箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

今の時代での豊かさとは

2021年12月31日 09時39分00秒 | 教育・子育てあれこれ
2021年も今日で終わりです。

コロナ禍で翻弄された1年でした。

コロナ対策で経済も停滞しがちな1年でした。

日本での今の時代は、低経済成長社会です。

これはどのような社会になるのでしょうか。

高度経済成長時代は、人びとがより多くのものを所有する願いと願望により支えられていたといっていいでしょう。

マイカーがほしい。
最新の電機製品がほしい。
マイホームをもちたい。

会社や企業は人びとの購買欲競争をあおり、人びとがものを私有する手助けをしてきたのです。

「いつかはベンツなどの外車に乗りたい」。

高級車に乗ることが、その人のステータスのように考えられていたのです。

でも、低経済成長時代では所得は増えません。給料が低迷しているので、消費も伸びないのです。

1990年の終わり頃から所得(年収)は減少し続けています。

今、年収300万円以下の勤労者は、全体の4割近くを占めます。

低成長時代の生活様式は、カーシェアが典型的な例です。

「車はいらない。必要なときだけカーシェアを利用する」という若い人が増えています。

共有することで、まちがいなく消費は減ります。経済成長は伸びません。

それでも豊かさを味わうことができます。

山間部に住めばたしかに不便かもしれません。でも空気はまだきれいです。新鮮な野菜を育てて食べることができます。星が見えます。水がおいしい。

これを豊かさと感じられるか、感じられないかが低成長時代の鍵になると思います。

2020年代は、まわりの人と共有することで豊かさを感じる生活へ転換していく時代であるのかもしれないと思います。

感情が動くと忘れない記憶になる

2021年12月30日 11時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ

わたしが小学校3年生のときのことです。

その学校ではヘチマを栽培していたのですが、ちょうど教室の窓から手がヘチマに届くところにありました。

休み時間にそのヘチマをボクシングのサンドバッグに見立てて、パンチを繰り出すいたずらをしていました。

それが担任の先生に見つかり、怒られげんこつを頭に食らいました。痛かったのを覚えています。

わたしは深く反省をしました。

もう50年以上前の話なのに、今でも鮮明にそのできごとは覚えています。

その一方で、忘れたできごとはかぞえきれないほどたくさんあるのです。

覚えているのは、たいてい「痛かった」「うれしかった」「びっくりした」「こわかった」「はずかしかった」などの何らかの感情と結びついたできごとです。

ここから思うことがあります。

いつまでも人の心に残り、その人の人格を形づくるのは、心や感情が動く体験や感覚であるということです。

心で感じたことは、いつまでも残るのです。

その意味で、思うことが二つあります。

一つは、学校教育の中では、子どもの心を動かせる場面を用意する必要があるということです。

授業の中で、教材に触れ感銘を受けるとか、学校行事でうれしかったり、楽しかったりする経験をすると、その子の人格形成にまで好ましい影響を及ぼすことになります。

もう一つ思うのは、教師からの理不尽な体罰は、子どもの中に「痛かった」「怖かった」などの感情をいつまでも残していくことになるということです。その痛みは一生忘れない記憶として残るのです。

幸せは自分に導かれてくる

2021年12月29日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今年もあと数日で終わることになります。

けっきょく、新型コロナウイルス感染症は1年間終息なく、暮れを迎えています。

コロナ渦だけでなく、さまざまなことを思い浮かべ、自分は楽しく幸せに暮らせた1年だったのかと考える人も多いでしょう。

ただし、幸せだったか、幸せでなかったか、どちらにせよ、その状況が永遠に続くことはないのです。

運がよかった人もいつかは不運がやってきます。この上ない絶望や哀しみを感じたとしても、ずっといつまでも続くのではなく、必ず時間がやわらげてくれます。

時は絶望や哀しみを懐かしさに変えてくれるのです。

さらに、不幸なことやつらいこと、悲しいことにも耐え、希望を見失わず、、努力の末に手に入れた成功や幸せには、この上ない価値があります。

このように考えると、私たちの世界には幸せも不幸せもないのです。

運や不運は、私たちにとって大きなことではないのです。毎日のできごとのすべてを受け入れ、いかしていく心構えと覚悟があればすべて大丈夫です。

幸せはその人のこころがけで、自分に導かれてくるのだと想う暮れの頃。

人生最後のステージを開く

2021年12月28日 09時06分00秒 | 教育・子育てあれこれ

いまや三世代同居の家庭の割合はおよそ1割です。

ここ30年間で5分の1にまで減りました。

日本経済で、バブル後の長期経済低迷の期間を「失われた30年」と一般に言いますが、じつは三世代同居という家族形態も30年の間に失われたのです。

これからの将来、高齢者だけの世帯が増えるのは確実です。

老夫婦で住んでいたとしても、どちらか一方が先に亡くなります。いずれは一人になることに備えなければなりません。

そんなとき、周囲の手助けがなく、孤立してしまうことだけは避けたいものです。

家の中で倒れて骨折しても、誰にも気づかれないような事態に陥らないようにするには、平素からの人との交流が必要になります。

また、高齢者が健康を維持していくためには、人との交流が大切になります。

ただし、交流とはいえ、たんに群れるだけでは充実感に乏しいでしょう。

かといって、現役世代のときのような好まない活動でもしなければならないのではないし、イヤな人と会う必要もないのであり、本人にとって意味のある交流ができればいいのです。

65歳の人はあと何年ほど自立生活ができるかといえば、85歳ぐらいまでが平均と言われています。

20年間あります。行き当たりばったりで暮らすには長過ぎます。

「健康で暮らしたい」。

これは多くの高齢者の願いであり、衰えや病気がどうしても気になります。

でも、たとえば高齢者が書く手記や雑誌への投稿などを読んでいると、若い人にはけっして思い浮かばないような言い回しや言葉の使い方に出くわし、その発想や含蓄のある言葉には驚くことがあります。

五木寛之さんは老いとは確かに体力の衰えなどはあるが、登った山をゆったりと降りていく「成熟」の期間であると言っています。

「山を登るときにはけっして気がつかなかった遠くに見える海の遠景、足元にひっそりと咲く高山植物の花などに足を止め、鑑賞する余裕ある時間をもてるのが山を下りるときである」(『下山の思想』)と述べておられます。

高齢期は、積み重ねてきた知識や技能、経験などを最終仕上げをする時期であり、そこは「有終の美を飾る」人生の最後の段階だと言えます。

こう考えると、なんだか心が軽やかになってきます。

どうも少子高齢化とか、人口減、孤独死、独居老人などの言葉が乱れ飛び、マイナスイメージや重たさがつきまとう高齢者問題です。

中学生のような若い子や、働き盛りの現役世代が、「高齢者問題」に好ましい印象やイメージを持つことができるよう教育・啓発することも大切です。

自分たちも何十年か先には、高齢者になるのですから。

読書は答をさがす手がかり

2021年12月27日 07時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ
読書をするとき、多くの人は本に自分の疑問や課題の答があると考えます。

だから日々の生活の中で悩んでいるは人や迷っている人は、答を探しながら本を読みます。

しかし、読書の本質は自分の頭で考えるのではなく、他者の頭で考えることだと思います。

これは、本に答が書いてあるのではないということです。

本に書いてあるのは、あくまでその本の筆者の考えであり、世の中すべての考えや思想を代表しているものではないのです。

だから、生き方や人生に悩んだり、迷って、本を読む人が探している答ではないのです。

答はいつも自分の中にしかないのです。

しかし、本には自分の答に辿り着くヒントや方向性が示されているのです。

このことをうまく表現した歌詞があります。秋元康さんの作詞です。


「太宰治を読んだか」(部分引用)
作詞:秋元康
作曲:杉森舞

風に向かって
ずっと歩き続けたんだ
どこにいるのかわからずに
何かに逆らいたかった

道は果てなく
僕は無我夢中だった
少しでも気を緩めると
心が吹き飛ばされた

人はなぜ生まれるのだろう?
いつか死んでしまうのに
つらい毎日の中で
生きる意味を知りたかった

太宰治を読んだか?と聞かれた
君と出会った日
正直に言えば
僕は読んでなかった
近くの本屋で何冊か買って
ファミレスに入った
縋(すが)るように
ページめくりながら自分探した

風はそれでも
何も変わらず吹いていた
スーパーの安売りのちらしが
ひらひら 振り回されてた ♪♪

・・・・・・・・(中略)・・・・・・・

太宰治を読んだか?と聞かれた
君を友と呼ぼう
残念なことに
本に答えはなかった

“目から鱗が落ちた”というような
奇跡はないけど
ただ 人生とは何か?
語れる友ができた  🎵 🎵

・・・・・(以下略)・・・・・・・・



インターネットの暴力 その2

2021年12月26日 07時58分00秒 | 教育・子育てあれこれ

人間の欲求について、アメリカの心理学者マズローは見出しの画像のような段階があると説いています。

そもそも人間は、自己実現に向かい成長し続けます。一つ下位の欲求が満たされると次の欲求を満たそうとする心理が働き、行動していくのです。

(1) 生理的欲求は、生きていくために必要な、基礎となる欲求です。食欲や睡眠の欲求です。生命を維持したいという欲求です。

(2) 安全欲求は、安心・安全に生きたいという欲求です。病気や事故に遭わず安全を確保して生きたいという欲求です。

(3) 社会的欲求は、グループに属していたい、社会に所属したいという欲求です。家族や友人、いっしょに仕事をする人に受け入れてもらいたいという欲求です。

(4) 承認欲求は、他者から認められたい、尊重されたいという欲求です。会社の社員として認めてほしい、中学生がクラスの一員として認めてほしいと願うものです。
この段階から(1)(2)(3)のように外的要因を整えたいのではなく、内的な心を満たしたい欲求となります。

(5) 自己実現欲求は、自分の可能性を探し、「そうあるべき自分」(理想の自分)をめざしたいという欲求です。

このマズローの欲求の5段階説は、学術的にも社会的にも認知された定説です。

なぜこれを示したかといいますと、ネットいじめやネット中傷をする心理や行動が、「ねじれた、ゆがんだ形」で、これらの欲求にあてはまるからです。

① 書き込みで悪口を書いたり、中傷する言葉をならべ、人を責め、自分のストレスを解消しようとする。⇒生理的欲求

② 匿名を利用するなどして、自分の安全は担保しておき、相手には意思を伝えたい。⇒安全欲求

③ ほかにも悪意の書き込みをしている人のグループに属し、「ふくろだたき」の中傷に加わる。人数が多いので、「炎上」になります。

④ 「そのツイートがいい」という人が「いいね」を押す。自分に対して「いいね」という承認がほしいと思う。

⑤ 自分は「悪い人」を正してやったのだという、「正義の人」というまちがった満足感にひたることができる。

①から⑤の順番は入れ替わるかもしれません

が、ネットいじめやネット中傷は、安易なやりかたで、マズローのいう5段階欲求のすべてを充足させるのです。。

ねじれた欲求・ゆがんだ欲求で、インターネットの暴力、ネットいじめやネット中傷に加わらない。健全な形で欲求を満たしていきたいと思います。

インターネットの暴力 その1

2021年12月25日 13時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ


いま、SNS上には人を楽しくさせたり、応援する書き込みがある一方で、暴言・悪口・誹謗中傷の言葉が氾濫しています。

見たくなくても目に入ってしまいます。

心を傷つけられた被害者はたくさんいます。

その言葉を適切に規制するしくみもなく、言われっぱなしです。


言う方は無責任に放言し、相手がやり返してこないので攻撃してもいいと考えているようです。

容赦ない悪口・中傷が、言われる側の胸に突き刺さります。深く傷ついて、心を壊す人、自殺する人まで出るという現状です。

予断と偏見に満ちた言論もあります。

見出しには「○○<芸能人名>はじつは在日(朝鮮人)」というものもあります。

在日朝鮮人だからなんだというのでしょうか。

「言論の自由だ」と反論する人もいるでしょうが、言論の自由は人を傷つけないという前提で保障されるものです。

何を言ってもいいのではないはずです。

インターネット上の攻撃はインターネット上の世界で起きているのではないのです。インターネットというツールを悪用して実生活で起きている攻撃です。

SNS時代の特徴は、自分が見たい情報に囲まれる(フィルターバブル)、信じたい情報を信じる(認知バイアス)であり、同じ考え・価値観をもつ人が集まる点にあります。

「そうだ、そうだ」「自分もそう思っていたが、あなたもそう思うのか」というなかま意識で攻撃はエスカレートします。

今の時代、自分の心を守りながら生きることにしんどさを感じている人がたくさんいます。

周りの人の温かい助けや支えにより、心を守りながら生きていける社会になることを切望します。

(次回に続く)

デジタル教科書をどういかすか

2021年12月24日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ


教科書といえば、従来からずっと紙で作られていましたが、児童生徒一人1台の端末がそろった今、今後がデジタル教科書が授業で活用されていくことになります。

教科書は授業者にとって、学習者にとって、教材の核ともいえるものです。

学校では、当面は紙の教科書とデジタル教科書を併用していくようになりそうです。






デジタル教科書の「強み」については次の例を挙げます。

たとえば小学校4年生では、立体図形の展開図を学習します。

紙を切ったり動かしたりすると、その作業に長時間が費やされます。

ところが、デジタル教科書のシュミレーションコンテンツを使うと数多くの展開図がすぐにできます。

画面上で切ったり、動かしたりして「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤するのが簡単になります。

その結果、紙の展開図では思いつかないような展開図を見つけることもできるのです。

ただし、そのような「強み」をもつデジタル教科書ですが、その使用オンリーになる必要もありません。

いままで学校の教員が行った紙ベースの指導法で児童生徒が十分に理解を深めることができた学習内容は紙の教科書を使っていけばいいのです。

そうではなく、紙ベースの指導法で児童生徒がよくつまずくところや、理解や定着がよくない学習内容は、デジタル教科書を活用するなど、ケース・バイ・ケースで使い分けていくのがいいと思います。

がまん強さを身につけることは目的ではない

2021年12月23日 08時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ

日本は伝統的に人びとが「がまん強さ」に価値を置いているように思えます。

たとえば、地震などの自然災害で避難所を開いたとき、個人にはプライバシーがなくても、「災害時だからみんながたいへんなんだ。がまんしよう(がまんしなさい)」となります。

避難者と避難者の間にプライバシーがなく、ごろ寝の状態でした。

もっとも、これは最近の避難所では改善されてきましたが、それまでは多くの人が「しかたない」と思っていました。というか、全体的に意識が低かったのだと思います。

女性の方から「着替えるのを見られる」などの声が上がり、みんながプライバシーの概念に気がついたのでしょう。

がまん強いのもいいですが、がまんし続けるのでなく声を上げることが大切です。


また、がまんをして「やればできるのだ」という根性論も健在です。

自分次第で、やる気があればもごとは成就させることができるというものです。

それが自分の中でおさめているのならまだしも、他者にも強いる傾向があるようです。

なかでも「えらい人」が部下に「がんばりが足りないのだ。やればできる」とだけいうのは、「えらい人」が責任を投げ出していると考えることができます。

やる気次第でできるのなら、「えらい人」は何もしなくていいからです。


「たいへんなのは、あなただけでない」という教えもよく使われます。

「あの子は車いすでもあれだけがんばっているのよ。(それにくらべればあなたは恵まれているじゃない。)あなたもがんばりなさい」というのは、問題の解決にはなりません。

いま、その人がたいへんなのであって、他と比べても解決にはなりません。また、「あの子」にもおこがましいです。

「あの子」がたいへんだと感じているかどうか、恵まれていないと感じているかどうかは他の人がきめることではないからです。


日本の学校教育でも、おしなべて子どもたちに困難なことを乗り越える強さを身につけてほしいと願い、それを子どもに強いる傾向があると思います。

その力を身につけることは大事ですが、それを目的にするのではなく、むしろ子どもがいろいろと経験をしていくなかで、結果として困難を乗り越える力が身につけばいいのではないでしょうか。

親子関係が人間関係の基本

2021年12月22日 08時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ


学校でのいじめはなかなか解消できない問題です。

もちろん学校でのいじめは、学校の体制とか教員がいたらない点があるから起こります。

さて、いじめによる調査をした研究者は、いじめを仲裁したり、止めようとする子は「親との関係がいい」または「非常にいい」と答えています。

いじめに加わる(加担する)子は「親との関係がよくない」または「非常に悪い」という傾向があります。

ここから考えると、確かにいじめは学校で起きているのですが、問題の根は家庭での親子関係にあるとも言えます。

いじめをしない子、いじめに立ち向かう子になるには、子どもが親を信じ「親のことが好き」と思えることです。

親子関係は人間どうしの関係の基本となります。

この関係に満足し、楽しさや喜びを感じていると、クラスの友だちが苦しんだり困ったりすることに楽しみを感じるような屈折した気持ちにはぜったいになりません。

それでは、どのようにしたら子どもは親のことが好きになるのでしょうか。

それにはまず親自身がわが子のことを大好きでなければなりません。

子どものいたらない点、よくない点をみるのではなく、いいところをちゃんとみて、「大好きだよ」と言葉にして伝えるのです。

「いい子でないと好きにはならない」ではないのです。

ところが、子どもが大きくなるにつれ、子どもへの期待が大きくなることも多いです。

「自分のことは自分でできるようになる」
「学習にも習い事にもしっかりやる」。

このような期待が高まります。

しかし、そうなる気持ちをできるだけおさえて、ありのままのこの子がかわいいと思い、子育てをしてほしいのです。

できれば幼児期にこの気持ちを十分に子どもにシャワーのように浴びせ、子どものなかにしみこませるがいいのです。

思春期の中学生になって、「こんなに手のかかる子どもは・・・」と思うことがあれば、幼児期に言葉のシャワーがたりなかったのだと自覚します。

そんなときは、期待しすぎず、できないところは手伝い、教えるべきことは穏やかに何度も繰り返すという子育ての原点に戻ってください。

地域が子どもを成長させる

2021年12月21日 12時34分00秒 | 教育・子育てあれこれ


感染症の拡大でここ2年間は、花火大会や夏祭り、秋祭りなどの行事が中止になっている地域は、日本全国にたくさんあります。

また、防犯活動、環境美化活動などの地域活動ができなくなった地域も多いことでしょう。

今まででさえ、地域の力の弱体化がいわれていたのに、このまま人のつながりが弱まっていくと、地域社会の一員という意識が住民からさらに希薄になるのではないでしょうか。

住民同士の助け合いや協力がなくなるだけでなく、地域への愛着も薄くなるのではないかと心配します。

子どもは大人から有形無形のかかわりを受けて育ちます。子どもにとって大人の存在はとても大きいのです。

たとえば、小さな子がお母さんの背中におわれ、公園を散歩していました。そのとき、近づいた木の枝から鳥が一羽、さっと飛び立ちました。お母さんは「あっ」と声を出し鳥の方に注目します。

すると、おわれていた子もお母さんが視線を向ける方向を見るのです。これはジョイント・アテンションという行動です。つまり、子どもはお母さんが見る方向を同じように見るのです。

こういう大人と子どもの交流があるのです。子どもは大人からたくさんの影響を受けて、成長していくのです。

おとなからの子どもへのかかわりは、これほど大きいのです。

とくに核家族化が進行して久しく、幼い子どもが大きくなる際に親以外にかかわる大人が多いと、教育的効果が高まるのです。

昨今の感染症の拡大や地域行事の中止は、子育てや子どもの成長に大切な資源を子どもが受けられないことであり、子どもの教育上から見ても心配になります。

昔ながらの人のつながりが残っている地域もまだあるでしょう。比較的新しい住民が集まってできた地域もあるでしょう。

それでも、この今でさえ、自治会活動等で気配りをしてくれている人、子どもの成長にやさしいまなざしを向けてくれる人がいるでしょう。

そのような地域への想いを受け継ぎ、次の世代へバトンを渡すことが、地域に住む人の務めです。

「あなたはひとりじゃない」のホームページ

2021年12月20日 08時02分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 

新型コロナウイルスの感染拡大は、人との距離を空けることを求めてきました。

この距離を空けるというのは物理的に人と人の間を何メートルあけると言う意味でもありますが、同時に人との心理的な距離を感じる人を増やしてきています。

このたび、内閣官房孤独・孤立対策室が設けられ、「あなたはひとりじゃない 孤独・孤立対策ホームページ」(https://notalone-cas.go.jp/)が整えられています。

このホームページには、18歳以下むけページと一般むけページがあります。

「孤独・孤立で悩みを抱えている方が支援制度や相談先を探す」助けになるよう、自動応答によるチャットボットで該当するものをクリックして、相談機関ににつなげるように工夫されています。

また、あわせて野田大臣からのメッセージも読むことができるようになっています。

新型コロナウイルス感染症の影響を受け、誰にも相談ができず、「孤独・孤立」を感じ、自殺者が出ているという現実に対してなんとか対策を講じたいという意図が伝わってきます。

このホームページは、多くの人びとに周知される必要があります。また、文科省もとくに18歳以下向けページを案内し、必要な児童生徒が活用できるよう呼びかけをしています。

ただ、「孤独・孤立」と同列にネーミングしている点が気にはなります。ホームページを見ても、両者のちがいにふれていません。

以前にも、私はブログで書いていますが、孤立は人間関係が絶たれている状態であり、孤独は一人の時間を過ごすことです。一人になり孤独になることで、考えることで自分の学びが深まり、成長に気づくことがあります。

それを端的に表した言葉が、「孤独になっても、孤立はするな」です。

その区別をせず、「孤独・孤立」というように中点で結び、孤独と孤立を同列に扱っている点は疑問に思います。

このようにネーミングは気になりますが、18歳以下むけページは、自動応答でスムーズに進んでいき、最後はSNSでの相談、電話での相談、手紙での相談のいずれかにつながるように工夫されています。

相談により、心の悩みが和らぐことも多いので、利用が広がることを期待します。

行動がかわると意識がかわる

2021年12月19日 07時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今までふつうに言っていたことが、時代の流れとともにNGになることがあります。

「男らしく」、「女の子らしい」などがそうです。

今は、履歴書の様式から性別を書く欄がなくなる傾向にあります。

また、「イケメン」も不適切です。容姿で人を判断するのはルッキズムにあたります。

私が教員になった40年前と比較すると、大きな変化です。

最初は学校の学級生徒名簿を男女別に分け、男子が先になっていました。

それが途中から男女混合名簿(あいうえお順)にかわりました。

このように。この40年間で人びとの意識は高くなりました。

しかし、頭ではわかっているが(わかっていない人もいます。オリンピック大会組織委員会の委員発言など)、過去の経験やその人がもった「常識」(偏見)にとらわれ、無意識のうちに不適切な発言をするケースが頻繁しています。

どうしたらいいのか。

わたしは「そういうことを言わないときめる」ことだと思います。  

言わないときめたら、言わなくなります。「言ったらダメだから言わない」…でもいいので、それを押し通すのです。

言ったらダメだから言わないでは、ほんとうに理解しているにはならない。こんな主張もあるかもしれません。

でも、言わないときめ、言わなくなると、意識は高くなります。経験上、わたしはそう思います。

つまり、行動が変われば、人との関係が変わり、やがて意識も変わるのです。





「あてにする」ということ

2021年12月18日 09時53分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「あてにする」を英語では、relyと言います。そこからreliance(信頼、あてにすること)という言葉が派生します。

今回の新型コロナウイルスの感染拡大を防止するという点で、国はあてにできないと思った人が多かったのではないでしょうか。

感染すれば、軽症の人だけでなく、中等症の人までが入院できず自宅で療養するように強いられました。

国民健康保険制度が整い、一人あたりの病院のベッド数は世界有数の国と言われる日本であるのに・・・。

「自分の身は自分で守りなさい」と言われていると感じた人も多くいたのではないでしょうか。

また、あてにするといえば「組織や会社は社員を守ってくれる」と思えたのは、おそらくバブル崩壊の前まででした。

終身雇用はとっくの前になくなり、解雇や雇い止めはすでに常態化するようになりました。

清濁併せ吞む経験を積む

さて、私は学校は「児童生徒を自立に近づけるところ」という考えをもっています。

この「自立」とは何でも一人でできるようになることではありません。

自分でできることは自分でするが、一人ではできないことも多くあります。そのときに、「助けて」といって人にたよって助けてもらえる人間関係をもつことが、本当の意味での「自立」であると思うのです。

したがって、現在のように社会全体が人をあてにすることができない、他人とはそういうものという状況では、児童生徒が将来に希望をもちにくいのです。

その中で、学校教育はどこに活路を見いだしていくのでしょうか。

それは、学校のなかで大切にされる実感を児童生徒が積んでいくことでしょう。

毎日、友だちといっしょに学校生活を楽しみ、教師との信頼関係を深め、力を合わせ学校行事に取り組み、人への感謝を忘れない。

ただし、清いことばかりではない。

人と交われば傷つくこと、ときには裏切られることもあるが、それでも人ってたよっていいのだ。

このように、「清濁併せ吞む」経験を積み重ね、たよりになる人に出会える場が学校であってほしいと願うのです。

アフターコロナ時代の授業と研修はどうなるか

2021年12月17日 08時53分00秒 | 教育・子育てあれこれ


従来、大学の授業(講義)は、その内容やようすは受講対象者となる学生以外はわからないものでした。

今の時代、小中学校で参観授業や学校行事をすればお母さん、お父さんはもちろん、おじいちゃんやおばあちゃんまで来られる時代です。

しかし、こと大学の授業に関しては、市民や社会人を対象にした大学の講座に申し込み出席する以外には大学の授業を知る機会ありませんでした。

お父さんやお母さんは、自分が大学を卒業していれば、その経験で大学生であるわが子の授業の様子を想像するしかありませんでした。

ところが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、「苦肉の策」で各大学が導入したオンライン授業は、大学生の保護者にも授業が公開されることになったのです。

わが子がオンライン授業を自宅で受けているのを後ろで保護者が見ることができるようになったのです。

いまの保護者の観察力は鋭いので、「さすが大学の授業だ」と評価する場合も多いのですが、「高い授業料を払っているのに、こんなことしか学べないのか」という批判の目にさらされることもあります。

それらの意味で、保護者に開かれた大学の授業になり、授業の質のブラッシュアップにつながるという効果がオンライン授業にはあります。

では、欠点には学友関係がつくりにくい以外に、どんなことがあるのでしょうか。

・教員のスキルにより、授業の差が出やすくなる。

・授業録画がいつでも見られるような場合、学生の生活習慣が定まりにくい。

・・・・・・・・・・・・・

なかでも、
新入生が人間関係を深める宿泊を伴う研修ができなかった。
短大の場合、2020年度入学生は、入学以来オンライン1年半が続き、あと3ヶ月あまりで卒業となります。

しかし、海外の大学との交流は、交通費をかけなくてもできるようになったといえます。これは大きなメリットだと思います。

新型コロナウイルス対策では、小中高の教員研修にも変化が現れています。

そもそも、教員に必要な資質能力は、「たえず研究と教育実践に努めること」(探究力)であると、私は考えています。

法にも規定されています。

「教育公務員はたえず研究と修養に努めなければならない」(教育公務員特例法第21条)、
「教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない」(同法第22条)

このように教員にとっての研修はたいへん大切なものです。つねに新しい知識と技能を身につけてこそ、児童生徒への授業ができるからです。

コロナ災禍以前は、校内研修以外は、校外へ出かけて自治体の施設や研究大会の会場へ出かけて研修を受けるのがふつうでした。

学校のこと、自分のかかわる子どものこと・・・。いろいろと気にしながら学校を離れました。研修後、学校に戻ってきて、必要な保護者連絡をするなど業務に追われていました。

また、自発的に受ける研修以外はそのための交通費も支給されていました。

しかし、オンライン研修が導入されると、学校を離れたわざわざ出かけなくても研修が受講できるようになりました。

自治体にしても、参加教員への旅費や交通費の支給総額が少なくて済みます。

「たんに講師を招聘し、講演を聞くだけの研修なら、オンラインで十分だ」。

こんな声も教員から聞こえてきます。

また、ある程度のグループ討議もオンラインでできます。

それでも、やはり聞こえてくるのは、「2年目教員」「5年目教員」などは、「(集合研修で)久しぶりに同期と会えてので、とてもうれしかった」という声です。

やはり人間的なつながりは大きいのです。

けっきょく、これからは大学の対面授業、教員の集合研修に戻りはするが、アフターコロナの時代では、対面・集合研修とオンライン授業やオンライン研修も併存して残っていくことになるのでしょう。