評価点:82点/2013年/アメリカ/111分
監督・脚本:ジェイソン・ライトマン
人生における〈接点〉
1987年夏、13歳の息子を持つアデル(ケイト・ウィンスレット)は夫と離婚し、失意の中にいた。
彼女にはパニック障害があり、外出を避けていた。
月に一度しか買い物に出ず、息子ヘンリーとともに車で出かけていた。
そんなある日、ショッピングセンターに出かけたとき、足をケガした男が車で送って欲しいと頼み込む。
ただならぬ気配を感じたアデルだったが、男が強く懇願したことに根負けして家へ招き入れてしまう。
ニュースではフランクという男が脱獄して周囲に潜伏しているかもしれないと流れていた。
「JUNO」「ヤング≒アダルト」のジェイソン・ライトマン監督の最新作である。
タイトルが「とらわれて夏」という何のことやらわからないので、話題になりそうもない。
「JUNO」もそれほど有名作でもないので、大きなシネコンでやって大丈夫か、と思う。
とはいえ、私は大ファンなので、GWに見にいくことにした。
一緒に見た作品が「プリズナーズ」というこれまた「囚われ物」なので、なんだか因果な感じがしたが。
タイトルはともかく、話はとてもおもしろい。
見る人によってかなり印象が違うのではないか、という気もする。
だれに焦点を当ててもしっかりと脚本が書かれている。
私の印象ではコメディ監督だと思っていたが、ドラマを撮らせても一流であることが証明された。
ぜひ、見て欲しい作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
ストックホルム症候群という名を出すまでもなく、こういう映画は本当にありふれている。
実際にどれだけこのような出来事があるのかは知らないが、映画ではよくある話だ。
映画の中でも出てきたが、ボニー・アンド・クライドはアメリカ映画の一つの話型と言ってもいいだろう。
それなのに、なぜこの時期にこのような映画を撮ったのだろう。
しかも、コメディーの印象が強いライトマンが。
ところがどっこい、この絶妙なバランスは、必見の一作になっている。
私は終幕前に涙を流してしまった。
先にそのことに触れておこう。
映画はとても主観的な見方しかできない、というのが私の持論だ。
何度見てもおもしろい映画はあるけれども、いつも同じ印象を受ける映画は多くはない。
いつも違う発見があったり、いつも違う印象を持つ。
私の場合、独身だった自分と、恋人がいる自分、結婚した自分それぞれに違う立場を生きてきた。
もちろん、私は家族に恵まれた生き方をしてきたので、独身だったからといって家族を思わないわけではない。
しかし、実家を離れて暮らすようになって、ますます家族のありがたさや温かみを痛感する。
この映画が五年前、十年前に見ていたとしたら、きっとここまで感動しなかったのかもしれない。
独身時代は街のカップルを見ては「リア充氏ね!」と心の中で唱えていたものだが、今はそのようには感じなくなっている。
自分でもその変化は不思議で仕方がない。
数年前までの自分は、「このまま一人で生きていく可能性」を常に排除しなかった。
しかし、今の私はそれを想像することさえ難しい。
この映画も、とても個人的な話として引き寄せて見てしまったことは断っておこう。
母子のもとへ、一人の犯罪者――男――が迷い込む。
彼はたった5日間しか母子とともにしなかったが、それが後の彼らの人生に決定的な影響を与える。
人生にはいくつかのタイミングがある。
それが結婚なのか、離婚なのか、誕生なのか、死去なのか。
それはその人それぞれで違うだろう。
私は大学の4年生のときだった。
そのタイミングがなければ、今の仕事をしていなかっただろうし、今の奥さんに出会うこともなかっただろう。
この話はそういう人生の〈接点〉についての話だ。
母親のアデルは夫と別居し、その夫は既に新しい母親と子どもを迎えていた。
子どものヘンリーは母親といることを決め、母親と息子と二人暮らしだった。
別離となるきっかけは、アデルの流産だった。
ヘンリーのあと4度妊娠するが、3度流産し、最後には死産だった。
それがきっかけにアデルは外出することができなくなり、パニック障害をもつことになる。
劇中では病名は出ないが、おそらく彼女の症状はパニック障害と呼んでおいていいだろう。
妊娠できなかったこと、「普通の幸せ」をとげられなかったことに大きな負い目を感じたわけだ。
似たような経験をしたことがある人なら、その重みはわかるだろう。
彼女はふさぎ込むようになり、夫はその重みから逃げてしまう。
彼女の傍には息子だけが残った。
そこへ訪れたのは妻を殺した罪で服役していたフランクだった。
盲腸の手術を終えたとき、病室の窓から飛び降り、ショッピングセンターで出会ったアデルとヘンリーの家に転がり込む。
殺した妻は、挑戦的で美しい女性だった。
子どもが生まれたとき、一向に子どもを顧みない妻に衝動的な怒りを覚え、殺害してしまう。
そして、服役し、「監獄へは死んでも二度と戻りたくない」と思い、脱獄する。
それまで父親不在だったアデルとヘンリーにとってはそれは父親そのものだった。
車を修理し、家を直し、パイを作る。
決して多くを語る人ではないが、この二人に決定的に欠けていた父性を提供する。
それは、ヘンリーにとっては父親であり、アデルにとっては夫としての存在である。
またそれは同時にフランクにとっても、守るべき人、帰るべき場所を提供する。
かつて自分が手に入れようとして、そして永遠に失ってしまったものである。
だから彼らはその夏、そのときでしか「出逢え」ない人生のタイミングで出逢ってしまうのだ。
ヘンリーがもっと若ければ父親の存在意義を理解できなかっただろうし、もっと成長していたなら、反発していたかもしれない。
アデルの息子は13歳になり、大人の男として目覚めようとしていた。
しかし、大人にしては若すぎる男であり、何も知らないというにはあまりにも大人だった。
そのヘンリーにとって、いきなり現れたフランクを素直に受け入れながら、そして母親を奪われる危うさも感じている。
その絶妙さ、微妙さはラストの5日目に上手く表現されている。
朝、実父に別れを告げるための手紙を書いたヘンリー。
焦って多額のお金を下ろしてしまうアデル。
家が片付けられたところを隣人に見られたフランク。
始業式に朝から歩き回っているヘンリー。
荷物を整理しているところを警官に質問されるアデル。
サイレンが鳴り響く中、二人を縛り、アデルにフランクは告げる。
「あと三日ながく一緒にいられたなら、20年の刑でも構わないのに」
「死んでも監獄には戻りたくない」と5日前に言っていた人物は全く違う心境に立っている。
この朝すべての人物は、捕まってしまう、疑うべき行動をとっている。
誰の行動から、彼らを警察に訴えたのだろう。
それはわからない。
けれども、この5日目の朝が彼らの決定的な〈接点〉を象徴している。
この映画には〈語り〉が挿入され、過去の出来事として描かれている。
それはこの物語が「現在」にも続く決定的な〈接点〉であったことを示すためだ。
その後がどれだけ長い人生であっても、どれだけ長い刑期であっても、決して揺るぐことのない決定的な5日間だったことを示している。
監督・脚本:ジェイソン・ライトマン
人生における〈接点〉
1987年夏、13歳の息子を持つアデル(ケイト・ウィンスレット)は夫と離婚し、失意の中にいた。
彼女にはパニック障害があり、外出を避けていた。
月に一度しか買い物に出ず、息子ヘンリーとともに車で出かけていた。
そんなある日、ショッピングセンターに出かけたとき、足をケガした男が車で送って欲しいと頼み込む。
ただならぬ気配を感じたアデルだったが、男が強く懇願したことに根負けして家へ招き入れてしまう。
ニュースではフランクという男が脱獄して周囲に潜伏しているかもしれないと流れていた。
「JUNO」「ヤング≒アダルト」のジェイソン・ライトマン監督の最新作である。
タイトルが「とらわれて夏」という何のことやらわからないので、話題になりそうもない。
「JUNO」もそれほど有名作でもないので、大きなシネコンでやって大丈夫か、と思う。
とはいえ、私は大ファンなので、GWに見にいくことにした。
一緒に見た作品が「プリズナーズ」というこれまた「囚われ物」なので、なんだか因果な感じがしたが。
タイトルはともかく、話はとてもおもしろい。
見る人によってかなり印象が違うのではないか、という気もする。
だれに焦点を当ててもしっかりと脚本が書かれている。
私の印象ではコメディ監督だと思っていたが、ドラマを撮らせても一流であることが証明された。
ぜひ、見て欲しい作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
ストックホルム症候群という名を出すまでもなく、こういう映画は本当にありふれている。
実際にどれだけこのような出来事があるのかは知らないが、映画ではよくある話だ。
映画の中でも出てきたが、ボニー・アンド・クライドはアメリカ映画の一つの話型と言ってもいいだろう。
それなのに、なぜこの時期にこのような映画を撮ったのだろう。
しかも、コメディーの印象が強いライトマンが。
ところがどっこい、この絶妙なバランスは、必見の一作になっている。
私は終幕前に涙を流してしまった。
先にそのことに触れておこう。
映画はとても主観的な見方しかできない、というのが私の持論だ。
何度見てもおもしろい映画はあるけれども、いつも同じ印象を受ける映画は多くはない。
いつも違う発見があったり、いつも違う印象を持つ。
私の場合、独身だった自分と、恋人がいる自分、結婚した自分それぞれに違う立場を生きてきた。
もちろん、私は家族に恵まれた生き方をしてきたので、独身だったからといって家族を思わないわけではない。
しかし、実家を離れて暮らすようになって、ますます家族のありがたさや温かみを痛感する。
この映画が五年前、十年前に見ていたとしたら、きっとここまで感動しなかったのかもしれない。
独身時代は街のカップルを見ては「リア充氏ね!」と心の中で唱えていたものだが、今はそのようには感じなくなっている。
自分でもその変化は不思議で仕方がない。
数年前までの自分は、「このまま一人で生きていく可能性」を常に排除しなかった。
しかし、今の私はそれを想像することさえ難しい。
この映画も、とても個人的な話として引き寄せて見てしまったことは断っておこう。
母子のもとへ、一人の犯罪者――男――が迷い込む。
彼はたった5日間しか母子とともにしなかったが、それが後の彼らの人生に決定的な影響を与える。
人生にはいくつかのタイミングがある。
それが結婚なのか、離婚なのか、誕生なのか、死去なのか。
それはその人それぞれで違うだろう。
私は大学の4年生のときだった。
そのタイミングがなければ、今の仕事をしていなかっただろうし、今の奥さんに出会うこともなかっただろう。
この話はそういう人生の〈接点〉についての話だ。
母親のアデルは夫と別居し、その夫は既に新しい母親と子どもを迎えていた。
子どものヘンリーは母親といることを決め、母親と息子と二人暮らしだった。
別離となるきっかけは、アデルの流産だった。
ヘンリーのあと4度妊娠するが、3度流産し、最後には死産だった。
それがきっかけにアデルは外出することができなくなり、パニック障害をもつことになる。
劇中では病名は出ないが、おそらく彼女の症状はパニック障害と呼んでおいていいだろう。
妊娠できなかったこと、「普通の幸せ」をとげられなかったことに大きな負い目を感じたわけだ。
似たような経験をしたことがある人なら、その重みはわかるだろう。
彼女はふさぎ込むようになり、夫はその重みから逃げてしまう。
彼女の傍には息子だけが残った。
そこへ訪れたのは妻を殺した罪で服役していたフランクだった。
盲腸の手術を終えたとき、病室の窓から飛び降り、ショッピングセンターで出会ったアデルとヘンリーの家に転がり込む。
殺した妻は、挑戦的で美しい女性だった。
子どもが生まれたとき、一向に子どもを顧みない妻に衝動的な怒りを覚え、殺害してしまう。
そして、服役し、「監獄へは死んでも二度と戻りたくない」と思い、脱獄する。
それまで父親不在だったアデルとヘンリーにとってはそれは父親そのものだった。
車を修理し、家を直し、パイを作る。
決して多くを語る人ではないが、この二人に決定的に欠けていた父性を提供する。
それは、ヘンリーにとっては父親であり、アデルにとっては夫としての存在である。
またそれは同時にフランクにとっても、守るべき人、帰るべき場所を提供する。
かつて自分が手に入れようとして、そして永遠に失ってしまったものである。
だから彼らはその夏、そのときでしか「出逢え」ない人生のタイミングで出逢ってしまうのだ。
ヘンリーがもっと若ければ父親の存在意義を理解できなかっただろうし、もっと成長していたなら、反発していたかもしれない。
アデルの息子は13歳になり、大人の男として目覚めようとしていた。
しかし、大人にしては若すぎる男であり、何も知らないというにはあまりにも大人だった。
そのヘンリーにとって、いきなり現れたフランクを素直に受け入れながら、そして母親を奪われる危うさも感じている。
その絶妙さ、微妙さはラストの5日目に上手く表現されている。
朝、実父に別れを告げるための手紙を書いたヘンリー。
焦って多額のお金を下ろしてしまうアデル。
家が片付けられたところを隣人に見られたフランク。
始業式に朝から歩き回っているヘンリー。
荷物を整理しているところを警官に質問されるアデル。
サイレンが鳴り響く中、二人を縛り、アデルにフランクは告げる。
「あと三日ながく一緒にいられたなら、20年の刑でも構わないのに」
「死んでも監獄には戻りたくない」と5日前に言っていた人物は全く違う心境に立っている。
この朝すべての人物は、捕まってしまう、疑うべき行動をとっている。
誰の行動から、彼らを警察に訴えたのだろう。
それはわからない。
けれども、この5日目の朝が彼らの決定的な〈接点〉を象徴している。
この映画には〈語り〉が挿入され、過去の出来事として描かれている。
それはこの物語が「現在」にも続く決定的な〈接点〉であったことを示すためだ。
その後がどれだけ長い人生であっても、どれだけ長い刑期であっても、決して揺るぐことのない決定的な5日間だったことを示している。
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