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箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

親にとっての子どもの思春期の意味

2015年07月29日 20時40分14秒 | 教育・子育てあれこれ


思春期には内面の心の揺れを態度や行動、言葉にはっきりと表す子もいれば、表さない子もいます。それは子どもにより違います。

ただ一つ言えることは、思春期の子どもはどの子も多かれ少なかれ、その内面は揺れていることに変わりはありません。

なかでも、はっきりと態度や行動、言葉に表す子は、怒涛のごとく揺れる気持ちをおとなにぶつけてきます。

理屈が立つようになり、理想と現実の矛盾点を鋭く突いて、教師や親に反抗してくるのが思春期の特徴です。

とくに思春期前から親子関係がうまくいっていない場合、子どもはおかしいと思ったことや正しくないと感じたことを、今まで感じてきた親への不満を増幅させ、親のできていない点や欠点をまともに指摘してきます。

ただこのような子どもの態度に直面したとき、親は「自分を変えるチャンス」ととらえるのか、それとも反抗的で生意気なわが子、「何もできないくせに」と感じてしまうのかが、親が変われるか、変れないかの分かれ目になるのではないでしょうか。

ふつう、おとなの社会や職場では、他者は「あの人はこうした方がいいのに」とか「この点を直してほしい」と思っても、直接的に本人には言わず、置いておく場合が多くあります。

かりに、他者からアドバイスされても、本人がなかなかそのことを聞きいれようとしない場合もあるでしょう。

ですから、おとなの人間関係のなかでは、自分を直すチャンスはけっこう少ないのです。

しかし、子どもは純粋です。思春期の子どもの反抗は、別の見方をすれば、親のできていない点を直してくれるメッセージととらえることができるかが、親にとっての子どもの思春期の意味です。

おそらく、思春期の子どもを交えた親子関係で、「こうするといい」とか「ああすればいい」という共通の対応法はないのでしょう。

ただ、子どもの心の揺れに親やおとながていねいに真摯に向き合うこと、そして親自身が自分を見つめ直すことが必要なのだと思います。

ただじっと聴く~思春期の子どもに対して~

2015年07月21日 12時40分56秒 | 教育・子育てあれこれ


悩みをもつ中学生から、おとなが話を聞くのはけっこう難しいものです。ふつう中学生ぐらいの思春期の子が、たとえ親に対してもスラスラと自分の困りごとや悩みなどを話すことはありません。

でも、様子や表情をみれば、明らかに元気がない、顔つきが明るくない。親としては心配になるのは当然です。そこで「どうしたの?」と聞いても、「別に・・・」としか答えません。このようなとき、親はどのようにわが子と話せばいいのでしょうか。

思春期の子どもは、話したくなると自分から話すので、話すまで待つのがポイントです。

おとなに助けてほしいけれど、自分一人でやりたい。このような矛盾を抱えているのが思春期の子どもの胸の内です。同様に、悩みごとを聞いてほしいけれど、相談はしたくない。
このような相反する気持ちを両方もっています。

こんなとき、なんとかして聞き出そうとして・・・
「どうしたの?」
「なにかあったんだろう」
「だまっていたら、わからんやないか」とやつぎばやに聞き出そうとすると、子どもは開き始めていた扉を閉ざしてしまいます。

悩んでいる子は、責められていると感じ、「自分が悪いの? 困っているのはわたしなのに・・・」と思ってしまうのです。

「なにもないと言ってるやろ」「ほっておいてくれ!」といって、自分の部屋にこもってしまいます。

そこで、おとなは「いつでも聞くよ。話したくなったらいつでもおいで」という態度で構えておくことが大切になります。そうすると、子どもはタイミングをみて、話し始めてくれます。

といって、本人から「あのね。話があるんやけど・・・」とわざわざおとなのところにやってきて、相談してくることはあまりありません。

ですから親子でいっしょにいる時間をもつなど条件づくり・環境づくりは必要です。いっしょにいなければ、話す気持ちになっても、相手が目の前にいないのですから、話のしようがありません。

テレビをいっしょに観ていて、そのドラマについてとりとめのない話をしていたりするうちに、
「わたし、もう学校がイヤや」と突然言い始めます。

このとき、親は全力を傾けてわが子の話を聴きます。「やっと話し出した!」とは感じながらも、子どもが最後まで話し終えるまで意見をはさみません。

子どもが自分の内に溜めていた思いを全部吐き出すことができるまで聴くのです。全部話すことで、子どもの心には安堵感が生まれます。

全部話さないうちに、
「それはこうしたらいい」
「そういう時にはちゃんと自分の意見を言わなければ」
というようなアドバイスを言われても、子どもの聴いてほしいという思いに応えることはできません。

そのようなアドバイスは、現状がダメといっているのと同じだからです。今がダメだから「こうしなさい」が生まれるのです。

昨年ヒットした『アナと雪の女王』の「Let It Go~ありのままで~」の「ありのままでいい」というのは、その子を変えるために「こうすれば」とアドバイスをするのではなく、「今のあなたの悩みをすべて受けとめたよ。いまのあなたでいいからね」という、相手を受容するメッセージなのです。

おとなから「うん、うん」や「あー、そうなの」というつなぎの言葉をはさみながら、ひととおり子どもが話し終えたとき、はじめて「それで、そのときどうしたん?」と続けると、子どもの口は重いかもしれませんが、「それで・・・」と、また話を続けてくれます。

おそらく子どもは「こうしたら」がほしいのではなく、ただ聴いてほしいだけの場合が多いのです。

ですから、おとなができるもっとも大きな支えは、「ただじっと聴くこと」なのです。

そして、話を聴き終えた最後に、おとなは告げるのです。

「そんなたいへんな気持ちでいたんや」
「よー言ってくれた。お母さん(お父さん)は、いつでもおまえの味方やからな」

このような寄り添いの言葉を出すことで、子どもは前を向き、歩いていけます。この言葉はすべてを聴いてわかってくれた人が言うものだからこそ、子どもの心にしっかりと届き、しみ込んでいくのです。

まずは体験~子どもの考える力を伸ばすために~

2015年07月15日 06時19分17秒 | 教育・子育てあれこれ

私は、小学校5年生の夏、信州の上高地(かみこうち)へ家族に連れて行ってもらいました。上高地には梓川(あずさがわ)が流れています。

私は、河童橋の近くの川辺に行きました。勢いよく水が流れています。そして、川に手をつけてみました。
「冷たい!」

8月の盛夏でした。なのに、梓川の水は、飛び上がるほどの冷たさでした。わずか10秒も手をつけておれないほどの冷たさであったのを、今でも思い出します。

大阪府の自宅近くの川なら、8月の川の水はさほど冷たくありません。そのことを、私は川遊びを通して知っていました。

その感覚で、上高地の梓川に手を入れたのでした。じつは梓川の水は信州の山々の凍りついていた雪が溶け出したもので、驚くほどの冷たさだったのです。私はそのとき、これが雪解け水の冷たさなんだと初めて実感したのでした。

さて、21世紀を生きる子どもたちには、「思考力・判断力・表現力」が必須とされています。そのため、小中学校の授業でもとくに「思考力」を高めることが目指されています。

このことを意識してか、あるいは意識せずか、平素から親はよくわが子に「よく考えなさい」と言います。

家で熱いスープを飲もうとした小さい子どもが、勢いよく飲もうとすると「アチッ!」。その子どもに対してお母さんが「熱いにきまっているじゃない。よく考えなさい」と言います。

熱いということは考えればわかります。しかし、経験の少ない子どもは、できたてのスープは熱いということを経験して知っていなければ注意を払うこともできません。

だから、子どもは何事も、まず自分で体験して、感じなければならないのです。このことを、おとなはもっと留意するべきでしょう。

「もっと考えなさい!考えればわかるはずよ」というのではなく、最初に感じさせる。このことが考える力をつけるための第一歩です。

この意味で、失敗をしないように「こうしたらいいよ」と、最初から手助けをするのは慎むべきでしょう。(いまや中学生の親でも、子どもが失敗しないようにと、親が先回りして手を出しすぎる傾向があります。)

おとなは、まず子どもが思うようにやらせてみなければならないのです。子どもの思うように作らせてみる。

そしてチャレンジして、失敗や「痛い体験」をした子に、初めて「どうしたらいいのか、気がついた?」と問いかけるのです。これが子どもに「問う」ことです。

「体験」→「実感」→「問い」→「考える」。

このようにして、子どもの考える力を伸ばす基礎が築かれていくと思います。

三中のある教室風景から

2015年07月09日 21時31分57秒 | 教育・子育てあれこれ

クラスの友達のいいとこ見つけ。
「掃除のとき、自分の分担だけが終わらず一人でホーキで掃いていた。そのとき、あなたがいっしょに手伝ってくれた。
あなたには、こんな優しいところがあるよ。」
このようなメッセージが、それぞれの生徒に5~6通並んでいます。


失敗したとき、周りから責められと、人は失敗をおそれるようになります。
そして、チャレンジしなくなります。
過去に失敗を責められた経験をもつ子どもたちからの願いが、このクラス目標には込められているのでしょう。



教室にも訪れた七夕。生徒たちの願いごとが短冊に書かれています。ドラえもんの四次元ポケットがあれば、便利でしょうね。

とかく殺風景になりがちな学校の教室。
でも、1日の三分の一弱にあたる7時間ほどを過ごす空間です。生徒にとってホッとできる場所であるためにも、教室の環境整備は大切です。


光が当たるばかりよりも

2015年07月03日 10時45分37秒 | 教育・子育てあれこれ

今という時代、物事にはっきりと光を当てすぎる傾向に、私は気になるときがあります。

「何でも光を当てなくっちゃ」というトーンで、すべてのことに「白黒をはっきりとさせる」という今の時代の風潮には疑問を感じます。

「不正は許さないよ」という考え方は大事ですが、影の部分は影として置いておくことも必要ではないでしょうか。

貧困の問題、生活苦、人間関係の希薄化、関心が自分に向く個人化など、世の中全体に心の余裕がなく、不公平感を抱く人が多くなり、「そんなこともあるよね」では、済ませられなくなっているのかもしれません。

子どもの世界への光の当て方も、同じことがいえる気がします。影を残しておけば、なんらかの不正も行われるかもしれません。

ですから、「光を当て続けるのよ」という理屈が成り立ちそうですが、「徹頭徹尾正しいことを通します」という考えは、何かしら現実にフィットしないように思います。

短期的にみれば、「悪」としかいえないようなものを通り過ぎる機会や時間が子どもには必要なのです。

理想通りはいかないんだ、と知る機会が思春期の子には必要です。

言葉や理屈だけでは解決されないような世界で、ゆっくりと育まれてくる、「清濁あわせ飲む」魂、いつも張りつめているばかりではない、いわゆる「あそび」のようなものがあるのだと思います。

親であっても、子どもの中に立ち入らない方がいい部分を残しておかなければならない。

「それでは不安ですよ」という声が聞こえてきそうですが、人生は何でも準備万端、万全の状態で生きることなどできません。

だから親が子どもに対して、意識して「みない部分」(=影)を作ってやるべきだと考えます。

子どもの背景に目を向ける

2015年07月03日 07時07分44秒 | 教育・子育てあれこれ



とくに小学校高学年、つまり子どもが思春期に入る頃に、クラスがうまくいかなくなる場合があります。

うまくいかないとは、担任の先生と子どもたちの関係がぎくしゃくして、簡単に言えば、子どもが先生の言うことをきかなくなる状態のことです。

これを学級崩壊と呼ぶ人もいます。私は、学級の機能不全と呼ぶべきだと思います。
 
このとき、担任の先生が大声で子どもをどなりつけるようになると、子どもとの関係はますます悪化します。
「ほら、こっちを向け。ダラダラするな(ボーとするな)。集中だ。ちゃんとしろ!」と、子どもに大きな声で怒鳴りつけます。

最初のうちは、子どもたちは先生の言うことをきくかもしれません。先生の方を向くでしょう。しかし、そのうちに顔は向けているけれど、先生の話を聴いていない、つまり心は先生に向いていない状況になってきますす。

人間は怒鳴られてばかりだと、「うるさい、うっとい」という感情が先に立ち、怒鳴られれば怒鳴られるほど、イヤなことから逃げたくなります。聞いているふりをすればいいんだと、聞き流すようになります。

そして、だんだん人の話をまじめに聞こうとしなくなってしまいます。こうして子どもたちからは素直な態度がなくなり、「ああ、また言っている」と思い、先生の存在自体も軽くなってしまいます。

このような子が増えてくると、クラスは機能不全になっていきます。いわゆる学級崩壊は、このようにして起こります。

高学年での学級崩壊の一因は、子どもの思春期の発達段階に対して、先生の指導がミスマッチを起こしている状態にあります。このミスマッチは、経験を積んだベテランの先生も例外ではありません。

ですから先生は、いまの子どもの早期化する思春期の成長段階にあわせていかないと、子どもの関係はうまくいかなくなるのです。

怒鳴ることで、子どもを抑え込み、いうことをきかそうとするのは指導ではありません。

「指導」とは、子どもとおとなの人間関係(=信頼関係)があり、「この人の言うことならきいてみよう」という気持ちが子どもの中に起こり、指導者のいうことに納得させ、言動を変化させることです。

ではどのように、思春期の入り口に入った子どもたちと接していけばいいのでしょうか.ポイントは、おとなが子どもの言動の背景にあるものを、常にみようとすることです。
その意味で、私はよく三中の教職員に、子どもの言動にある背景を見なさい、と言っています。

とくに問題や課題を抱えた子どもの場合はなおさら必要です。どうしてそのようなことを言うのか、なぜそのような行動をとるのか。その言動の後ろに何があるのかを見きわめようとする姿勢が求められます。

たとえば、家庭での厳しい状況・環境という背景をひきずり、悩み、苦しみ、心に大きな傷を受け、めげそうになりながらも、学校へ来ている子どもたちがいます。

この子たちにすれば、「抑えつける」だけの注意やどなり声だけの教師に対して、「どうしてわかってくれないのだ」と思い、反抗するのは当然です。

子どもに「寄り添う」とは、子どもの背景にまで目を向け、その子のことを一生懸命に思い、見まもることでしょう。

「どうしたん?」「なにかあった?」。そういって近づいてきて、心配してくれるおとなを子どもは、ひたすら待っているのです。

自分のことを気にかけてくれるおとなに対して、子どもは心を開きます。

そのおとなとは、もちろんわれわれ教師であるし、また、みなさん親御さんでもあるのです。