本とインターネットの本質的な違いは何か。
そういうことをここ最近考えていた。
感覚的に言えば、本を読んでいる人は自己研鑽している印象を受ける。
スマホでインターネットに勤しんでいる人を見ると、またゲームばかりして!となる。
スマホを触る(インターネットを見る)のはだめで、本は良いのか。
その違いはどこにあるのか。
ほとんど違いはない、という見方もできる。
本でもエンターテイメント性の高いものもあれば、インターネットでも自分を高める知識や技術を磨くことも十分できる。
要はコンテンツの違いであり、コンテンツこそ重要なのだ、という考え方もできる。
一概に本とインターネットを色分けすることはできない。
そうは思いつつも、やはりそこには本質的な何かがあるのではないか、と長く本を読んできた人間には思えてしまう。
その違いは何か、ということをちょっと考えてみたい。
長くなりそうなので観点を絞りながら考えよう。
今日は「終わりがある」という点で比較する。
本には終わりがある。
本という形を取ったからには、必ず終わりがある。
書き切らずに作者が死ぬことがあっても、それが出版された時点で「終わり」と見なすことができる。
終わりがあるからこそ、評価ができる。
これは表現において極めて根源的な要素だ。
終わらなければひとまとまりのメッセージとして受け取ることができない。
それは「出した後に訂正が聞かない(基本的に)」ということでもある。
だからこそ、読み手はその意味(意図)を受け取ることができる。
だが、インターネットは「終わり」がない。
終わったと思っても続けることができる。
いつまでも終わりがないのが、インターネットである。
だからこそ、その評価が定まることがない。
あとでいくらでも訂正がきく以上、日々更新される生き物のように漂うことになる。
それは表現という観点から見ると決定的な違いである。
インターネットがしばしば「信用ならない」と言われる一つの所以だろう。
そういうことをここ最近考えていた。
感覚的に言えば、本を読んでいる人は自己研鑽している印象を受ける。
スマホでインターネットに勤しんでいる人を見ると、またゲームばかりして!となる。
スマホを触る(インターネットを見る)のはだめで、本は良いのか。
その違いはどこにあるのか。
ほとんど違いはない、という見方もできる。
本でもエンターテイメント性の高いものもあれば、インターネットでも自分を高める知識や技術を磨くことも十分できる。
要はコンテンツの違いであり、コンテンツこそ重要なのだ、という考え方もできる。
一概に本とインターネットを色分けすることはできない。
そうは思いつつも、やはりそこには本質的な何かがあるのではないか、と長く本を読んできた人間には思えてしまう。
その違いは何か、ということをちょっと考えてみたい。
長くなりそうなので観点を絞りながら考えよう。
今日は「終わりがある」という点で比較する。
本には終わりがある。
本という形を取ったからには、必ず終わりがある。
書き切らずに作者が死ぬことがあっても、それが出版された時点で「終わり」と見なすことができる。
終わりがあるからこそ、評価ができる。
これは表現において極めて根源的な要素だ。
終わらなければひとまとまりのメッセージとして受け取ることができない。
それは「出した後に訂正が聞かない(基本的に)」ということでもある。
だからこそ、読み手はその意味(意図)を受け取ることができる。
だが、インターネットは「終わり」がない。
終わったと思っても続けることができる。
いつまでも終わりがないのが、インターネットである。
だからこそ、その評価が定まることがない。
あとでいくらでも訂正がきく以上、日々更新される生き物のように漂うことになる。
それは表現という観点から見ると決定的な違いである。
インターネットがしばしば「信用ならない」と言われる一つの所以だろう。
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