secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

手紙は憶えている(V)

2020-08-17 07:21:26 | 映画(た)

評価点:79点/2015年/カナダ・ドイツ/95分

監督:アトム・エゴヤン

フィクションだからこそ、描かれる真実。

90歳をすぎたゼブ(クリストファー・ブラマー)は特別養護老人ホームに住む、痴呆症が進む老人だった。
今朝起きたとき、妻のルースが死んだことも忘れていた。
同じ老人ホームにいる、友人のマックス(マーティン・ランドー)から手紙を託される。
「やるべきことを憶えているか」とマックスから告げられて、その手紙を読み始めた。
それは70年以上前にアウシュヴィッツから逃げ出した2人にとっての、敵を殺す、という約束だった。
愛する妻が死んだ今、それを実行するときが来た、というのだ。
戸惑いながらも、手紙を読んだゼブは、家族にも告げずに、その敵オットー・ヴァリッシュを探す旅に出る。

例によって、前評判もわからずに、とりあえずアマゾン・プライムで再生した。
短い作品で、よくまとめられている。
予備知識無しでみるべき作品で、ネタバレされてしまうと存分に楽しめないかもしれない。

史実に基づいているとか、基づいていないとか、そういうレベルではなく、様々な思いをえぐられる。
むしろ、これがフィクションであるからこそ、ある現実を照射する。
戦後75年、私たちがみるべき「戦争」映画だ。

▼以下はネタバレあり▼

ストーリーにも書いたように、痴呆症になった主人公ゼブには、手紙のみが頼りで、他は何もよりどころになるものがない。
これは一種の閉鎖的なサスペンスで、よくあるミスディレクション型にみられる手法だ。
つまり、観客にとっても、登場人物にとっても、情報が極端に制限された状態で物語が展開する。
ユージュアル・サスペクツ」や「SAW」などと同じように、非常に狭い閉鎖的なサスペンスである。
だから、この話が、いわゆる「どんでん返し」型の話であることも、すぐに読めるだろう。
だが、それが分かっていても面白い。
いや、だからこそ、面白い、そういう種類の映画だ。
(だからといってネタバレされてしまっても面白いかどうかといわれば別の話だが。)

丁寧にストーリーを追っていても文章が冗長になるだけなので、先にオチを確認しておこう。

手紙を書いたマックス、それに従って復讐を行うゼブ、その復讐の対象となるオットー、この3人は手紙で知らされていた関係性とはちがったものだった。
マックスはアウシュヴィッツで家族を失ったユダヤ人、ゼブとオットーと思われていた老人は、ともにナチスのブロック管理者として大勢のユダヤ人を殺していた男たちだった。
探していた男は、オットー・ヴァリッシュではなく、自分自身こそがオットーであった。
彼の腕にある番号は、ナチスであることを隠すための、隠蔽工作だった。
それをオットーだと思っていた男、クニベルト・シュトルムであると知る。

ゼブは、その残酷な行いをまったく忘れてしまっていたのだ。
この作品の原題は「Remember」。
すっかり記憶を失ってしまった戦争加害者の男に、もう1人の男を捜し出させる、というアウシュヴィッツの被害者の男による復讐の物語だったのだ。

ゼブの真の罪は、ナチス高官として大勢のユダヤ人を殺したことではない。
それらをすっかり忘れて、全く違う地で富と幸せを築き、ルース、ルースと最愛の妻にまで恵まれたという傲慢さだ。
ゼブはラストで追っていた男、シュトルムを銃殺する。
さらに自分に拳銃を向けて自殺する。
彼はこの旅で、ナチスがやってきた酷い行いを、いやというほど知ってきた。
ナチスに陶酔する男も殺したほど、憎んできた。

それがまさか自分だったなんて。
そしてなにより、それをまったく憶えていないほど、記憶を消し去ってしまっていたとは。
憶えておくべきは、ルースなのではなかったはずなのだ。
その絶望は、計り知れない。
しかし、これはゼブという男の話ではない。
これは非常に強い社会的な視座をもった作品だ。
つまり、多くのドイツ人達も、また、このゼブと同じように、自分たちがどのような行いをしてきたのか、すっかり忘れてしまったかのように振る舞っているではないか。
戦争を非難したり、人種差別を非難したりしているではないか。
すっかり、自分たちとは違う人たちに対する振る舞いで。

この作品が胸に刺さるのは、そういう象徴性があるからだ。
起こしたことに対する謝罪そのものよりも、それを忘れてしまっているのではないか。
それこそが、もっとも許されない罪である、ということを、マックスの復讐から読み解くことができる。
自分が動けないからといって、他でもなく、加害者の男に復讐させた。
幸せそうに、妻に愛され、高級な老人ホームにも入れてもらい、すっかり忘れて余生を送っている。

ゼブの息子も、明らかに富裕層としての生活を送っている。
コランダーとして生きていたシュトルムもまた、富裕層であることは明確だ。
彼らはどのような生活を送ってきたのか、努力してきたのかは別にして、偽ることで幸せな生き方を手に入れたのだ。

右とか左とか、どうでもよい。
戦争の悲惨さを「あたかも忘れたかのような振る舞い」がどのような悲劇をもたらすのか、という想像力は常に持ち続けなければならない。
戦後75年。
たった、75年しか経っていない。
この平和はアプリオリなものではない。
人が、平和を思って築かれた努力の結晶だ。

フィクションであるからこそ、伝えられる何かがある、そういう映画だ。


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