評価点:33点/2004年/アメリカ
監督:ジョセフ・ルーベン
話題作にして、最強の駄作。
息子・サムがバスに乗っているところを、突然行方不明になった。
それ以来、テリー(ジュリアン・ムーア)は、サムを追い続けていた。
その悲しみからカウンセリングを請けるようになっていた。
しかし、ある日サムの写真がすべてなくなっていたことに気づく。
夫を問い詰めたテリーだが、夫が口にしたのは
「子ども? もともと子どもなんていなかったんだよ」
どうしても子どもの記憶を疑えないテリーは、子どもの痕跡を探すため、同じバスに乗っていた娘をもつアッシュ(ドミニク・ウェスト)の元へ向かうが、彼もまた、「娘なんていない」と信じていた。
彼の家の一室に入ったテリーは、壁紙のほころびを見つけ、そこが彼の娘の部屋であったことを突き止める。
2004年、アメリカで結構話題になったというサスペンス・スリラー。
あったはずの「記憶」が失われていくという設定は、「マトリックス」や「メメント」を待つまでもなく、どんな人にとっても恐ろしいことである。
ましてそれが自分の息子、娘という極めて絆の強い者の記憶であればなおさらである。
その意味で、この映画の導入部がもつミステリアスさと、恐ろしさは、誰にでも感情移入できうるものだ。
僕も、非常に観たかった映画であったのは、そのためである。
今回、早めに見ることができたのは、飛行機に乗ったからである。
残念ながら、日本語吹き替えだったが、映画を鑑賞したと言える環境であったので、アップすることにした。
▼以下はネタバレあり▼
機内で見たにもかかわらず、アップしようと思ったのは、観る環境が悪くなかったこともあるが、一番の理由は、観終わったあと、もう一度映画館で観ることはないと考えたからだ。
この映画の最大の汚点は、謎とその真相とのギャップの大きさである。
だが、それを説明する前に、この映画のいいところを挙げておこう。
冒頭のミステリアスな雰囲気は、抜群のサスペンス効果を発揮する。
自分が信じていた息子の記憶が、全て幻想だったら?
この問いは、多くの人にとって感情移入しやすいものではないだろうか。
しかも、気づいたら、写真がすべて「ない」のである。
物的な証拠は何もなく、ただ自分の感覚しか息子の存在を証明するものはない。
この状況は、非常にそそる設定である。
全体的な雰囲気も、すばらしい。
色を押さえた統一感のある画面からは、先を知りたいと思わせる演出になっている。
だが、この映画の良いところはこれだけである。
先にも書いたが、この映画の最大の欠点は、この謎と、その真相、そしてそれを解決する方法に大きすぎるギャップがあることだ。
いかに謎と真相、その解決を箇条書きにしてみる。
(1)謎……息子の記憶をなくし始めているのはなぜか。
(あるいは息子が存在しないとすれば、なぜテリーは息子の存在を信じるのか)
(2)真相……宇宙人が地球人の親子の絆を測るために、子どもの記憶を消す実験していた。
(3)解決法……子どもを生んだ感覚ではなく、子どもを宿した感覚を見出して、
息子の記憶を取り戻し、実験を失敗させた。
もう少し詳しく筋を整理しておくと、息子の記憶を消せるのは人間業ではないと判断したテリーとアッシュは、執拗に追いかけてくる男達を問い詰め、それが宇宙人の仕業だということをつきとめる。
宇宙人たちは、地球人たちを知るため、大昔から実験をしてきた。
今回の実験は、親子の絆(記憶)を断ち切ることができるか、というもの。
ほとんどの人間には成功したが、テリーだけはサムを忘れなかった。
宇宙人はそれを成功させるため、テリーの息子の誕生の記憶を消し去ろうとする。
しかし、テリーはそれより以前の妊娠時の記憶を見つけ出し、宇宙人たちの実験を失敗させて、子どもを取り返したのであった。
映画には様々な見方ができるものの、冒頭の「謎」には、微塵もSF的要素はなかった。
確かに、息子の記憶が消えるということは、非常に超常現象的だが、まさかそれがジュリアン・ムーアがスカリーになることだとは思わなかった。
これは誰もが予想できない展開であろうことは間違いない。
先ほども書いたように、この最初の謎は、非常に解りやすく、且つ恐ろしいものである。
だが、その真相は、いわばなんでもアリのSFである。
この真相は、先を読もうと努力している観客を、バカにしたようなものだ。
突然、多くの人が子どもたちの記憶が消えてしまった。
この不思議な現象をどのように説明できるのか、観客は楽しみながらも、先を読もうと努力する。
これがサスペンス効果というものだ。
だが、エイリアンというSFの真相を用意してしまうと、それらが一気に無に帰してしまう。
観客は少なからずこう思うはずだ。
「なんだ、それならどんな映画でもそれで説明できるじゃん」
エイリアンという何でもアリの、ジョーカーを真相にしてしまったから、いきなり映画の質がサスペンスからSFになってしまう。
当然、そのエイリアンについての設定はほとんど教えてくれない。
これでは、観客が納得できるはずもない。
だが、この映画の、無茶苦茶ぶりの伏線は、最初の方に張られている。
記憶が消されたことを知ったテリーは、アッシュにこう言い切る。
「これは人間のできることじゃないわ」
「じゃあ、人間以外のものの仕業ってことか?」
「そう考えれば、全てに説明がつくもの」
正確には覚えていないが、序盤から中盤にかけてこのような会話のやりとりがある。
ここで、僕は「そりゃないでしょ」と思った。
なぜなら、確かに不思議な現象ではあるものの、いきなり「人間以外の仕業」と思いつけるものではない。
普通の人間にとって、エイリアンというものは、テレビや映画だけの存在だし、それをいきなり自身に起こった現象の説明に使ったりはしない。
この考えで行けば、何か不思議なことが起これば、すべて「人間以外の仕業」になってしまう。
このテリーという記者が、超常現象専門の雑誌記者ならもともかく、このような発想になるのは、「Xファイル」のスカリーくらいである。
息子の記憶がなくなったと考える発想も精神異常かと思わせるが、もっと異常なのはこの現象がエイリアンの仕業と考えるこの思考パターンである。
精神科医役のゲイリー・シニーズは、むしろこの思考パターンを最大の「病気」と考える必要があったとさえ思われる。
だが、この台詞はこの映画の根幹を支えているといってもいい。
なぜなら、真相がエイリアンであることをほのめかすのは、後にも先にもこの台詞だけと言ってもいいからだ。
(車でエイリアンが轢かれるシーンは、結論に近すぎる。)
この伏線だけによって、この映画の真相を先読みすることを可能にする。
この台詞だけが、「サスペンス的」なのである。
もっとオチを緩和したいなら(サスペンスとしての整合性を保つなら)、伏線を増やすことはいくらでもできた。
例えば、冒頭のテリーの部屋で流れるテレビ番組で、エイリアンの特集を見せたり、
テリーの担当の雑誌を超常現象専門誌にしたり、
サムの部屋におもちゃのエイリアン人形を置いたり。
サスペンスと思わせながら始まった映画は、サスペンスとはおよそかけ離れたSF(エイリアン)という、ブラック・ボックスのなかにその真相を全て追いやった。
エイリアンの設定もよくわからないまま、ただエイリアンの仕業だったという闇の箱を用意して、それによって全ての「不思議」を詰め込んだのである。
こんなんで納得できるかよ!
だが、それだけではこの映画のドンデン返しは終わらない。
この異常な状況に対して、解決策はこれまたブラック・ボックスの親子愛。
よく、愛さえあれば、などという歯の浮いた話があるが、これはそれよりも酷い。
愛さえあえれば、のような結論でも構わないが、問題はその「愛」の見せ方である。
愛はそれ自体では、何の意味ももたない。
それをいかに見せるか、示すかなのである。
そのように考えれば、どんな映画にも「愛」は描かれている。
それをどのように、主人公や物語に投影させるかが問題なのである。
だが、この映画は、愛それ自体が解決法そのものなのである。
解決法は、妊娠時の記憶を辿ることによって、サムの記憶を取り戻すことだ。
だが結局は、次のことが直接的な原因だったと、まとめることができる。
「私、息子をこんなにも愛しているのよ」
そんなことを、最後の最後にもってこなくても、観客は十分理解している。
息子を愛していることは、二時間も息子探しに付き合ってきた観客は、痛いほどよく理解しているのである。
それを今さら、解決法として提示されても、なにも感じられない。
しかも、この愛というブラック・ボックスを解決策にしたことによって、サスペンスとしてもさらに破綻してしまった。
エイリアンは、数少ない設定の中でも、このように自分達を説明していた。
「昔からずっと実験は続けられてきたのだ」
それなのに、女性が妊娠してから子どもが生まれるという、イマドキの幼稚園児も知っていそうな事実を知らなかったのである。
知らなかったから、誕生の瞬間の記憶から消そうしたのだ。
おいおい、お前、バカか? 何百年か何千年か、何してたの?
結局、自分達で作った謎に、自分達ではまってしまっているのである。
これでは、「トホホ」としか言いようがない。
アメリカでは大ヒットしたようだ。
ホント、アメリカ人って「エイリアンもの」好きだよね~。
(2005/3/6執筆)
監督:ジョセフ・ルーベン
話題作にして、最強の駄作。
息子・サムがバスに乗っているところを、突然行方不明になった。
それ以来、テリー(ジュリアン・ムーア)は、サムを追い続けていた。
その悲しみからカウンセリングを請けるようになっていた。
しかし、ある日サムの写真がすべてなくなっていたことに気づく。
夫を問い詰めたテリーだが、夫が口にしたのは
「子ども? もともと子どもなんていなかったんだよ」
どうしても子どもの記憶を疑えないテリーは、子どもの痕跡を探すため、同じバスに乗っていた娘をもつアッシュ(ドミニク・ウェスト)の元へ向かうが、彼もまた、「娘なんていない」と信じていた。
彼の家の一室に入ったテリーは、壁紙のほころびを見つけ、そこが彼の娘の部屋であったことを突き止める。
2004年、アメリカで結構話題になったというサスペンス・スリラー。
あったはずの「記憶」が失われていくという設定は、「マトリックス」や「メメント」を待つまでもなく、どんな人にとっても恐ろしいことである。
ましてそれが自分の息子、娘という極めて絆の強い者の記憶であればなおさらである。
その意味で、この映画の導入部がもつミステリアスさと、恐ろしさは、誰にでも感情移入できうるものだ。
僕も、非常に観たかった映画であったのは、そのためである。
今回、早めに見ることができたのは、飛行機に乗ったからである。
残念ながら、日本語吹き替えだったが、映画を鑑賞したと言える環境であったので、アップすることにした。
▼以下はネタバレあり▼
機内で見たにもかかわらず、アップしようと思ったのは、観る環境が悪くなかったこともあるが、一番の理由は、観終わったあと、もう一度映画館で観ることはないと考えたからだ。
この映画の最大の汚点は、謎とその真相とのギャップの大きさである。
だが、それを説明する前に、この映画のいいところを挙げておこう。
冒頭のミステリアスな雰囲気は、抜群のサスペンス効果を発揮する。
自分が信じていた息子の記憶が、全て幻想だったら?
この問いは、多くの人にとって感情移入しやすいものではないだろうか。
しかも、気づいたら、写真がすべて「ない」のである。
物的な証拠は何もなく、ただ自分の感覚しか息子の存在を証明するものはない。
この状況は、非常にそそる設定である。
全体的な雰囲気も、すばらしい。
色を押さえた統一感のある画面からは、先を知りたいと思わせる演出になっている。
だが、この映画の良いところはこれだけである。
先にも書いたが、この映画の最大の欠点は、この謎と、その真相、そしてそれを解決する方法に大きすぎるギャップがあることだ。
いかに謎と真相、その解決を箇条書きにしてみる。
(1)謎……息子の記憶をなくし始めているのはなぜか。
(あるいは息子が存在しないとすれば、なぜテリーは息子の存在を信じるのか)
(2)真相……宇宙人が地球人の親子の絆を測るために、子どもの記憶を消す実験していた。
(3)解決法……子どもを生んだ感覚ではなく、子どもを宿した感覚を見出して、
息子の記憶を取り戻し、実験を失敗させた。
もう少し詳しく筋を整理しておくと、息子の記憶を消せるのは人間業ではないと判断したテリーとアッシュは、執拗に追いかけてくる男達を問い詰め、それが宇宙人の仕業だということをつきとめる。
宇宙人たちは、地球人たちを知るため、大昔から実験をしてきた。
今回の実験は、親子の絆(記憶)を断ち切ることができるか、というもの。
ほとんどの人間には成功したが、テリーだけはサムを忘れなかった。
宇宙人はそれを成功させるため、テリーの息子の誕生の記憶を消し去ろうとする。
しかし、テリーはそれより以前の妊娠時の記憶を見つけ出し、宇宙人たちの実験を失敗させて、子どもを取り返したのであった。
映画には様々な見方ができるものの、冒頭の「謎」には、微塵もSF的要素はなかった。
確かに、息子の記憶が消えるということは、非常に超常現象的だが、まさかそれがジュリアン・ムーアがスカリーになることだとは思わなかった。
これは誰もが予想できない展開であろうことは間違いない。
先ほども書いたように、この最初の謎は、非常に解りやすく、且つ恐ろしいものである。
だが、その真相は、いわばなんでもアリのSFである。
この真相は、先を読もうと努力している観客を、バカにしたようなものだ。
突然、多くの人が子どもたちの記憶が消えてしまった。
この不思議な現象をどのように説明できるのか、観客は楽しみながらも、先を読もうと努力する。
これがサスペンス効果というものだ。
だが、エイリアンというSFの真相を用意してしまうと、それらが一気に無に帰してしまう。
観客は少なからずこう思うはずだ。
「なんだ、それならどんな映画でもそれで説明できるじゃん」
エイリアンという何でもアリの、ジョーカーを真相にしてしまったから、いきなり映画の質がサスペンスからSFになってしまう。
当然、そのエイリアンについての設定はほとんど教えてくれない。
これでは、観客が納得できるはずもない。
だが、この映画の、無茶苦茶ぶりの伏線は、最初の方に張られている。
記憶が消されたことを知ったテリーは、アッシュにこう言い切る。
「これは人間のできることじゃないわ」
「じゃあ、人間以外のものの仕業ってことか?」
「そう考えれば、全てに説明がつくもの」
正確には覚えていないが、序盤から中盤にかけてこのような会話のやりとりがある。
ここで、僕は「そりゃないでしょ」と思った。
なぜなら、確かに不思議な現象ではあるものの、いきなり「人間以外の仕業」と思いつけるものではない。
普通の人間にとって、エイリアンというものは、テレビや映画だけの存在だし、それをいきなり自身に起こった現象の説明に使ったりはしない。
この考えで行けば、何か不思議なことが起これば、すべて「人間以外の仕業」になってしまう。
このテリーという記者が、超常現象専門の雑誌記者ならもともかく、このような発想になるのは、「Xファイル」のスカリーくらいである。
息子の記憶がなくなったと考える発想も精神異常かと思わせるが、もっと異常なのはこの現象がエイリアンの仕業と考えるこの思考パターンである。
精神科医役のゲイリー・シニーズは、むしろこの思考パターンを最大の「病気」と考える必要があったとさえ思われる。
だが、この台詞はこの映画の根幹を支えているといってもいい。
なぜなら、真相がエイリアンであることをほのめかすのは、後にも先にもこの台詞だけと言ってもいいからだ。
(車でエイリアンが轢かれるシーンは、結論に近すぎる。)
この伏線だけによって、この映画の真相を先読みすることを可能にする。
この台詞だけが、「サスペンス的」なのである。
もっとオチを緩和したいなら(サスペンスとしての整合性を保つなら)、伏線を増やすことはいくらでもできた。
例えば、冒頭のテリーの部屋で流れるテレビ番組で、エイリアンの特集を見せたり、
テリーの担当の雑誌を超常現象専門誌にしたり、
サムの部屋におもちゃのエイリアン人形を置いたり。
サスペンスと思わせながら始まった映画は、サスペンスとはおよそかけ離れたSF(エイリアン)という、ブラック・ボックスのなかにその真相を全て追いやった。
エイリアンの設定もよくわからないまま、ただエイリアンの仕業だったという闇の箱を用意して、それによって全ての「不思議」を詰め込んだのである。
こんなんで納得できるかよ!
だが、それだけではこの映画のドンデン返しは終わらない。
この異常な状況に対して、解決策はこれまたブラック・ボックスの親子愛。
よく、愛さえあれば、などという歯の浮いた話があるが、これはそれよりも酷い。
愛さえあえれば、のような結論でも構わないが、問題はその「愛」の見せ方である。
愛はそれ自体では、何の意味ももたない。
それをいかに見せるか、示すかなのである。
そのように考えれば、どんな映画にも「愛」は描かれている。
それをどのように、主人公や物語に投影させるかが問題なのである。
だが、この映画は、愛それ自体が解決法そのものなのである。
解決法は、妊娠時の記憶を辿ることによって、サムの記憶を取り戻すことだ。
だが結局は、次のことが直接的な原因だったと、まとめることができる。
「私、息子をこんなにも愛しているのよ」
そんなことを、最後の最後にもってこなくても、観客は十分理解している。
息子を愛していることは、二時間も息子探しに付き合ってきた観客は、痛いほどよく理解しているのである。
それを今さら、解決法として提示されても、なにも感じられない。
しかも、この愛というブラック・ボックスを解決策にしたことによって、サスペンスとしてもさらに破綻してしまった。
エイリアンは、数少ない設定の中でも、このように自分達を説明していた。
「昔からずっと実験は続けられてきたのだ」
それなのに、女性が妊娠してから子どもが生まれるという、イマドキの幼稚園児も知っていそうな事実を知らなかったのである。
知らなかったから、誕生の瞬間の記憶から消そうしたのだ。
おいおい、お前、バカか? 何百年か何千年か、何してたの?
結局、自分達で作った謎に、自分達ではまってしまっているのである。
これでは、「トホホ」としか言いようがない。
アメリカでは大ヒットしたようだ。
ホント、アメリカ人って「エイリアンもの」好きだよね~。
(2005/3/6執筆)
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