風化させたくないという意味合い以上に、「物語」を何らかの形で終了させたいからだ、というアメリカ国民の強い動機があるのではないか、と思っていた。
つまり、映画にしてしまうことで、「物語」として終わらせたい、「過去」にしたいのではないか、ということだ。
さらに言えば、「そこから新たなスタートを切りたい」ということでもある。
その意味で、この時期に映画化したということは、商業的な意図も含まれているとはいえ、アメリカ人にとって、必要不可欠なことだったのだと切実ささえ感じる。
この映画が良くできていることから、余計にその印象を強く持った。
さて、この映画、制作段階からかなり気合いが入っている。
事件直後から、関係者に入念な取材を行い、事件の詳細を明らかにしていった。
おそらく、それは時間と金というだけではなく、遺族や関係者の心をまず開くことから始められた作業であろう。
その意味で、通常のドキュメンタリーとは少し違った苦労があったに違いない。
しかも、それが完了したところで、世論が許さなければ、スポンサーが許さなければ、制作・公開にはこぎ着けられない。
映画をいざ撮る以前に大きな障害が立ちはだかっていたことは、想像に難くない。
それだけではない。
実際に関係していた人間を映画に出演させるという徹底ぶりだ。
そして有名な役者は一切排除し、無名の乗客を貫き通した。
現在未公開の「ワールドトレードセンター」とはその時点でスタンスが違う。
徹底的にリアルに、そして現実の再現に重きを置いているのである。
この映画の出来云々よりも、まずはそこにこの映画の偉大さがあるのだろう。
テーマは事件の「再現」という言葉に尽きる。
この映画、ラストまで見た感想は、すごい映画だ、ということだった。
そして、非常に客観的に作られているのだろうということだった。
だが、それと同時に良くできている映画であるからこそ、そこに隠された意図や哲学、思想とはいったい何だろうということだった。
アメリカ人が絶対的に正しいようには描いてはいない。
テロリストたちの迷いや恐怖も描かれている。
それどころか、軍や航空関係者たちの戸惑いや、恐怖、混乱、悲しみさえ、きちんと描いてある。
あきらかに一方的な視点では描かれてはいない。
一緒に観に行った友人は「できるだけ客観的に撮りたかったんじゃないの」と答えてくれた。
しかし、僕にはそれは違うような気がしていた。
これだけ徹底的にリアルに描きながらも、それでいて単純に「面白い」と思えた。
語弊がある言い方かもしれないが、面白い、良くできた映画だ、と思ったのは確かだ。
ここまで完成度の高い映画であるということは、そこには非常に巧妙に隠されているが、意図されたスタンスがあるのではないか。
映画という表現、芸術である以上、スタンスのあやふやなものは、面白くなるはずがない。
そういう確信さえあった。
映画を見た後、すぐに批評に出来なかった理由はそこである。
これは何かが違う。
一方的でないとしても、そこには隠された何かがあるはずだ……。
僕の思い至った結論はこうだ。
この映画は、この事件を体験した――直接的にであれ、間接的にであれ――者たちにとっての一つの絶対的解答である。
リアルタイムに体験した僕は、この事件当日の自分の動きを完全に思い出すことができる。
今でも、あの衝撃を忘れることが出来ない。
朝方までテレビで震えていた自分をまざまざと思い出す。
そして、その後数年間で、関連した戦争が二つ起こり、その戦争に対して、誰もが意義を見いだせないままである。
このコンテクストのなかで、この映画を置くと、これはアメリカ人の絶対的な解答なのだろうという気がしてくる。
パンフにはこう書いてある。
「ユナイテッド93便の乗客は“9.11以降の世界”に生きた最初の人々だった」
この言葉はまさにその通りだろう。
テロが起こり、はじめて自分たちの生きることが「当たり前」でなく、戦わなければならないことを知り、実行に移し、多くの命を救った人々だったのだ。
それは、絶対的に正しい。
テロを起こそうとした人間にとって、それがどのような意味があるのかは、よくわからない。
しかし、それを命がけで行おうとした人々にしても、それを命がけで阻止しようとした人々にしても、完全に矛盾する、二律背反の思想と行動だが、それでも彼らの行動は双方ともに「完全に正しい」と言ってしまえる。
権力や利権、宗教や陰謀などと全く関わりなく、「絶対的に正しい」のだ。
テロを起こした人間を肯定したいのではない。
他に解決策があったのではないかと今でも信じている。
しかし、あの時間、あの空間においては、彼らの「正義」は、きっと正しかったに違いない。
そして、それを全力で、まさに命がけで阻止した乗客も、報復のアフガン戦争の正しさに疑問があるという意味において、また「絶対的に正しい」のだろう。
今、アメリカを含むテロに恐怖する国々は、迷いの中を生きている。
どうすればテロを防げるのか、ということだけではなく、どのようにすればその連鎖を止められるのか、ということを、迷いながら生きている。
その答えは、アメリカ人の中にもなければ、日本人にもないし、ましてテロリストたちにもないだろう。
しかし、この映画はその双方から考えても、絶対的に正しいのだ。
記録によれば、墜落する寸前の数分間の記録は何が起こったかわからなかったという。
フライトレコーダーにも、遺族の証言にも、何もないため何が起こっていたのか、もう知る余地はないということだ。
しかし、この映画はその前までの状況から、飛行機の最後を推測して撮られている。
この数分間にこそ、この映画の制作者の全てが込められているような気がする。
乗り合わせた乗客すべてが一丸となって、悪と戦う。
自分たちの命を縮め、助かる見込みがなかったとしても。
それは社会的な視座や、国際的な利害を超えて、思想や宗教を越えて、絶対的に「正しい」想いだろう。
アメリカや、そのほかの国の人間がこの映画を肯定的に観ることができたなら、それは、絶対的な正しい解答を求めているからに他ならない。
「9.11」がまだ終わらない今日において、物語として終わらせるためにこの映画があるとすれば、同時に、何が正しいかわからなくなってしまった迷いの僕たちに、
絶対的な正しい解答を具現化したいがため、この映画があるのだろう。
(2006/9/25執筆)
監督:ポール・グリーングラス
アメリカの迷いと決意
9月11日日早朝。いつも通りの忙しさにニューアークの管制塔はいつも通りの対応だった。
しかし、一機の応答不能に陥った航空機を察知。
ハイジャックではないかと俄に騒がしくなった。
そうしている間に、目の前のトレードセンターが煙を上げていた。
応答不能の航空機と目の前の事件がいかにつながっているかもわからぬまま、次々と不審な航空機が発見されていく。
ユナイテッド航空93便は、いつも通りのルートを通るはずだった。
しかし、この航空機も、事件の渦中にあった…。
あの9・11の事件を初めて映画化した作品が、この「ユナイテッド93」である。
記憶に新しいあの事件を、早くも映画化してしまうところが、いかにもアメリカ・ハリウッドらしい。
当然、この新しすぎる、そして衝撃的すぎる事件を、「物語」としてどう料理するのか。
この映画の注目はそこにつきる。
そして、下手をすれば遺族や関係者から猛烈な反対や批判が出るだろう、題材にどのようなテーマを持たせるのか。
この映画は間違いなく成功した映画の一本である。
この夏、機会があるなら、是非みたい、観て欲しい映画である。
▼以下はネタバレあり▼
初めに、この事件が映画化されるというのを聞いたときの、その印象を書いておこうと思う。
映画や小説、アニメ・漫画というストーリーを持つもの全ては、必ず共通点がある。
それは、「終わっている」という点だ。
それが作品である以上、区切りがあり、完了していることが、「物語」の条件なのだ。
途中で未完のままの文章であっても、そこで終わったことに読み手は何らかの意味を見出す。
ならば、全ての「物語」は終わっていることを前提として語られるのである。
そのように考えると、この映画は、9・11の出来事を描くということ、それそのものが、事件を風化させたくないという意味合い以上に、「物語」を何らかの形で終了させたいからだ、というアメリカ国民の強い動機があるのではないか、と思っていた。
つまり、映画にしてしまうことで、「物語」として終わらせたい、「過去」にしたいのではないか、ということだ。
さらに言えば、「そこから新たなスタートを切りたい」ということでもある。
その意味で、この時期に映画化したということは、商業的な意図も含まれているとはいえ、アメリカ人にとって、必要不可欠なことだったのだと切実ささえ感じる。
この映画が良くできていることから、余計にその印象を強く持った。
さて、この映画、制作段階からかなり気合いが入っている。
事件直後から、関係者に入念な取材を行い、事件の詳細を明らかにしていった。
おそらく、それは時間と金というだけではなく、遺族や関係者の心をまず開くことから始められた作業であろう。
その意味で、通常のドキュメンタリーとは少し違った苦労があったに違いない。
しかも、それが完了したところで、世論が許さなければ、スポンサーが許さなければ、制作・公開にはこぎ着けられない。
映画をいざ撮る以前に大きな障害が立ちはだかっていたことは、想像に難くない。
それだけではない。
実際に関係していた人間を映画に出演させるという徹底ぶりだ。
そして有名な役者は一切排除し、無名の乗客を貫き通した。
現在未公開の「ワールドトレードセンター」とはその時点でスタンスが違う。
徹底的にリアルに、そして現実の再現に重きを置いているのである。
この映画の出来云々よりも、まずはそこにこの映画の偉大さがあるのだろう。
テーマは事件の「再現」という言葉に尽きる。
この映画、ラストまで見た感想は、すごい映画だ、ということだった。
そして、非常に客観的に作られているのだろうということだった。
だが、それと同時に良くできている映画であるからこそ、そこに隠された意図や哲学、思想とはいったい何だろうということだった。
アメリカ人が絶対的に正しいようには描いてはいない。
テロリストたちの迷いや恐怖も描かれている。
それどころか、軍や航空関係者たちの戸惑いや、恐怖、混乱、悲しみさえ、きちんと描いてある。
あきらかに一方的な視点では描かれてはいない。
一緒に観に行った友人は「できるだけ客観的に撮りたかったんじゃないの」と答えてくれた。
しかし、僕にはそれは違うような気がしていた。
これだけ徹底的にリアルに描きながらも、それでいて単純に「面白い」と思えた。
語弊がある言い方かもしれないが、面白い、良くできた映画だ、と思ったのは確かだ。
ここまで完成度の高い映画であるということは、そこには非常に巧妙に隠されているが、意図されたスタンスがあるのではないか。
映画という表現、芸術である以上、スタンスのあやふやなものは、面白くなるはずがない。
そういう確信さえあった。
映画を見た後、すぐに批評に出来なかった理由はそこである。
これは何かが違う。
一方的でないとしても、そこには隠された何かがあるはずだ……。
僕の思い至った結論はこうだ。
この映画は、この事件を体験した――直接的にであれ、間接的にであれ――者たちにとっての一つの絶対的解答である。
リアルタイムに体験した僕は、この事件当日の自分の動きを完全に思い出すことができる。
今でも、あの衝撃を忘れることが出来ない。
朝方までテレビで震えていた自分をまざまざと思い出す。
そして、その後数年間で、関連した戦争が二つ起こり、その戦争に対して、誰もが意義を見いだせないままである。
このコンテクストのなかで、この映画を置くと、これはアメリカ人の絶対的な解答なのだろうという気がしてくる。
パンフにはこう書いてある。
「ユナイテッド93便の乗客は“9.11以降の世界”に生きた最初の人々だった」
この言葉はまさにその通りだろう。
テロが起こり、はじめて自分たちの生きることが「当たり前」でなく、戦わなければならないことを知り、実行に移し、多くの命を救った人々だったのだ。
それは、絶対的に正しい。
テロを起こそうとした人間にとって、それがどのような意味があるのかは、よくわからない。
しかし、それを命がけで行おうとした人々にしても、それを命がけで阻止しようとした人々にしても、完全に矛盾する、二律背反の思想と行動だが、それでも彼らの行動は双方ともに「完全に正しい」と言ってしまえる。
権力や利権、宗教や陰謀などと全く関わりなく、「絶対的に正しい」のだ。
テロを起こした人間を肯定したいのではない。
他に解決策があったのではないかと今でも信じている。
しかし、あの時間、あの空間においては、彼らの「正義」は、きっと正しかったに違いない。
そして、それを全力で、まさに命がけで阻止した乗客も、報復のアフガン戦争の正しさに疑問があるという意味において、また「絶対的に正しい」のだろう。
今、アメリカを含むテロに恐怖する国々は、迷いの中を生きている。
どうすればテロを防げるのか、ということだけではなく、どのようにすればその連鎖を止められるのか、ということを、迷いながら生きている。
その答えは、アメリカ人の中にもなければ、日本人にもないし、ましてテロリストたちにもないだろう。
しかし、この映画はその双方から考えても、絶対的に正しいのだ。
記録によれば、墜落する寸前の数分間の記録は何が起こったかわからなかったという。
フライトレコーダーにも、遺族の証言にも、何もないため何が起こっていたのか、もう知る余地はないということだ。
しかし、この映画はその前までの状況から、飛行機の最後を推測して撮られている。
この数分間にこそ、この映画の制作者の全てが込められているような気がする。
乗り合わせた乗客すべてが一丸となって、悪と戦う。
自分たちの命を縮め、助かる見込みがなかったとしても。
それは社会的な視座や、国際的な利害を超えて、思想や宗教を越えて、絶対的に「正しい」想いだろう。
アメリカや、そのほかの国の人間がこの映画を肯定的に観ることができたなら、それは、絶対的な正しい解答を求めているからに他ならない。
「9.11」がまだ終わらない今日において、物語として終わらせるためにこの映画があるとすれば、同時に、何が正しいかわからなくなってしまった迷いの僕たちに、
絶対的な正しい解答を具現化したいがため、この映画があるのだろう。
(2006/9/25執筆)
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