評価点:94点/2008年/アメリカ
監督:クリストファー・ノーラン
これは歴史に残る一作。
ゴッサムシティは、謎の自警市民バットマンによって治安の回復傾向にあった。
バットマンは、マネーロンダリングを裏の生業にしている銀行を取り締まろうとしていた。
一方、ジョーカー(ヒース・レジャー)と名乗る男は、銀行強盗を繰り返し、バットマンの頭を悩ませていた。
バットマンの表の顔である、ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)は、大富豪であることを利用し、様々なバットマンのアイテムを開発し、悪に立ち向かっていた。
だが、その戦いにも限界が見えていた。
彼の体は傷つき、表・裏の二重生活も彼を圧迫していたのだ。
そんな中、ハービー・デント検事(アーロン・エッカート)は、悪を根こそぎ取り去ろうと熱意を燃やしていた。
マネーロンダリングの銀行を検挙することをバットマンに約束し、バットマンもまた、彼をゴッサムシティの新たなる光として期待していた。
ジョーカーは、マネーロンダリング銀行に預けていたマフィアたちに、全資産の半額を出せば、バットマンを殺してやる、と持ちかける……。
ヒース・レジャーが急死したことによって、この作品が彼の遺作になった。
そのため、この映画が一気に脚光を浴びることになったわけだ。
それは監督としてはある意味では不本意だったのかもしれない、とさえ思う。
話題になったが、話題にならなくても、きっと話題になっただろう映画だ。
もし僕が映画館でこの映画を観ていたとしたら、2008年の映画で、文句なしのNO.1の座を与えていただろう。
「JUNO」との比較は意味がないにしても、この映画は圧倒的だ。
150分を超える超大作であるが、全くその冗長さを感じさせない。
むしろ、短いと感じさせるほど緊密な、張り詰めた空気と完璧さをたたえている。
「バットマン」シリーズをまともに観たのは初めてだが、そんなことは全く問題にならない。
バットマンのバの字も知らない人でも、絶対に楽しめる。
2008年の一本、ではなく、「人生に一本」の作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
僕はアクション映画で、しかもヒーローものの映画で、はじめて泣いた。
エンドロールに入った瞬間、涙があふれてしまった。
大げさなのだろう。
その前に「チェ」を観に行った影響も少なからずあるだろう。
ただ、泣いた事実は変わらない。
僕が身を切られるような痛さ、つらさ、そして覚悟を感じた理由は、やはりアメリカという国の現在の状況が頭の中にあったからだ。
イラク戦争で事実上の敗北を喫し、金融危機に陥り(映画制作時には当然「かげり」程度だったけれどね)、軍事力を持ちながらもかえってその影響によってテロにおびえる毎日。
アメリカの自信はどこにいった、という混乱の中にある。
彼らが藁にもすがる思いで、オバマを大統領に選んだのは、人種を乗り越える希望の裏側には、アメリカ白人の背に腹は代えられないという危機感の何よりもの現れである。
その状況にあって、「ダークナイト」は作られ公開された。
「スパイダーマン」の、ある意味では楽天的な内容とは真逆に、だが、アメリカという国をやはり同じように象徴しているヒーローが、どのように国を描くのか、というのがこの映画のテーマである。
この映画には不安と残虐性が満ちている。
それは理解できる不安ではない。
悪役のジョーカーが言うのはまさにその通りだ。
「人間は計画の中にあればどんなことがあっても不安を感じない。
けれども、計画の外に何かが起こればたちまち恐怖に駆られる。」
ジョーカーが担っているのは、理解できない恐怖、想定外の不安だ。
何が起こってもおかしくないが、それがどのように起こるのか全く予測不能の事態、それがゴッサムシティとアメリカに共通する恐怖だ。
だから、ジョーカーは素顔を表さない。
全く役者泣かせの設定だ。
そして、彼はDNA鑑定にもかからないし、指紋も照合できない。
当たり前だ。
彼は人間という存在を超えた、抽象的な闇、抽象的な恐怖なのだから。
抽象的という言い方が嫌なら、普遍と言い換えてもそれほど意味は変わらない。
ジョーカーという名前も、それを示している。
だから、この映画を観て、ジョーカーみたいなことはできるはずがない、という批判は全く的外れなのだ。
あれだけの爆弾が仕掛けられたことに疑問をもつ必要はない。
彼に不可能はない。
彼が悪意(ヴァイス)そのものなのだから。
この映画のヴァイスは、ジョーカーだけではない。
この映画は、脚本も悪意に満ちている。
それによって観客さえも恐怖に陥るように仕組まれている。
この映画には、観客にさえ読めない「だまし」がある。
たとえば、バットマンに協力している警部のゴードン(?)が市長をかばい撃たれる。
撃たれた後、死んだことにされ、家族にその訃報を伝えるシーンが挿入される。
だが、その後実は生きていたという事実が明かされる。
観客は、警部まで殺すのか、と半ば絶望していただけに、喜びよりも「この先どうなるのだ」という不安の方が大きくなる。
それだけではない。
ジョーカーがと恋人のレイチェルとを天秤にかけるようにゲームを設定する。
レイチェルはブルースにとっても恋人である以上、観客は当然レイチェルを選ぶことになる。
だが、実際に助けに行くのは検事のデントのほうなのだ。
ジョーカーは非情である。
恋人よりも未来の光を選ばされたこが、衝撃であり、またダークナイトとしての覚悟への伏線となる。
それよりも、やはり期待や読みを裏切られた観客は、また不安になる。
恋人まで殺してしまうのか、と。
病院の爆破についてもそうだ。
デントが死んだように見せておきながら、実は生きている(トゥーフェイスとして)。
こういった細かい裏切りを見せられることで、観客はどんどん不安になっていく。
緊迫したシーンや残虐なシーンが多いので、緊張感や緊迫感が生まれているだけでなく、こうした細かい裏切りが、観客のストレスになる。
そのストレスは、まさにゴッサムシティに住む住民と全く同じ状況を作り出すのだ。
その不安が一気に吹き飛ぶのは、ゴッサムシティの住民の決断だ。
ラスト、二隻のフェリーがお互いの起爆装置を持たされ、数十分の猶予を与えられる。
どちらが先に相手のフェリーを爆破してもかまわないが、爆破しなければ二隻とも爆破されてしまう。
一隻には囚人が、もう一隻には住民が多数乗っていた。
囚人は、期限数分前に警官から起爆装置を受け取り、そして海へ投げ捨てた。
住民も、兵士から奪い取って起爆装置に手をかけるものの、やはり押せなかった。
彼らは自分のために人を殺すことは選択できなかったのだ。
ゴッサムシティの住民は、当然、アメリカ国民を象徴している。
観客はこのシーンを観たとき、一気に救われることになる。
バットマンが救われるのと同じように、この闇の街に一筋の良心を見るのだ。
ジョーカーを捕らえたことによるカタルシスと相俟って、大きな浄化作用を生みだすのだ。
これが、ジョーカーの逮捕よりも意味を持つのは、彼が抽象的な存在であること、そしてその拠り所は、悪意であるとによっている。
悪意をぶっつぶすのは、逮捕ではない。
善意なのだ。
そして、物語は大きな痛みへの覚悟、という終幕を迎える。
人から嫌われても、憎まれても、蔑まれても、それでもヒーローでいるのか。
嫌われながらも、街を守るために生きることができるのか。
何よりも守りたいものからにくまれる覚悟があるのか。
アメリカはダークナイトとならなければ、世界は救えないのだ、という強力なメッセージだ。
それは単なるレトリックではない。
もちろん、詭弁でもない。
レトリックでも、詭弁でもないことは、ヒース・レジャーが命を削って演じた悪意に示されている。
この結論の重さは、かつてない、とてつもない意味を持っている。
世界が求めているのは、自己犠牲をいとわない強い意志なのだ。
監督:クリストファー・ノーラン
これは歴史に残る一作。
ゴッサムシティは、謎の自警市民バットマンによって治安の回復傾向にあった。
バットマンは、マネーロンダリングを裏の生業にしている銀行を取り締まろうとしていた。
一方、ジョーカー(ヒース・レジャー)と名乗る男は、銀行強盗を繰り返し、バットマンの頭を悩ませていた。
バットマンの表の顔である、ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)は、大富豪であることを利用し、様々なバットマンのアイテムを開発し、悪に立ち向かっていた。
だが、その戦いにも限界が見えていた。
彼の体は傷つき、表・裏の二重生活も彼を圧迫していたのだ。
そんな中、ハービー・デント検事(アーロン・エッカート)は、悪を根こそぎ取り去ろうと熱意を燃やしていた。
マネーロンダリングの銀行を検挙することをバットマンに約束し、バットマンもまた、彼をゴッサムシティの新たなる光として期待していた。
ジョーカーは、マネーロンダリング銀行に預けていたマフィアたちに、全資産の半額を出せば、バットマンを殺してやる、と持ちかける……。
ヒース・レジャーが急死したことによって、この作品が彼の遺作になった。
そのため、この映画が一気に脚光を浴びることになったわけだ。
それは監督としてはある意味では不本意だったのかもしれない、とさえ思う。
話題になったが、話題にならなくても、きっと話題になっただろう映画だ。
もし僕が映画館でこの映画を観ていたとしたら、2008年の映画で、文句なしのNO.1の座を与えていただろう。
「JUNO」との比較は意味がないにしても、この映画は圧倒的だ。
150分を超える超大作であるが、全くその冗長さを感じさせない。
むしろ、短いと感じさせるほど緊密な、張り詰めた空気と完璧さをたたえている。
「バットマン」シリーズをまともに観たのは初めてだが、そんなことは全く問題にならない。
バットマンのバの字も知らない人でも、絶対に楽しめる。
2008年の一本、ではなく、「人生に一本」の作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
僕はアクション映画で、しかもヒーローものの映画で、はじめて泣いた。
エンドロールに入った瞬間、涙があふれてしまった。
大げさなのだろう。
その前に「チェ」を観に行った影響も少なからずあるだろう。
ただ、泣いた事実は変わらない。
僕が身を切られるような痛さ、つらさ、そして覚悟を感じた理由は、やはりアメリカという国の現在の状況が頭の中にあったからだ。
イラク戦争で事実上の敗北を喫し、金融危機に陥り(映画制作時には当然「かげり」程度だったけれどね)、軍事力を持ちながらもかえってその影響によってテロにおびえる毎日。
アメリカの自信はどこにいった、という混乱の中にある。
彼らが藁にもすがる思いで、オバマを大統領に選んだのは、人種を乗り越える希望の裏側には、アメリカ白人の背に腹は代えられないという危機感の何よりもの現れである。
その状況にあって、「ダークナイト」は作られ公開された。
「スパイダーマン」の、ある意味では楽天的な内容とは真逆に、だが、アメリカという国をやはり同じように象徴しているヒーローが、どのように国を描くのか、というのがこの映画のテーマである。
この映画には不安と残虐性が満ちている。
それは理解できる不安ではない。
悪役のジョーカーが言うのはまさにその通りだ。
「人間は計画の中にあればどんなことがあっても不安を感じない。
けれども、計画の外に何かが起こればたちまち恐怖に駆られる。」
ジョーカーが担っているのは、理解できない恐怖、想定外の不安だ。
何が起こってもおかしくないが、それがどのように起こるのか全く予測不能の事態、それがゴッサムシティとアメリカに共通する恐怖だ。
だから、ジョーカーは素顔を表さない。
全く役者泣かせの設定だ。
そして、彼はDNA鑑定にもかからないし、指紋も照合できない。
当たり前だ。
彼は人間という存在を超えた、抽象的な闇、抽象的な恐怖なのだから。
抽象的という言い方が嫌なら、普遍と言い換えてもそれほど意味は変わらない。
ジョーカーという名前も、それを示している。
だから、この映画を観て、ジョーカーみたいなことはできるはずがない、という批判は全く的外れなのだ。
あれだけの爆弾が仕掛けられたことに疑問をもつ必要はない。
彼に不可能はない。
彼が悪意(ヴァイス)そのものなのだから。
この映画のヴァイスは、ジョーカーだけではない。
この映画は、脚本も悪意に満ちている。
それによって観客さえも恐怖に陥るように仕組まれている。
この映画には、観客にさえ読めない「だまし」がある。
たとえば、バットマンに協力している警部のゴードン(?)が市長をかばい撃たれる。
撃たれた後、死んだことにされ、家族にその訃報を伝えるシーンが挿入される。
だが、その後実は生きていたという事実が明かされる。
観客は、警部まで殺すのか、と半ば絶望していただけに、喜びよりも「この先どうなるのだ」という不安の方が大きくなる。
それだけではない。
ジョーカーがと恋人のレイチェルとを天秤にかけるようにゲームを設定する。
レイチェルはブルースにとっても恋人である以上、観客は当然レイチェルを選ぶことになる。
だが、実際に助けに行くのは検事のデントのほうなのだ。
ジョーカーは非情である。
恋人よりも未来の光を選ばされたこが、衝撃であり、またダークナイトとしての覚悟への伏線となる。
それよりも、やはり期待や読みを裏切られた観客は、また不安になる。
恋人まで殺してしまうのか、と。
病院の爆破についてもそうだ。
デントが死んだように見せておきながら、実は生きている(トゥーフェイスとして)。
こういった細かい裏切りを見せられることで、観客はどんどん不安になっていく。
緊迫したシーンや残虐なシーンが多いので、緊張感や緊迫感が生まれているだけでなく、こうした細かい裏切りが、観客のストレスになる。
そのストレスは、まさにゴッサムシティに住む住民と全く同じ状況を作り出すのだ。
その不安が一気に吹き飛ぶのは、ゴッサムシティの住民の決断だ。
ラスト、二隻のフェリーがお互いの起爆装置を持たされ、数十分の猶予を与えられる。
どちらが先に相手のフェリーを爆破してもかまわないが、爆破しなければ二隻とも爆破されてしまう。
一隻には囚人が、もう一隻には住民が多数乗っていた。
囚人は、期限数分前に警官から起爆装置を受け取り、そして海へ投げ捨てた。
住民も、兵士から奪い取って起爆装置に手をかけるものの、やはり押せなかった。
彼らは自分のために人を殺すことは選択できなかったのだ。
ゴッサムシティの住民は、当然、アメリカ国民を象徴している。
観客はこのシーンを観たとき、一気に救われることになる。
バットマンが救われるのと同じように、この闇の街に一筋の良心を見るのだ。
ジョーカーを捕らえたことによるカタルシスと相俟って、大きな浄化作用を生みだすのだ。
これが、ジョーカーの逮捕よりも意味を持つのは、彼が抽象的な存在であること、そしてその拠り所は、悪意であるとによっている。
悪意をぶっつぶすのは、逮捕ではない。
善意なのだ。
そして、物語は大きな痛みへの覚悟、という終幕を迎える。
人から嫌われても、憎まれても、蔑まれても、それでもヒーローでいるのか。
嫌われながらも、街を守るために生きることができるのか。
何よりも守りたいものからにくまれる覚悟があるのか。
アメリカはダークナイトとならなければ、世界は救えないのだ、という強力なメッセージだ。
それは単なるレトリックではない。
もちろん、詭弁でもない。
レトリックでも、詭弁でもないことは、ヒース・レジャーが命を削って演じた悪意に示されている。
この結論の重さは、かつてない、とてつもない意味を持っている。
世界が求めているのは、自己犠牲をいとわない強い意志なのだ。
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