secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

トレインスポッティング(V)

2010-04-05 21:54:19 | 映画(た)
評価点:83点/1996年/イギリス

監督:ダニー・ボイル

俺たちがマトモになるために必要なことはなにか。

麻薬におぼれるレントン(ユアン・マクレガー)は、何度も薬を断とうと決心するが何度も失敗していた。
仲間の三人とともに、盗みや強盗を繰り返しては、ドラッグに消えていく毎日だったが、ある日逮捕されてしまう。
見かねた両親も彼を拘束して麻薬をやめさせようとする。
その結果、カタギに戻ることができたレントンだったが、友人たち三人にある仕事を持ちかけられて…。

いまさら、という感じがするが、何度も借りては何度もそのまま返していた作品の一つ。
ダニー・ボイルといえば「28日後…」くらいしか知らなかったので、さすがにまずいと思って観ようと思っていた作品だ。
ユアン・マクレガーの出世作でもある本作は、同名小説の映像化という触れ込みだった。
だが、あまりに鮮烈で、あまりに斬新だったため、話題になったのである。
とりあえず、観ておけ、という作品の一つになりつつある。

まだ観たことがないという人は、早めに観ておくことをおすすめする。
一つは、観ていないと恥ずかしいということと、もう一つは若いうちに観ておかないと、きっと理解できなくなる。
頭で観ることも必要だが、感性で観ることも必要。
そう感じさせてくれる作品だ。

といいながら、僕はおもいっきり頭で分析してこの批評を書くわけだが。

▼以下はネタバレあり▼

冒頭から一時間くらい、この映画の方向性が全く見えなくて閉口していた。
斬新でスタイリッシュな映像はおもしろいし、確かにちょっと麻薬に…なんていうのもありかな、と思えてしまう。
もちろん、そんなんしませんけれども。

だが、ラストに至って、ようやくこの映画のすごさが解った。
解ったときにはちょっとうれしくなった。
そして、ダニー・ボイルはやはりクレバーでスマートな監督なのだということを再確認した。
確かに、この映画は一つの時代を反映した、1996年という時代の楔(くさび)になる映画だろう。

ざっくり言って、この映画を要約するならば、「若者が社会に飲み込まれる通過儀礼の物語」であり、「普通になるためにどうあるべきかを悟る物語」である。
レントンが麻薬におぼれるのは、若者が悪いことをして愉しむのと同じくらい必然性をもっている。
働いて稼いで、そして少々の幸せを謳歌する。
ほとんどの人間はそういう「普通」の幸せを求めたがるが、少し考えてみれば、苦しい思いをして働いて得る幸せよりも、楽に稼いで快楽を手に入れる方がよほど自然である。
ましてやスコットランドの田舎町、すぐに麻薬が手に入る環境であれば、わざわざ額に汗して働く必要性を感じるのはばかばかしいというものだ。
「普通」の僕たちにしてみれば、異常に見えるレントンたちの姿も、自分たちの生活を振り返れば、むしろそれほど不思議な話ではないように感じる。
まさに、この映画が狙っている〈異化〉効果はここにある。

快楽におぼれたレントンは、ラストでまともな、普通の生活を見つけることができる。
映画は16000ドルという大金を手に入れるまでしか描かれていないが、彼は確実に普通の社会に復帰するための切符を手に入れたのだ。
この物語はレントンが社会で普通に生きるようになるまでを描いているのである。

では、レントンはその「普通」をどのように手に入れたのだろうか。
それは、彼のラストの語りに示されている。

「なぜ俺だったのか。それは俺が一番ワルだったからだ」

四人の仲間で最も頭が切れて、そしてワルだったレントンは、仲間を裏切るという方法で「普通」を手に入れてしまう。
それはつまり、普通の人間はみな、誰かを裏切っているという暗示に他ならない。
乱暴者のベクビー(ロバート・カーライル(「28週後…」のお父さん役))にしても、頭が弱いスパッド(ユエン・ブレムナー)にしても、彼らは社会の縮図である。
だが、結果的に社会でマトモだと言われるのは、友達を裏切ることができる賢さを手に入れたレントンだけなのだ。
この点が非常におもしろい。

ラストで誰もが感じるであろう、爽快感と孤独感、虚無感、そして寂寥感は、大人になるときに感じるそれと似ている。
何度も薬を断とうとするが、結局悪友の誘いによって引き戻される。
それはあたかも、自身のなかのそれぞれの感情であるかのようだ。
だが、それを断ち切らないと大人には成れない。

僕たちが終幕で感じる寂寥感は、友人がいなくなったことだけではない。
それは、あれほど自由だった子ども時代へ、もう戻ることができなくなるという寂寥感なのだ。
座薬の麻薬を、スコットランド1汚いトイレの便器に顔を突っ込んで、それを手に入れたときの爽快なレントンの姿は、観るものまでも引き込む「自然さ」がある。
人間としてありのままの自然さを僕たちは知る。
途中で麻薬をすることの罪悪感が、観客になくなっていくのは、それがどこまでも自然だからだ。
だが、「人間」にならなければ、いつまでたっても子どもは子どもであり、ならず者である。
だから、レントンは手に入れる。
お金を手入れて大人になる。
そして、レントンは捨て去る。
悪友を捨て去って大人になる。
麻薬を捨て去って大人になる。
自分を捨て去って大人になる。

そして、切なさだけが残るのである。

この巧みな展開と、映像感覚、そしてキャスティング。
どこまでも計算されているようで、どこまでも偶然生み出されたような奔放さがおもしろい。

たまたま抜き取った自作ビデオのせいで、友人は麻薬に手を出して、死んでしまう。
大人になることはそんなに難しいことなのか。
だが、確かに大人になれば不条理が当たり前のように感じるようになる。
この映画が暗示する怖さは、麻薬に落ちていくことよりも「人間」になることで、より「人間性」を失っていくことなのかもしれない。

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