評価点:80点/2013年/アメリカ/104分
監督:ジョン・カーニー
この映画の出会いと、物語での出会い、奇妙な一致。
友人のミニライブにきていたグレタ(キーラ・ナイトレイ)は、その友人に言われるがままいきなりステージに上がることになった。
歌うつもりではなかった彼女は戸惑いながら一曲の歌を披露した。
誰も見向きもしなかったその歌に、ダン(マーク・ラファエロ)は感動の眼差しで見つめいていた。
その日の朝、二日酔いで起きたダンは、娘を迎えに行った後、自分が立ち上げた音楽事務所に立ち寄った。
そこで告げられたのは、これまで数年間ヒットを出せなかった彼に対して、解雇だった。
破れかぶれになった彼は、ステージのあるバーに辿り着いた。
そこで、グレタのたぐいまれなる音楽の才能を見いだす。
主演二人の名前しかわからないまま、とりあえず再生ボタンを押した。
アマゾンプライムなどのサブスクのサービスにはこういう出会いがあるから恐ろしい。
どんな話かも構成かも知らずに、無料で(もちろん年会費は払っているにしても)見られるからこその出会いだ。
キーラはちょっと癖のある美人で、私はあまり多くの作品を見ていない。
マークはもはや説明の必要もないほどのスターだろう。
この二人が恋に落ちる、のではないところが、うまい。
私にはデイヴ役(アダム・レヴィーン)の歌声もすごいのかどうかわからない。
けれども、これはサントラを買うレベルで気に入った。
▼以下はネタバレあり▼
とにかくキャラクターが立っている。
人物造形が巧みであるからこそ、この物語が単なる他人事と思えないほどの説得力がある。
ダンは、妻との関係に苦慮している。
妻の不倫をきっかけに、彼女と向き合うことができない。
娘との関係もわからずに、ただ「このままではだめだ」という焦りだけがある。
それは仕事にも表れている。
デモCDをよこす卵は沢山いるが、どれも心躍らせるような人はいない。
グレタに出会うまでは、彼は仕事も家庭も、ただこなすこと、役割を果たすことに追われている。
だが、彼女と出会い、そしてその中で楽曲をゼロから作らなければならない状況になったとき、はじめて思い出す。
自分が音楽を作ったとき、原石を見つけたときの、心躍るような「作っていく楽しみ」を。
彼は根っからの音楽好きで、新しい、おもしろい、たのしい音楽を作ることが何よりも好きだったということを。
そして、それは高級な防音設備が整った空間で行われるものではなく、どこでだって楽しいのだ、ということを。
音楽に夢中になり、かっこの良い音楽を作ることが、自分の楽しい時間であり空間だったことを、グレタとの出会いで気づくのだ。
デモも作れないような環境の中、それでも楽しさを追求することが、音楽を追求することだった。
それを忘れていたことがわかる描写は、首にされたとき、「俺が買った絵画だ!」とわめき散らして、額縁を持って帰ろうとしたところだろう。
彼は仕事として音楽を作ることに目がくらみ、本当に楽しいことが見えなくなっていた。
だが、何もない環境の中で、かつて育て上げた大物ラッパーに相談に行ったとき、「お金の話」は一切しなかった。
金銭的な援助してもらえば良いのに、そういうことがすでに頭になかった。
この状況で音楽を作ること、それがもっともおもしろいことなのだと気づいていたからだ。
だから妻と娘との関係にも変化がある。
ああ、音楽を楽しむことが妻との出会いだったのだ、ということを思い出すことで、再び二人の時間を共有することの価値を知る。
それは娘とも同じだ。
娘とセッションすることで、その時間を共有すること、そのものが音楽の本質なのだということに気づくのだ。
それは売れるためではない。
ただ、良い音楽を作るため、楽しい時間を過ごすためにあるのだ、という最も根本的なところに、音楽の力に気づくのだ。
グレタもまた同様だ。
ダンに話しかけられたとき、「売ることが目的なのか」と問い詰めた。
彼女は売れたいことよりも、自分を表現したい、自分の楽しい時間をくれたあの、空間が嘘になってしまったことに傷ついていたのだ。
恋人デイヴと音楽を作っていたときは、すべてが輝いて見えていた。
しかし、彼が売れていったとき、ガタガタと見えていたはずの何かが壊れていくのを感じた。
それは恋人関係が崩れてしまったこともあるだろう。
だが、それ以上に、何が美しいのかという点が共有できなくなっていたことだろう。
だから、新しい楽曲を聴かせてもらったとき、この曲は私たちのものではない、と悟ったのだ。
ダンと出会って、その才能を見いだされたときも、売れることではなく、音楽のたのしさ、美しさを追い求めようとしていた。
だから彼女はあの美しいデイヴの歌声を聞いて、「私の原点は売れたいことではなかった」という点を確信したのだ。
そんな彼女に大型の契約など必要がない。
ただ、おもしろい音楽を聴いてもらえればそれで満足なのだ。
私たちはこういう映画を見ると、成功することがゴールになるように思ってしまう。
あるいは恋が成就するようなことがゴールであるように想定する。
けれども、音楽のパワーはそういうことではない。
売れることが善なのか、ゴールなのか。
楽しいとは、誰かからの評価を得ることではない。
美しいとは、一元的な序列によって決定される価値観ではない。
生きるとはどういうことなのか。
そういう問いにもつながる、普遍的な問いかけを私たちに気づかせてくれるだろう。
監督:ジョン・カーニー
この映画の出会いと、物語での出会い、奇妙な一致。
友人のミニライブにきていたグレタ(キーラ・ナイトレイ)は、その友人に言われるがままいきなりステージに上がることになった。
歌うつもりではなかった彼女は戸惑いながら一曲の歌を披露した。
誰も見向きもしなかったその歌に、ダン(マーク・ラファエロ)は感動の眼差しで見つめいていた。
その日の朝、二日酔いで起きたダンは、娘を迎えに行った後、自分が立ち上げた音楽事務所に立ち寄った。
そこで告げられたのは、これまで数年間ヒットを出せなかった彼に対して、解雇だった。
破れかぶれになった彼は、ステージのあるバーに辿り着いた。
そこで、グレタのたぐいまれなる音楽の才能を見いだす。
主演二人の名前しかわからないまま、とりあえず再生ボタンを押した。
アマゾンプライムなどのサブスクのサービスにはこういう出会いがあるから恐ろしい。
どんな話かも構成かも知らずに、無料で(もちろん年会費は払っているにしても)見られるからこその出会いだ。
キーラはちょっと癖のある美人で、私はあまり多くの作品を見ていない。
マークはもはや説明の必要もないほどのスターだろう。
この二人が恋に落ちる、のではないところが、うまい。
私にはデイヴ役(アダム・レヴィーン)の歌声もすごいのかどうかわからない。
けれども、これはサントラを買うレベルで気に入った。
▼以下はネタバレあり▼
とにかくキャラクターが立っている。
人物造形が巧みであるからこそ、この物語が単なる他人事と思えないほどの説得力がある。
ダンは、妻との関係に苦慮している。
妻の不倫をきっかけに、彼女と向き合うことができない。
娘との関係もわからずに、ただ「このままではだめだ」という焦りだけがある。
それは仕事にも表れている。
デモCDをよこす卵は沢山いるが、どれも心躍らせるような人はいない。
グレタに出会うまでは、彼は仕事も家庭も、ただこなすこと、役割を果たすことに追われている。
だが、彼女と出会い、そしてその中で楽曲をゼロから作らなければならない状況になったとき、はじめて思い出す。
自分が音楽を作ったとき、原石を見つけたときの、心躍るような「作っていく楽しみ」を。
彼は根っからの音楽好きで、新しい、おもしろい、たのしい音楽を作ることが何よりも好きだったということを。
そして、それは高級な防音設備が整った空間で行われるものではなく、どこでだって楽しいのだ、ということを。
音楽に夢中になり、かっこの良い音楽を作ることが、自分の楽しい時間であり空間だったことを、グレタとの出会いで気づくのだ。
デモも作れないような環境の中、それでも楽しさを追求することが、音楽を追求することだった。
それを忘れていたことがわかる描写は、首にされたとき、「俺が買った絵画だ!」とわめき散らして、額縁を持って帰ろうとしたところだろう。
彼は仕事として音楽を作ることに目がくらみ、本当に楽しいことが見えなくなっていた。
だが、何もない環境の中で、かつて育て上げた大物ラッパーに相談に行ったとき、「お金の話」は一切しなかった。
金銭的な援助してもらえば良いのに、そういうことがすでに頭になかった。
この状況で音楽を作ること、それがもっともおもしろいことなのだと気づいていたからだ。
だから妻と娘との関係にも変化がある。
ああ、音楽を楽しむことが妻との出会いだったのだ、ということを思い出すことで、再び二人の時間を共有することの価値を知る。
それは娘とも同じだ。
娘とセッションすることで、その時間を共有すること、そのものが音楽の本質なのだということに気づくのだ。
それは売れるためではない。
ただ、良い音楽を作るため、楽しい時間を過ごすためにあるのだ、という最も根本的なところに、音楽の力に気づくのだ。
グレタもまた同様だ。
ダンに話しかけられたとき、「売ることが目的なのか」と問い詰めた。
彼女は売れたいことよりも、自分を表現したい、自分の楽しい時間をくれたあの、空間が嘘になってしまったことに傷ついていたのだ。
恋人デイヴと音楽を作っていたときは、すべてが輝いて見えていた。
しかし、彼が売れていったとき、ガタガタと見えていたはずの何かが壊れていくのを感じた。
それは恋人関係が崩れてしまったこともあるだろう。
だが、それ以上に、何が美しいのかという点が共有できなくなっていたことだろう。
だから、新しい楽曲を聴かせてもらったとき、この曲は私たちのものではない、と悟ったのだ。
ダンと出会って、その才能を見いだされたときも、売れることではなく、音楽のたのしさ、美しさを追い求めようとしていた。
だから彼女はあの美しいデイヴの歌声を聞いて、「私の原点は売れたいことではなかった」という点を確信したのだ。
そんな彼女に大型の契約など必要がない。
ただ、おもしろい音楽を聴いてもらえればそれで満足なのだ。
私たちはこういう映画を見ると、成功することがゴールになるように思ってしまう。
あるいは恋が成就するようなことがゴールであるように想定する。
けれども、音楽のパワーはそういうことではない。
売れることが善なのか、ゴールなのか。
楽しいとは、誰かからの評価を得ることではない。
美しいとは、一元的な序列によって決定される価値観ではない。
生きるとはどういうことなのか。
そういう問いにもつながる、普遍的な問いかけを私たちに気づかせてくれるだろう。
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