secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

〈所有〉する電話

2010-04-06 20:00:59 | 不定期コラム
最近思うのは、ケータイ電話は「プライバシー」の塊だと言われるが、むしろ、「アイデンティティ」の塊ではないか、ということだ。

ある日、大きな駅で人だかりが出来ていた。
何事かとその人だかりの中心を覗いてみると、人々がケータイ電話を片手に、ネコの写真を撮っていたのだ。
そのネコは、小さく、大人しく座っている。
しかも、かわいらしく服を着せられている。
いかにも造られた様子だが、そのネコの周りに多く人が集まり、必死に自分のカメラ付きケータイ電話で写真を撮っている。
僕は大してネコが好きでもないので、ああ、やってるな~と思いながら通り過ぎた。

同じ駅で同じ光景を何度か目撃している。
飼い主らしき人が、これ見よがしに「見せている」ことに、むしろ嫌悪感すら抱くが、それでも人垣は減ったように見えない。
僕は、この光景に違和感を覚えた。
もっと言えば、不思議に思った。

なぜあの人たちは、自分のネコでもないネコの写真を必死に撮っているのだろうか。

中にはサクラがいるのかもしれない。
飼い主にすれば、単に自分の飼いネコを自慢したいだけなのかも知れない。
もしかしたら、何かの商売の客引きのためにつれてきているのかも知れない。
長時間立ち止まっていたわけではないので、飼い主の意図は、なんとも言い切れない。
おそらく、大人しく座っている服を着せた自分のネコを自慢したかったのだろう。
その気持ちは、共感はしないし感心もしないけれど、理解はできる。

ところが、周りを取り囲む人々の群れは一体なんなのだろうか。
しかも、見るだけではなく、写真を撮っているのだ。歓声をあげて。

そこで、僕は考えた。
そしてある結論に達した。
それは、彼らは自分のケータイで写真を撮る事によって、ネコを〈所有〉しようとしているのではないか、ということだ。
この場合、当然本当に手に入れるのとは全く違う。
あの人垣の中に、自分でネコを連れて帰る勇気を持つ人は誰もないだろう。

彼らは、ネコを自分のケータイ電話に閉じこめる事によって、間接的に、あるいは心理的に、そのかわいいネコを自分の〈所有物〉にしようとしているのだ。
それは、画像というメディアの中に閉じこめる事によって、いつでも自分の見たいときに見、他人に自慢したいときに自慢するという意味合いに於いて、〈所有〉するのである。
飽きれば、とうぜん消す事だってできる。
手間をかけずに、しかも一番かわいい姿のまま保存して、管理する事ができるのだ。
これほど手っ取り早い〈所有〉の方法は、他にはないだろう。
彼らはネコを写真で撮る事によって、自分の管理下に置き、〈所有〉するために、群がっていたのである。

そのように考えると、そもそも、このケータイ電話のカメラというもの、あるいは、デジタルカメラやプリクラのたぐいも、同じような目的があるのではないかと思えてくる。
よく、思い出をつくるために頑張る、とか、あとで見返したときに懐かしむために旅行に行く、とかいう話を聞く。
そのとき、今ではカメラという道具は、「マスト・アイテム」になりつつある。
というか、なっている。
これは、単なる「記録」という域を超えたものではないだろうか。
つまり、思い出や出来事を〈所有〉するために、写真やプリクラを撮るのだ、という意味だ。

もっと言えば、友達や友人その他の人間関係さえも、〈所有〉するのだ。
プリクラ帳などは、その典型ではあるまいか。
ぎっしりと並べられたプリクラの数々が記録されたプリクラ帳。
残念ながら、僕はそんなものを作ったことがないので、友達と自慢し合ったり、集め合ったりする感覚も文化もない。
しかし、なんとなく、その楽しさには覚えがある。
それは、ビックリマンチョコや、カードダス、メンコ、あるいはゲーム内のアイテム集めに共通した感覚ではないか、と思うのだ。
友達を〈所有〉する。

人聞きが悪いかも知れないが、それは現代においてはなんら不思議な事ではないだろう。
友達や恋人も、目の見える形で管理、確認したいのだ。
その感覚は、何も若い女の子だけが持っているものではないはずだ。
誰しも、その感覚は持っているだろう。
だから、プリクラをみると安心するし、自慢もできるのだ。

芸能人を見つけたら、すぐさまカメラ付きケータイ電話で撮ろうとする。
芸能人は煙たがるが、それを取り巻く人は辞めようとしない。
これも同じだ。
芸能人を見た、芸能人に会った。
この事実を、画像という形で〈所有〉したいのだ。
驚くべき欲望である。
見たという経験を形として残し、管理したいのだ。
それは「記録」ではないし、「思い出の品」とも違う。
昔はサインだったのだろう。
しかし、今はカメラ付きケータイ電話であり、デジカメである。
芸能人達が、これに嫌悪感を抱くのも、取り巻く人が、物欲に駆られた目をしているからかもしれない。
極端な話、どんな有名人でも良いのかも知れない。
問題は、有名人と言われる人たちを、自分は〈所有〉しているのだ、という感覚なのだから。
そこに、羨望のまなざしや、憧れのまなざしはない。
欲しいという物欲そのものなのだ。

何でも形で確認しなければすまなくなった。
形こそが、自分が生きている証だし、自分を保証するものなのだ。
それは一種の病かもしれない。
しかし、それがいけないことだと言っても始まらない。
ただ、そうなのだ、という現実に気付くことしか僕たちにはできない。

そのものの、歴史性、社会性のすべてを収めることができる写真は、ヴィジュアル重視の現代の最も具体的な〈所有〉の形である。
それが手っ取り早く行えるケータイは、電話を超越する、夢のコレクション・ボックスなのかもしれない。
人間関係までコレクションしてしまうケータイは、もはやアイデンティティそのものなのである。

(2006/3/26執筆)
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