箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

理系に進学する女子

2021年10月31日 08時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ

男女間の格差は、雇用形態、賃金、世代別就労人口など、雇用面で指摘されることが多いですが、教育でもその格差を見ることができます。

一つは日本の学問では、理系分野より文系分野を選ぶ女性が圧倒的に多いという状況があります。

この現象は以前から何十年も続いていましたが、2019年では、自然科学や工学を選んだ高等教育機関に入った学生のうち、女性は国際比較すると36カ国中最下位なのが日本でした。

その分野で女性が少ないというのは、研究の視点が多様にならないという大きな問題をもっています。

ただ、文科省の調査では、大学の入学者のうち女性の比率は理学部がおよそ30%、工学部が15%で、少しずつは増えてきていることは言えます。

日本での男女の格差は縮まってはきているのですが、他の国は女性の増加はもっと大きいのでしょう。

また、高等教育機関での女性が占める割合で一番多いのは、ロシア、次いでリトアニア、ラトピア、フィンランド、ニユージーランド、カナダ、アメリカという順位になります。

日本では、中学校の年齢段階から「女子が理系が苦手」という生徒の思い込みは、何十年も続いています。教員のなかにもそう考える人がいます。

安直に「理系は男子、文系は女子」という固定的な見方にとらわれているのです。

しかし、わたしは日本の女子学生の科学知識や科学技術が低いとはけっして思いません。

「自分は将来、科学分野に進みたい」と希望する女性を増やすには、進路学習の中で意図的に女性科学者と出会う機会を設けるなど、女子が理系の仕事に就く夢を育む学習が必要になります。

じっさい、中学校段階での進路学習が、将来の夢につながることは珍しくありません。

何10年かぶりに出会った卒業生に「いま何をしているの」と聞くと、「整備士をしている」と答えた人がいました。

「へー、どういうきっかけで? 」と問うと・・・。

「先生忘れたのですか。中3の時、教室に整備士の人がきて話をしてくれたやないですか。あのときから、ボクは整備士に憧れ、整備士になったのです」。

このように、中学時代の進路学習が将来の仕実際につながることがあるのです。

ですから、人との出会いは大きいのです。理系分野に従事する人に女子を出会わせ、将来の夢を育む学習は、子どもの可能性を広げることになります。

ボランティア活動になびく大学生

2021年10月30日 08時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ


教員採用試験の面接官をした経験では、最近の大学生で教員をめざす学生のほぼすべての人が、ボランティア活動を体験しています。

なかには、自治体の方で、教員採用試験を受ける人にボランティア活動の経験を義務づけている場合もあるのですが、そうでない場合も多くの大学生がボランティア経験を持っています。

現在、国内の多くの大学・短大にボランティアセンターが設置されています。

センターでは、学生からのボランティアについての相談を受けたり、活動をコーディネートします。また、学生スタッフを育成するセンターもあります。

学生スタッフとは、ボランティア活動を希望する学生とセンターの間に入り、学生の相談に応じたり、ボランティア活動の啓発に取り組みます。

学生がボランティア活動に取り組む理由は、何よりも人の役に立ちたいという願いです。そして、喜んでくれる人がいることで、自分への自信を深めることができるのです。

わたしは、日本で本格的なボランティア活動が始まったのは、1995年の阪神淡路大震災での炊き出しや物資分けであったと記憶しています。

それ以降、現在の学生は、自然災害を身近に感じており、生まれたときからボランティア活動を見聞きする機会が多いということも理由になっているようです。

また、大学内での自分だけでなく、他の活動にも従事する自分を大切にしたいという願いの表れかもしれません。

思えば、いまは「ゆるやかな人間関係」を求める人が多いのです。

「あの人といつもいっしょ」ではなく、場面や機会が変わるとつながる人がちがう、でも孤立はしていない。
あの活動を通じてあの人とはつながっているというゆるやかな人間関係なのです。

ただし、わたしの持論ですがボランティア活動は、二層でできています。

一層めは、家族や地域社会の一員として当然やるべき仕事(家庭でのお手伝い、地域清掃など)をやる活動です。

そのうえで、二層めとして、「人の役に立ちたい」、「人に喜んでほしい」という自分からの発意で行う活動(これが本来のボランティア活動です。voluntary:自発的)です。

一層めは土台、家屋での基礎にあたる部分で、土台や基礎をおろそかにして2階を作ると危ういことがあります。

いまは、一層めをあまりやらず、二層めのボランティア活動に従事する学生が多いという苦言は呈しておきたいところです。

超高齢化社会の到来にむけて

2021年10月29日 08時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ

日本では1947年から1949年の期間は第1次ベビーブームでした。

その間に生まれた世代が、いわゆる「団塊の世代」です。

その人たちは、来年2022年に全員が75歳になり、後期高齢者の仲間入りをします。。

この75歳以上の人は、1990年には全人口の5%でした。

ところが、2025年には20%近くを占めるようになる見込みです。人口の5、6人に一人が75歳以上という超高齢化社会が到来するのです。

75歳以降は、医療や介護にお金がかかるようになります。医療費での国の負担分が4倍、介護費での国の負担分は10倍になると言われています。

これらの高齢者に支払われるお金は二種類あり、国や自治体が負担する公費と国民が支払う社会保険料です。

現状で社会保険収入が追いつかず。公費からの支出のウエイトを増やしてきました。

国の公費増加分は、おもに税金と借金でまかなってきたのですが、今後も国に入るお金は増える見込みはありません。

それは社会保険料を支払うことのできる現役世代の人口に占める割合が減るからです。

2025年には、20歳から64歳のが全人口の54%、2050年には48%と減っていく見込みだからです。


このような超高齢化社会にこれから入っていくのが、いまの子どもたちです。2050年は今から約30年後であり、今の中学生は40歳代になる、まさしく働き盛りの年齢になります。

「みなさんは、将来、後期高齢者を支える人たちになるのです」と言っても,言われる側はなかなか実感がともなわないかもしれません。

明るい見通しがもちにくい話を大人はしなければなりません。

でも、そういう時代は確実にやってきます。

そこで、いま国は高齢者や女性の働き手を掘り起こしています。

従業員が70歳まで働く機会を確保するよう、企業に努力義務を課しています。長寿社会を迎え、いまや60歳を過ぎても,あと10年ぐらいは健康に働ける人は多いので、ぜひ働いてもらいたいところです。

また、子育てをしながら、女性が働くことができる社会全体の認識、一度退職したが家庭に入っている女性で子育てが一定離れた人の再雇用を増やしていくのと同時に男女共同参画社会の実現を図っていくのが、いまとるべき政策であるのです。

少子化・高齢化社会といえば、後ろ向きなイメージを伴いますが、みんなで支え合う社会の実現にむけ、学校教育でもその道筋を教え、次世代の意識を高めていくのがいいようです。

私たちが生きる意味

2021年10月28日 06時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私たちは、何のために生きているのでしょうか。

一面的な考え方をすると・・・

教職に就いている者なら、児童生徒の人格を完成するサポートをするためです。(教育基本法に教育の目的は「人格の完成」と謳われています。)

医療に従事している人なら、患者さんの健康と命を守るため、販売業なら、いい商品を消費者に届けるため・・・。

以上のことは、仕事や職業を通した、他者への貢献・役立ちで自分の生きる意味を考えたもので、たいへんわかりやすいです。

でも、仕事や職業を除くとなると、「人は何のために生きるのか」はけっこう答えるのが難しいのではないでしょうか。

いささか哲学的な問いですが、アンネ・フランクは明確に答えています。次のように。


「私達は皆、幸せになることを目的に 生きています。

私達の人生は 一人ひとり違うけれど されど皆同じなのです」(アンネ・フランク)


このセリフは、『アンネの日記』に出てきます。

第二次世界大戦の頃、ドイツ人でありながら、ユダヤ系であるというだけで、ナチスは迫害を加えました。

殺される危機に瀕して、アンネ・フランクは潜伏する生活を送り、その間に書いたのが『アンネの日記』でした。

ただユダヤ人というだけで苦しめられ、悲しい人生を送ることを余儀なくさせられる日々。

こんな状況の中で、絞り出した願いが「幸せになる」という目的だったのでしょう。

人間には生きる権利が等しく与えられていて、それも、幸せに生きる権利が守られなければならないのです。

ハッシュタグが手がかり

2021年10月27日 08時38分00秒 | 教育・子育てあれこれ


ハッシュタグ(#)をつけ、考えや意見を主張する習慣がSNS上で定着しました。

これにより、人がいついつに、どこどこの場所に集まり、ひとつの活動を行うということが減りました。

もちろん新型コロナウイルス感染をさける意味もあり、それがハッシュタグ運動の浸透を加速しています。

昔から、「数はチカラ」と考えられ、署名やデモ行進はその代表的な運動形態でした。

提唱者(リーダー)がいて、それに共鳴する人が集まり、デモ行進をすると、社会的な影響力が備わってきたのでした。

しかし、いまは提唱者はほんの少数でも、極端な場合一人でも、また行進しなくても運動をつくり共鳴者を集めることができる時代に入りました。

その典型が、「東京オリンピックは中止!」というカードをもって京都の界わいに立った高校生の無言の抗議です。

たった一人の高校生の、この「静かな行動」はSNSを通して「拡散」され、15000ほど閲覧されました。

「(高校生なのに)勇気がある」「応援する」といったコメントがSNS上に並びました。

こうなると、「自分を支援してくれる人がいる」という思いやうれしさを抱くことができます。


この例が示すように、ここ20年間ほどでインターネットは、私たちの生活に入り込み、大きな影響を与えるようになったと、わたしはしみじみと思います。

その一方で、場合によっては、思いもよらずネット上で「炎上」して、不特定多数の知らない人から叩かれ、大きなナタで心をえぐり取られがごとく、深く傷つくこわさやリスクも紙一重でひかえています。

もともと、日本社会はわたしが知る限り、自分の子どもの頃の「安保反対」「全学連」の時代のデモの激しさはありましたが、その後はデモに参加する民衆は減り続けてきたと、認識しています。

しかし、いまの若い人は、直接は集合しないが、共感できる意見や考えには、SNSでそれを支持するコメントを寄せ、「運動」に参加することがふつうになっています。

それはたたかれるこわさやリスクよりも、「自分に共感してくれ人がいてくれれば」という他者への希望であり、ときにはある意味での人への信頼であると感じることもあります。


批判的にものごとをみる~Critical Thinking~のすすめ

2021年10月26日 08時07分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルスが去年のはじめに世界に広がりだしたとき、トランプ大統領は中国武漢から広がったと断定し、新型コロナウイルスを「チャイナウイルス」と呼びました。

また、遠く1923年に関東大震災の混乱の中、「在日朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマが広がり、朝鮮人への攻撃が起こりました。

つまりおよそ100年たっても、この類のデマや今でいう「フェイクニュース」はなくならないのです。

そして、ネット社会がこれだけ浸透した今では、人びとはニュースの扱い方に関する基礎的な知識がなく、まわりへの伝え方への意識が低い場合、すぐに「拡散」してしまいがちです。

新聞社が記事を出す場合には、原稿がまわるとデスクから「この『事実』はどのように確認したか」というチェックが厳しく入ります。

その確認が済んだものだけが実際に私たちが読む新聞の記事になります。

新聞記者の取材には労力と時間がかかります。そして書れた原稿にのる事実を複数の角度から確認し、妥当性のあるもだけが新聞記事になります。

それだけ、客観性、ある意味での信頼性があるのが新聞記事です。

そのため時間と労力がかかるのですが、新聞やテレビがその時間をとられているうちに、いまはすぐに誰かがツイッターなどで「拡散希望」と銘打ってネットに流すのです。

なかには、「テレビ、新聞が伝えていない真実」という冠をつけて流す人もいます。

YouTubeなどの場合は、たくさんの人が閲覧してくれればそれだけで本人の収入になります。「事実」の真偽よりも、儲ければいいという無責任な人もいます。

新聞記者は、自分が担当する分野の毎日のできごとや記録という「事実」を残していくのが基本です。その積み重ねが後には「歴史」となります。

その意味では新聞記者は歴史の初稿を書いているという自負と責任をもってほしいと思います。

そして、無責任なネット拡散者にニュースの載せ方をアピールしてほしい。それが今必要な既存メディアの役割とも言えるのではないでしょうか。

また、新聞の読者の私たちも、いま読んでいる事実が、のちに歴史に記されていくかもしれないという視点をもつべきです。

さらに、「批判的思考」(CRITICAL THINKING)で、ものごとをみて、判断する力は、学校教育で、授業で、メディア・リテラシーとして子どもの頃から身につけていかないと、将来のフェイクニュースの生産者、拡散者になりかねません。

(カバー写真と本文の内容は関係ありません。)

知ってほしい 農業の現状を

2021年10月25日 07時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルスは、外国人の受け入れを制限したため、日本国内の様々な業種に影響を与えています。今回は、それらの中でも農業への影響を考えます。

グローバル化が進行するとともに、日本国内での労働力不足が深刻化していた5年ほど前の頃には、地方自治体は技能実習生として外国人を積極的に受け入れる方向に舵を切ったところがけっこうありました。

国の2019年の入管法の改正は、技能実習生の来日を加速させました。

それ以前には、国内では人口減少で農業従事者の平均年齢が上がっていました。2040年には農業に従事する平均年齢は67歳になるという見込みがありました。

そこで、都市部ではわかりにくいですが、地方では確実に農業従事者として技能実習生を受け入れ拡大してきたのです。

農家の中には働いてくれる実習生を増やし、宿舎を整え、作物の収穫に大人数を雇用していたところもあります。

そもそも、野菜などの収穫は、商品として都市圏へ出す農家は大規模に農園を耕し、多くの植え付けを行います。

すると収穫期には一度にたくさんの作物が収穫を迎えますので、たくさんの人出がいるのです。

ところが、新型コロナウイルスの感染拡大により、国は入国を制限していた技能実習生を2021年1月には原則入国禁止としました。

その際、コロナ災禍以前から働いていた技能実習生の在留資格を延長し働ける人を確保できるケースは少なく、農家では労働力がたりません。

収穫期に日本人のパートを頼むと、集まるのは高齢者がほとんどで後期高齢者しか応募がなく、若い人はほとんど応募してきません。

収穫が間に合わないと、大きくなりすぎた野菜は商品にならず、廃棄することもあります。

また、兼業農家で、作物を売りに出さない農家は、外国人労働者に頼ることもなく、家族で従事しますが、後継者がおらず、高齢化が進行し、農地は荒れてきています。

農地は1年間何もしないだけでも、草が生えそのまま放置するとなかには、木のように成長する者もあります。農地が荒れると、当然、人里にはシカやイノシシ、クマが現れ、作物や農地に被害を与えます。

たとえばイノシシが出れば、田んぼや畑の土手などを掘り起こします。これは土中のミミズなどを食べるためです。土手は一晩で原形がなくなるほど崩れる場合もあります。大雨が降ると土砂崩れの心配になります。

また、収穫前の野菜も食い荒らします。イノシシの食料は動物性のものもあれば植物性のものもあります。つまり雑食生なのです。

まさしく、人が減り、活気がなくなる「限界集落」に向かっていく地方の農村の実情が垣間見えます。

これが今の日本の農業・農家の現実です。

都市圏で野菜をスーパーで購入して、「おいしい、とれたては新鮮ね!」と食する人たちや「農家さん直送の野菜」を売りにするレストランにも知っておいてほしい日本の農業の実情です。

SDGsで定める15番目の目標「陸の豊かさも守ろう」、11番目「住み続けられるまちづくりを」、12番目「つくる責任つかう責任」などが、農業に関連すると思いますが、まずは多くの市民が農業の現状に関心をもってもらうことが大切です。

そして、最後は教育に関連して、いまの日本の農業とこれからの将来展望に向け、何をしていくのかを子どもたちが考え、自分たちの行動につなげていく教育が求められます。

20年ほど前までは、「環境教育」と読んで、学校で教育実践がされていましたが、いまはそれでは範疇が狭すぎます。

世界的規模・グローバル視点で、「持続可能な開発目標」に則り、SDGs教育を進めていかなければなりません。

将来に期待しない人たち

2021年10月24日 08時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今の日本の若い人は「幸福ですか」と聞かれると、YESと答える人は多いです。

でも「将来に期待しますか」に対しては、NOと答える人がものすごく多いそうです。

将来に対しては、どうせ年金をもらえないかもしれないし、所得から考えて結婚ができないだろう、そうすると子どもがいないまま親の介護をしたあと、自分は高齢になり、死んでいくような気がする。

このように20代は思っている人が多いと、最近言われています。

中学校教育にかかわる者としては、いかにして将来に期待させるかは、大きな課題です。

今までなら「大学ぐらい出ていないと、正社員になれない」と言われていたのに、今では就職超氷河期だった世代をはじめ、大卒でも非正規社員を強いられている人は多くいます。

その一方で、ごく一握りの人が成功者とSNSで称えられます。しかしこのレベルに達するのは誰もができるのではなく、大多数の人は低収入に甘んじます。

7年ほど前に「今の小学4年生の年齢の人は、半数が100歳まで生きる」と初めて言われ「人生100年時代」の論拠とされました。

そのひとたちは現在、高校2年生になっています。医療が進歩し、この人たちは、実際に100歳まで生きる可能性があります。

このあと、まだ70年以上生きるのか・・・。

もう絶望しかなく、将来に期待するのは難しい/無理と思うでしょう。

こんな社会に対応するのは個人の努力であると考えるのは、適切ではありません。

将来に期待を持てないのは、個人の努力が足りないからでははなく、社会の構造の問題です。

今後を見通したとき、おそらく一定の努力を強いられ、他者との「競争」は残るでしょう。

しかし、問題なのはいまの日本には、競争に負けたり、失敗して一度そのレールから外れる這い上がってこれないところに問題があるのです。

一度仕事から外れても、職業訓練を受けたり、大学に通う資金の援助が受けられるようなセーフティネット制度が整備されないと、若い人は将来に期待は持てないでしょう。

社会の構造から起きている問題は、国の制度充実が必要です。

この認識を今の中学生はもち、行動を起こせる力をつけてほしい。

そのためには、平素から自分を社会から遠い存在としてとらえるのではなく、今から社会の構成員だという自覚を高めていかなければならないと思うのです。




(続)「多様性」は飾りではない

2021年10月23日 08時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ
昨日のブログでは、日本での「多様性」尊重は、「個」が自立せず、周りとあわせる同調圧力がはたらき、実現が難しい。

また、ちがいからくる軋轢を乗り越える覚悟がないと実現が難しいと書きました。

さらに加えて、多様性を尊重するためには、マイノリティを排除しないような法の整備や制度の充実をすすめ、社会のしくみを変えていくことも必要です。

なぜなら、法律を制定するという社会のしくみが、人と人の関係を変え、人と人の関係が変われば、意識や感覚が変わります。意識や感覚が変われば基準が変わるからです。

たとえば、セクハラが以前の日本社会では「当たり前」のように行われていました。

たとえば、飲み会の席で、男性が女性に必要以上に近づき、身体接触があっても「酒の席だから」と許されていました。

しかし、1986年に男女雇用機会均等法が施行され、男性と女性の関係がちょっと変化しました。

その後、1999年に改正され、2007年の新しい男女雇用機会均等法となり、2020年にも改正されました。

その結果、男性と女性の関係や事業主と女性の関係は大きく改善されました。

そして人びとのセクハラに関する意識が高まり、感覚が鋭くなりました。

よって、「それはダメ」と判断する基準が変わったのです。

日本での「多様性の実現」には、
①人びとが個として自立すること
②軋轢を乗り越える覚悟をすること
③法や社会のしくみをととのえること
などが不可欠だと、わたしは考えます。

実際に作ってみた カボチャのランタン

2021年10月22日 15時44分00秒 | 教育・子育てあれこれ
アメリカでのハロウィンの夜には、仮装した子どもたちが近所の家を訪れ、「Trick or Treat」と声をかけます。

おとなは「Happy Halloween」と答えて、キャンディやチョコレートのお菓子を子どもたちにあげます。

カボチャのランタンは「ジャック・オ・ランタン」といいます。
善行をしなかったジャックは悪魔をだましたので、魂は鎮魂せず、さまよう魂になりました。カボチャ(カブ)を切り抜いたランタンに明かりをともしてさまよい歩いたというエピソードがあります。

カバー写真のカボチャランタンは、美術部の中学校がつくりました。

日本でも、おもに西日本の一部の地域では亥の子まつりが10月頃にあり、子どもが地域を練り歩き、各戸を訪ねるとお菓子がもらえるというハロウィンに似た風習が残っている地域があります。
   

「多様性」は飾りではない

2021年10月22日 07時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ


働き方改革の面で、またとくに東京オリンピックの前後から、日本では「多様性」という言葉がよく使われるようになりました。

多様性は英語ではdiversityとなり、海外の国々では当然のごとく人びとに受け入れられている概念です。

性別、国籍、人種、障害のあるなし、年齢などさまざまなちがいに関係なく、多様な人を受け入れ共生するということが「多様性」であると解釈できます。

が、日本では、まだ言葉だけが先行していて、社会や人びとの意識や行動規範に浸透しているとは言えません。

2019年の世界経済フォーラムでの世界男女平等ランキングでは、世界153国のなかで、日本は121位と低迷しています。

例えば日本では、自分の信条や考えを貫き通そうとすると、軋轢が起こり、他者から攻撃やバッシングを受けることが多くあります。

それを如実に表したのが、新型コロナウイルス対策として「自粛」がみんなに求められるのに、その通りしない人は容赦なく悪口を書かれたり、石を投げられたりしました。

非常時ほど同調圧力が強くなり、「みんながやっているのに、なぜおまえだけがやらないのだ!」というトーンで攻撃されます。

個人が自立しているとは言いがたいのです。
こんな実情なのに、多様性という言葉を聞いて、「それ、いいね」「時代のトレンドだね」(と言ったかどうかはわかりませんが)というように軽々しく使われれるのが日本です。

日本で多様性を浸透させようとするなら、まずは一人ひとりが「個」として自立して生きていなければ、多様性は実現できないのではないかと思います。

子どもの世界でも、学校のなかでまわりとちがった行動をする子やがいじめの対象になったりすることがあります。

外国にルーツをもつ子にかかわらない、無関心をよそおうクラスメート。グループのすることに外れることをすると、口をきいてくれなくなる友だち。

わたしは子どもを責めるつもりはありません。これは多様性を認めない大人社会の反映であり、大人の縮図です。

多様性とはそれほど簡単なことではありません。

多様性は「わたしとあなたはちがっている、ときには利害が対立することもあるでしょう。それでも、いっしょに生きていこうよ」という意識と態度であり、そこにはそれ相当の覚悟がいります。

「あの人、KYだ。まわりの空気を読まないよ」と嘲笑する価値観に多くの人が追随する日本の社会、集団、グループ、仲間内の中で、自分だけが突出しないように多数派の考えや意見に自分を合わせる人間関係にしばられる傾向が強い日本。

その日本で多様性が保障されるのは難しいと、わたしはつくづく思います、

社会でも、はやり言葉のように「ダイバーシティ推進企業」のようにウリにするが、内実が伴っていない場合も多いのではないかと思います。

(次回に続く)

ヘルプマークを付けている人には、まず声かけを

2021年10月21日 06時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ

社会には、他者から「助けてほしい」とか「手伝ってほしい」など配慮を求める人がいます。

しかし、その人がたとえば白い杖をついていたり、車いすに乗っていると、外見だけでわかるので、「手伝いましょうか?」と声をかけることが可能です。

でも、妊娠初期の女性で、混んでいる車内で立っているのがしんどくても、他者からすればわからないので配慮をもらえないことがあります。

重篤な心臓病の人でも、外見だけではわかりません。

また、当人にしても「ちよっと席を譲ってください」とはなかなか言いにくいこともあるかもしれません。

そんなとき、このヘルプマークをつけていれば、周りの人に助けてを求めていること知らせることができます。




困っているときはお互いさまです。

ヘルプマークを見て、
「なにか手伝うことはありますか?」
「なにかお困りですか?」という会話に発展することがあります。

わたしは校長のとき、福祉の仕事についている保護者から、このヘルプマークが印刷してある啓発用のポケットティッシュを全校生徒分いただきました。

全校朝礼で、その趣旨を話して、各クラスで学級担任から生徒に配ってもらいました。

当時はまだヘルプマークのことを知らない生徒がほとんどでした。

生徒たちはうなずきながら聞いていました。

ヘルプマークを見かけたら、まずはその人に声かけをしたいと思います。



  




ワクチンパスポートの導入は慎重に

2021年10月20日 07時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルスワクチンの接種を受けた人に公的な証明書(ワクチンパスポート)を発行し、様々な規制を免除しようとする動きが世界的に広がっています。感染を抑えながら経済を回すためです。

しかし、いまでさえ同調圧力が強い日本で、誰が接種済みで誰が未接種なのかを「見える化」すると、人びとを分断する危惧があります。

①周囲から「なぜ接種を受けないのか」と問われる(責められる)。尋ねる側に悪意はないこともあるが、持病があり接種を受けられない、病気のことを周囲に知られたくない人もおり、プライバシーの侵害にあたる可能性があります。

言う側が「差別する意図はなかったが、結果として傷ついたのならお詫びをする」というのが常套文句ですが、悪意があろうとなかろうと、言われる側が嫌がり、傷ついているのは差別につながります。

②企業では接種を従業員に強要する、接種しないからと解雇に動く心配があります。

実際に大学や専門学校では、接種を受けないと「実習や技術実習を受けさせない」、「対面授業に出席させない」と言われた学生がいます。

人には自己決定権があるのです。

③職場で未接種であることを周囲に広められた例があります。またすべての職員の接種の有無を一覧表にして掲示した医療機関もすでにあったと聞きます。

中小企業へは、取引先の大手企業から「非接種の社員が誰かを知りたい」という照会がありました。

ここまでくると、接種していない者は偏見や差別の対象となります。接種の有無といった個人の情報は慎重に扱われるべきです。


「海外ではもう導入していますから」と、既成事実をあげ、導入を正当化するならば、それも間違っています。

日本では、新型コロナウイルスは誰でも感染するのに、日本では感染者が差別される事案が多発したからです。

その日本という国で、ワクチンパスポートの導入を拙速に進めると、またあらたに傷つき、苦しむ人が出ます。

ワクチンを打ったら感染しない、感染させないとして、感染予防としてワクチン接種を証明する合理性があるのか。

ワクチンを打つという医療行為を、経済を回すための手段に利用することが適切なことなのか。

どんな弊害が生じるかを慎重に検討して、パスポートの導入を検討すべきだと思います。

重いものは捨てる

2021年10月19日 08時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ


肩書きにこだわる人がいます。

たとえば、「団塊の世代」の人が会社を退職して、地域のボランティア活動に参加するとき、なかには現役のときのような「肩書き」がないことを物足りなく、淋しく思う人がいます。

そこで活動をとりまとめる人が配慮して、退職した人に「第◯班班長」という名刺をもってもらうようにしたら、意欲をもって活動するようになったという話を聞いたことがあります。

おそらく、現役時代は肩書きを持って生きてこられた方かもしれません。

もともと肩書きがつくと責任が重くなるのが一般的です。

責任は英語のresponsibilityです。
この言葉はresponse(応える) + ability(力・能力)であり、責任とは「あなたをその状況の中で、最適の対応ができる人として任せます」という意味です。

したがって、肩書きを肯定的に捉えるのが望ましいのです。

でも、一方で、肩書きがあるだけで、重く、煩わしく感じる人もやはりいるようです。

詩人で彫刻家の高村光太郎は次の言葉を残しています。

重いものをみんな捨てると
風のように歩けそうです」(高村光太郎)



捨てるものは物だけとは限りません。

人間関係のしがらみ、肩書き、責任、高すぎる目標などを捨てることで、道が開けることもあります。

高村光太郎は、父の期待を受けて海外留学しましたが、そこで芸術の道に触れ、帰国後は独自の芸術活動を展開しました。

重荷から解放されることで、芸術の道が開かれたのです。

シングルマザーの悲鳴

2021年10月18日 07時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ


学校で1クラス35人程度の生徒と接していると、表面上は見えにくいですが中にはひとり親家庭、それも母子家庭の生徒が何人かはいます。

みんなと同じように学校で生活していますが、母子家庭の実態には厳しいものがあります。

コロナ災禍の影響は、その厳しさに拍車をかけています。

母親はパートタイマーとして働き、生計を立てます。近くに祖父母などの頼ることができる人がいない母親は、1週間に勤務する日数を減らして、家事や子育ての時間に充てます。

聞いた話では、手取りの月収は10万円以下も多く、食費も抑えなければなりません。スーパーの「見切り価格」の商品を買い、月2万円以下にします。

子どもの服は安いものを選んで買い、自分の服は一切買わない。

その上、高校進学になると母親の悩みは尽きません。

入学金や授業料の調達をしなければならない。奨学金を申請する。

このような経済事情を知って、中学生の子どもも我慢をしている。

いま、「成長」と「分配」に関わって、政策が論議にのぼります。

学校の教職員は、最前線ではないですが、子どもの様子を通して、あるいは保護者との会話を通して、厳しい母子家庭の状況の現場を知ります。

このような貧困が進行するいまの我が国の庶民の現場を知り、政策が本当に困窮している人に届くようになることを切望します。