箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

 学校での「新型コロナウイルス」学習

2020年09月30日 08時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルスに感染した人に偏見をもつ、差別する言動が学校で起こっています。

新聞やテレビのニュースでも、新型コロナウイルスに関して、差別や偏見という表現がよく使われています。

しかし、このとき「差別」と「偏見」とは何か、その違いを意識して使っている人は少ないのではないでしょうか。

この両者は違う性質のものです。

まず、「差別」「偏見」の前段階として、「ステレオタイプ」(きめつけ、カテゴリー化)があります。

たとえば、「秘密の県民ショー」のように、「愛知県民は、みんながみそ煮込みうどんが大好きで、いつも食べます」と一つのカテゴリーに愛知県の人びとを押し込みます。

じっさいは、愛知県の人びとのなかにも、讃岐うどんが好きであったり、大阪のきつねうどんのが好きである人がいるにもかかわらず「みんな」という言葉でひとくくりにするのです。

こうすることで、イメージが単純になり、他の人に伝わりやすく、あれこれ考えなくても簡単に判断し、行動でき、便利になります。

そしてこの「ステレオタイプ」に好感、あこがれ、嫌悪、軽蔑のような感情を抱くことが「偏見」です。

さらに、その「偏見」をもとに、接近、親近、忌避、排除などの行動が現れると「差別」になります。

つまり、「ステレオタイプ」⇒「偏見」⇒「差別」と、段階的につながっているわけです。

では、そもそもステレオタイプをつくらなければ、偏見や差別は起こらないのでないかという考えが浮かびます。

でも、それは不可能です。

カテゴリー化するときに、人びとは同時に自分が属する集団と属さない集団というすみわけを行っています。

たとえば自分の応援するサッカーチームが勝利すると、チームメートとファンが一緒に喜びます。

応援するアイドルが選抜入りすれば、ファンからアイドルへのお祝いのメッセージが発せられます。

これらのことからわかるように、集団に所属しているという安心感が個人の心の支えになるというプラスの面があります。

ですから、「カテゴリー化」はよいとか、よくないとかという問題ではなく、人間の生活には欠かせない自然な行為なのです。

ただし、この「カテゴリー化」は、往々にして、その集団に所属する人には所属しない人より好感や好意をもって接する傾向が生まれます。

逆に言えば、所属しない人を疎外する場合があり、外されるされる人にとっては脅威となります。

このようにして、ステレオタイプは偏見とか差別につながりやすいのです。

だからこそ、個人は一人ひとりが自分の中にある偏見や差別を見つめ、「偏見をもたない」「差別しない」という意志を明確に持ち、行動することが必要になるのです。


さて、新型コロナウイルスにかかわる偏見や差別が起こっているのをどう防止するかという学校の課題に話を戻します。

「新型コロナウイルスには、だれもが感染する」という正しい知識を教師が児童生徒に伝え、「偏見をもたない」、「差別はいけない」と教えることは大切です。

子どもは正しく知ることによって考え方が変わることがあります。

それにくわえて、教師の平素の態度やおこないが大きな影響力をもっています。

転入生に「ブラジルから来たのならサッカーがうまいんだろ」とクラスの子が言ったとき、すかさず教師が切り込んでいけるか。

「ブラジルの子は、どの子もサッカーをするのだろうか?」と問い返すことなく、黙って聞いている。

子ども間のいじめを見て見ぬふりをしている。

特定の気に入った子だけをえこひいきする。

それらはすべて教師が行う差別です。

こんな態度や行いをふだんしておきながら、「新型コロナウイルスについての偏見をもったり、差別をしないようにしましょう」と言っても、児童生徒には届きません。

教師の言葉が子どもに共感され、支持されるのは、「せんせいはいつも私たちみんなを大切にしてくれる。そんなせんせいが言うことだから」という受けとめ方を子どもがしてくれるときです。

教師のふだんのおこないや態度が新型コロナウイルスに関する偏見や差別をクラスからなくしていくことにつながります。

「文脈」のある生き方

2020年09月29日 08時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ
深い考えや人の生活や行動に影響を与えるものの見方などは、チャットやSNSでは伝わらないと私は考えます。

たとえば、ツイッターに並んでいるメッセージを読んだり、LINEでのやりとりを見ると、単語や短い語句がほとんどです。

そのやりとりには、「文脈」がないのです。

この場合の「文脈」とは、その言葉が生み出されるその人の生き方や生きる姿勢の流れというものでしょうか。

そこから織りなされた言葉や文章は、深い考えに裏打ちされていたり、人の考えや行動に影響を与えるのです。

ところが、ネットの場合の人と情報の出会い方は、検索から関連するWEBページを選び、知りたい情報を「はい、どうぞ」「こんなのもありますよ」と集めてくれます。

自分で得たい情報を探す必要がなくなりました。

そして、この情報には、なぜその情報なのかという文脈はないのです。

人の生き方や生きる姿勢とはでてこない無味乾燥な情報を手に入れても、その人の心を動かして行動にいたらしめるものにはなりません。

「文脈」のない生き方は心許(もと)ないものです。

「将来困らないように」とは・・・

2020年09月28日 08時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ

最近の国の教育政策は、今後の「多様な共生社会」で活躍したり、貢献できる人材を育成する点に学校教育のねらいを置きすぎている傾向を、私は感じています。

「多様な共生社会」とは、外国人や外国につながる人が日本国内で増えていく社会を見据え、価値観や行動の様式のちがいをおたがいに受け入れ、どの人も自分らしく生きることができる社会です。

その実現が約10年後になると考えられていますが、10年後の社会を生き抜くためには、ちがいに柔軟に対応する必要があります。

そのために学校教育で、子どもが10年後に必要となる力を身につけることが課題となります。

たとえば、情報を自分で集めたり、思考力を深めたり、他者に自分の考えを伝えることができたり、話し合って両者の間に合意をつくるなどの力が必要です。

ICTを活用した「GIGAスクール」やプログラミング教育などを進めなければなりません。

こんなとき、教師がよくいう言葉が、「将来困ることのないように」です。

数十年前の学校教育はもっと単純で明快でした。基礎学力をつけ、友だちと仲良くして、助け合って生きていく。

しかし、今の子どもの学習内容は高度化して、複雑化しています。

これについていけない子どもがこぼれ落ちないようにしなければならないのです。

家庭環境や教育環境が異なる子どもたちを受け入れ、どの子にも一定の学力や社会参加力をつけていくことが、公教育の使命です。

教師が「将来困ることのないように」という言葉を言う前に、「いま困っている子の事実が見えていますか」と問いたいのです。

学校が複雑になりすぎて、子どもを苦しめる場であってはならないのです。いくら時代が変わろうとも。

保育士は「エッセンシャルワーカー」

2020年09月27日 06時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ
乳幼児を預かる保育所、幼稚園などでは、保育士・保育者と子どもまた子ども同士のかかわりあいについて、三密を避けるのが難しいという、仕事上の特性があります。

その状況の中で、保育士・保育者は子どもの過ごし方について、その方法を模索して、奮闘しています。

先般、子ども環境学会が、「コロナ禍状況の保育所・幼稚園・認定こども園における休園・登園自粛への対応と子どもたちへの影響に関する調査」の中間報告を出しました。

それによると・・・
〇室内の生活の工夫について
・「室内の集まりの座り方を変える」が73.6%。
・「食事の時の会話の禁止」が19.8%。
・「保育室に間仕切りを設ける」が12.8%。
〇ソーシャル・ディスタンス(フィジカル・ディスタンス)について
・「保育士の声かけで適宜対応」が53.1%。
・「あまり意識していない」が23.1%でした。
〇保育者の子どもへのスキンシップについて
・「必要に応じて対応」が64.8%。
・「あまり意識していない」が23.1%。

それらのことから、座り方の工夫・配慮はしており、必要に応じて子どもへの対応を適宜、柔軟に行っていることがわかります。
また、新型コロナウイルス対策で
「保育者が疲弊している」が70.7%。
「対応に追われ職員の負担が増加している」が57.9%。

以上の結果から、新型コロナウイルス対策として、安全に配慮している。

なおかつ、子どもの状態にあわせながら、この時期に必要な経験を育ちでこの時期に必要な経験をできるように対応している、保育者の姿がわかります。

その一方で、保育者の疲弊が大きいので、社会がこの実態を理解して、新型コロナ感染防止でも簡単にストップするわけにはいかない仕事に従事する人びと、つまり「エッセンシャルワーカー」としてサポートしていく体制が必要なのです。

子育ては「予定調和」しないもの

2020年09月26日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ
飛行機に乗ると、到着地の天候だけでなく、「予定どおり〇時〇分〇○空港に到着予定です」とCAさんがアナウンスしてくれます。

新幹線や電車に乗ると、「終着の〇〇駅には、〇時〇分に到着します」と車掌さんが車内放送してくれます。

忙しい現代人ですから、予定通りに着くことは、かなり重要です。

時間刻みで仕事をしている人も多いから、なおさらです。

いまの人びとは、「予定通り」「時間通り」「スケジュール通り」であることを、重く考えます。


あるとき、私は学校にイランの人に講師として来てもらい、生徒たちにイランの文化について話してもらう授業を計画しました。

事前の打ち合わせでその女性に直接会い、
「学校には、当日13時にお越しください」と言いました。

その人は、「はい、わかりました」と返事されました。

ところが当日、13時前から待っていたのですが、いっこうにあらわれず、13時半ごろ来られました。

ある人に聞いたら「イランでは時間の感覚がルーズなので、それぐらいの遅れはありますよ」ということでした。

私は、「イランの人は・・・」と国に分け、ひとくくりにして、「その国の人は・・・」とステレオタイプ的に「みんながそうだ」と特徴づけるのは、まちがっていると思います。

人は国ではなく、人は多様でそれぞれだからです。

ただ、わが国の場合、「日本人はみんな・・・」というつもりはないのですが、多くの現代人にだいたい共通しているのは、「時間通り」「計画通り」をかなり重く考える点でしょう。

自分の人生を思うようにコントロールしようという思いが強すぎると思います。


そのため、仕事はもちろん、人生や生き方にも最適の選択をして、失敗せず、ねらいとすることにたどりつく。

そのことに価値を置き、そんな意識の強い人が多いように思います。

悪いことではないとは思います。でも、時間通り、予定通り、計画した通りにものごとは進みません。

人生も同じで、なかなか思い通りには行かないのです。


子育てや教育も同様です。子どもはなかなか大人が思うようには育ってくれません。

思い通りいかなくても、「まあ、しかたないか」と思い、子どもの姿を限定して育てないことです。

限定しすぎると、思い通りにいかないことが多いので、子育てが楽しくなくなってしまいます。

人生や生き方を限定してしまわないのがいいと思います。

人生は、予定調和するよりも、予定調和でないからおもしろい。子育ても同じだと思います。

子どもの声を聴く

2020年09月25日 08時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルスで学校が約2か月にわたり長期の休業をしました。

6月に入り、学校が再開したのちに、6月中旬から7月下旬に、7歳から17歳の子どもに対して、また7歳から17歳の子どもがいる保護者に対して、国立成育医療研究センターが調査を行いました。

その結果によると、約72%の子どもが、休校による何らかのストレスを感じていました。

「友だちとの関係で悩んでいることを誰かに相談しているか」では、小学校高学年の6%、中学生の8%が「相談できる人はいない」と回答しました。

この結果から、一定程度の子どもが悩みをもったまま学校生活を送っていることがわかります。

保護者に対する質問では、「子どもに好ましくないかかわり方をした」について、未就学児の44%、3~5歳児の44%、小学校低学年の70%、中学生以上34%の保護者が「感情的になり怒鳴った」という結果でした。

この結果はある程度予想できたことではありますが、やはり長期にわたる休校は、子どもにとってきついものであったことがわかります。

「コロナのことを聞くと泣きそうになってしまう」(小学校高学年)
「友達と遊ぶと先生から怒られて怖い」(小学校低学年)
「自分で進める課題が多すぎて終わらない」(高校生)

この子たちには、学校の教師からのサポートが必要ととらえなければなりません。

おとなでも、緊急事態宣言以降、自由に出勤したり外出ができなくなり、ストレスがたまるものです。

先日9月19日(土)~22日(火)の連休中は、たくさんの人が外出して街へ出たり、観光地へ向かいました。

これも、自粛後のストレス発散の意味もあったのではないでしょうか。

子どもも大人も、やはりなんらかの形でこのコロナ禍の影響を受けています。

それはわかるのですが、アンケートの記述欄には、子どもたちからのこんな声が寄せられていました。

「飲み屋さんで大人たちが騒いでいるのを見ると、私たちがふだん学校でやっている対策はなんだろうなと思う」(中学生)

「テレビのニュースで、『子どもがずっと家にいるのがストレス』と言っている大人を見た。目の前で自分の存在を否定されるとつらい」(中学生)

中学生は、ふだんから大人の様子をよく見ています。大人にとっては耳の痛い「声」ですが真摯に受け止めたいです。

中学生はとくに感受性が鋭く、傷つきやすい年齢でもあるのです。私たちはもっと子どもの声に敏感になる必要があります。

ナナメの関係を求めて

2020年09月24日 09時21分00秒 | 教育・子育てあれこれ
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、2月からの累計で「コロナ倒産」が500件を超えたそうです。

飲食店をはじめアパレル関係の倒産が多いそうです。

国は、債務の支払いに対して保障をしましたが、固定費と言われる家賃や機材のレンタル料に対する対策が後手になり、5月にずれ込みました。

その遅れが、倒産件数を大きくしたと報道されていました。

「家賃の支払いは、国土交通省の担当だと思っていた」と、経済産業省は弁明しました。

私は、このコメントを聞いて、また行政の縦割り組織の弊害が出たと思いました。

私も少しだけ教育行政を経験しましたが、この悪しき慣習を実感しました。

課がちがうと、隣の課が計画している事業や施策を職員が全く知らないというのは、珍しいことではありません。

さらに一つの課の中では、上司から部下へというタテの関係が徹底しています。

私は、学校に長くいましたが、こちらはどちらかと言えば、校長・(副校長)・教頭以外の教職員は全てヨコの関係になっています。


これらのタテの関係とヨコの関係には、必ずといっていいほど利害関係が伴うものです。

タテの関係については、上司の命令・指示には自分の意思とは別に従わなければならない。

ヨコの関係についても、KYに代表されるように、同僚同士は、場の空気を読まないとたたかれる。

両方とも、多かれ少なかれ利害関係が絡んでくるのです。

そこで、今の時代にあう人間関係は、ナナメの関係だと、私は考えています。

ナナメの関係は、強くはないけどつながっていることが特徴の人間関係のことです。

たとえば、ボランティア活動はナナメの関係になっている場合が多いです。

震災ボランティアは、自分の利害関係に関係なく、困っている人を助けたいという純粋な発意で活動します。

大学生が学習支援ボランティアとして、子どもの学習を教えたりします。少しでも自分が役に立てたら、というたけの思いで活動します。

それらの活動は、利害関係とは別のところに成立します。

いま、地域の自治会や町内会に入りたがらない人は、タテの関係やヨコの関係にウンザリしているのが一つの理由かもしれません。

絆はつながりを生みますが、強すぎるつながりは、相手をしばりつける側面をもっているのです。

そこで、町内会・自治会で活動するが、ほかの日には市民グループやNPOで活動するという参加の仕方が、強くはないが、メンバー同士がつながっているのです。

一つだけに所属するのではなく、いろいろなコーディネートを受け、つながりあっているというナナメの関係が、今の時代に必要な人間関係かと考えます。


芸術の光を絶やさない

2020年09月23日 08時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ
新型コロナウイルス感染におびえ、台風の勢力が巨大化し、いずれはやって来ると言われる東南海地震、南海地震、東海地震におののき、人びとの最近の気持ちは休まるときがありません。

こんなときは、心の余裕も失いがちになります。

感動という感情は、心に余裕があるときにこそ生まれるのでないかと思います。

相田みつをさんは、「感動とは感じて動く」と解釈されています。

心に余裕がないときには、心がギシギシに張りつめ、一杯になっているので、何かを感じたとしても、動きがとれないのかもしれません。



さて、芸術、つまり音楽、演劇、ダンス、美術などが感動を伴うのは、心に余裕があり、その素晴らしさが入りこむスペースがあるからでないかと思います。

そして、その感動は個人だけのものではないのです。

同じ芸術に感動している人が、自分の周りもいる。そこで、共感が生まれます。

その点で、「自分はひとりではない」という思いにもなれるのです。

あくまでひとりだけの体験なのに、同時に他者とつながっていることを実感できるのが劇場の最大の魅力です。

これが、劇場やホール、美術館で芸術を鑑賞する意味であり、醍醐味ともいえるでしょう。

どれほどオンライン化やデジタル化が進み、リアリティが高まったとしても、生で感動する空間には及ばないのではないでしょうか。

学校教育に音楽や美術、図工の教科があるのも、生で感動する基本的な資質や素養を育んでいるからです。





そこで培ったセンスは、生涯にわたり芸術を楽しむ基盤となります。

この学習があるからこそ、私たちは大人になっても劇場や美術館に行ってみようとするのです。

この度、新型コロナウイルスは、人びとからその感動を享受する機会と空間をなくしてしまいました。

いま、少しずつですが、劇場が感染防止対策をとりながら再開しています。

ウイズコロナからアフターコロナに移行していくのにまだ時間はかかりそうですが、生で味わう芸術の光を絶やしてはならないと切に思います。



中学生との会話の工夫

2020年09月22日 11時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ


中学生は思春期の子です。

この年頃の子どもは、親と会話することをめんどうに思う子も多くなります。

「ウン」、「アー」、「ベツに」・・・。

親が何を言っても、何をきいても、こんな返事しか返ってこなくなる場合もあります。

親子の会話が少ななりがちです。

そうであっても、親と子の会話はあったほうがいいです。

そのためには、親が質問のしかたを工夫するのです。

よく、親がわが子に聞く話し方が、「きょうは、学校どうだった?」ではないでしょうか。

答えるのが面倒な子は、「フツー」「とくに」「いつもと同じ」などと少ない言葉の返事を返そうとします。

この質問は、子どもがちょっと考えて答えなければなりません。

「友だちのことだろうか」
「勉強のことを聞いているのか」
「部活のことだろうか」・・・。

いろいろと考えて答えなければならないので、むずかしい質問の部類に入ります。

そこで、イエス・ノーで答えられる質問をします。

「きょうのご飯はハンバーグにしようと思っているけど、どうかな?」

すると、「うん、いいよ」

これで十分です。

「えー!」と言ったら、「それじゃ、何がいいかな?」

「焼肉」

「ハンバーグは、あと焼くだけだから、焼肉は明日にするね」。

という会話で十分です。

自分から「これが食べたい」という希望は、自由に親に言える。
すぐに希望通りならなくても、次の日にはそうしてくれる。

このように、子どもが思えれば親子の会話は十分に成立しています。

日常会話でも、思春期の子が相手であり、答えるのを面倒に思う子には、ちょっとした工夫が必要です。

生きづらさを感じない社会

2020年09月21日 20時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルスに感染した人が謝罪メッセージを発したり、謝ることについて、その是非が問題となっています。

自分が感染したことで、仕事を休むことになり、誰かが自分の仕事をやってくれて申し訳ない。周りの人にも感染のリスクを与えることになる。

そういう意味で、自分が迷惑をかけることに対して謝るという考え方をすれば、謝りたいという気持ちは理解できます。

一方で、いまや感染経路がわからずに、感染した人がけけっこういます。
できるだけ、三密を避け、マスクをしていた人でも感染する人がいます。

つまり、新型コロナウイルスには、気をつけていても、誰もが感染する可能性があります。

そうなると、病気になることを謝る必要はないという論理・考えになります。


あるいは、新型コロナウイルス感染差別という観点で見るならば、立場的には感染した人は差別を受ける側の「被害者」になりうるのです。

この社会のなかで、差別の被害者が、他者に謝ることはあり得ないことです。
このような論理が成り立ちます。


この問題は、一概に、「謝るべき」/「謝るべきでない」と二分法で分けられない問題です。

そもそも人は、理屈では納得できても、感情では納得できないことも多いものです。

だから、「謝りたい」と感じるのも、「謝る必要はない」と考えるも、ケース・バイ・ケースであるし、人それぞれだと私は思います。


それよりも、私は新型コロナウイルス感染が「加害・被害」の立場という文脈だけで語られることこそが問題であると考えます。

それにより感染した人が、「他人にうつす存在」として加害者のように周りから攻撃されることになっているのです。

そうなると、「病気もこわいけど、世間がこわい」という恐怖になってしまいます。

「職場の感染者第1号はいやだ」とも思ってしまいます。

でも、そんな職場環境や社会は、どの人にとっても働きにくいし、生きづらさを感じるものです。

「そう、検査で陽性だったのね。早く元気になってね、仕事のことは心配しないで」

このように、相手を受け入れ、自分も周りから受け入れられるグループ・職場・社会であることが、誰にとっても生きやすいのだと思います。

 感染症から子どもと保育士を守る

2020年09月21日 08時20分00秒 | 教育・子育てあれこれ


小さな子どもは、おとな(親、保育士、教師)との接触をしながら、人への絶対的信頼感を育んでいきます。

とくに赤ちゃんや0歳児の場合、泣くとおとなが近づいてくれて、あやしたり、おむつを替えてくれたりします。

このおとなのかかわりあいで、教育的には「愛着関係」を紡ぎ、赤ちゃんや幼い子は、自分を受け入れてくれるという、おとなへの信頼感を高めていくのです。

この点からだけいえば、とくに幼い子の子育てでは、いわゆる「濃厚接触」は避けて通ることはできない行為なのです。

とくに保育士の場合は、乳幼児とのスキンシップが多くなり、それが保育士としての「エッセンシャル業務」といっても言い過ぎにはならないでしょう。

その観点から、新型コロナウイルス感染症防止のため、子どもとの接触機会が失われることは大きな問題です。

保育士の多くの人の目下の悩みは、もし自分が感染していれば、子どもたちに感染を広げてしまうという不安です。

しかし、いま行われている新型コロナウイルスの検査は、感染が疑われる人や濃厚接触者を追跡して集中的に検査するのが主流です。

このやり方は、感染拡大やクラスター発生の防止に大きな役割を果たしていますが、「後追い検査」の範疇に収まるものです。

つまり、乳幼児への感染を未然に防ぐ対応策ではないのです。

まして、いまは全国的にも、無症状の人は経路不明の感染者は増えてきています。

保育を受ける子が感染症から十分に予防されているかは、はなはだ心もとないのです。

そこで、保育者や養育者が安心して子どもと接触できるよう、関係者が定期的に検査を受けられるよう、日頃乳幼児と接することを仕事にしている人たちの定期的な検査体制を充実させるべきです。

抗体検査も行い感染状況の事前確認をし、PCR検査を定期的に行う体制を設けるべきです。現状では、PCR検査を希望する人は高額な費用を負担しなければなりません。

保育士は仕事で業務を行っているのだから、自己負担をしなくて済むような(自己負担を低額に抑えるような)財政的支援を公費負担で国や自治体が行うべきです。

時代がいくら変わろうとも、子どもを育てる上で、人と人のスキンシップの大切さは変わらないのです。

乳幼児期のスキンシップは、愛着関係を育み、子どもの健やかな人格形成には欠かせないのです。

新型コロナウイルス感染防止対策の中で、子どもの発育・成長を保障するという視点が抜けているように、教育関係者として心配になります。

こう話すのか!

2020年09月20日 06時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ

中学生になると、言葉や言い回しを自らに蓄え、人前でかなり話すことができるようになります。

また、相手にわかるように話すことができるようになります。

とはいっても、そういう子は一部であり、よくテレビで中学生や高校生がインタビューを受けて話す場合、なかなかちゃんと話せないなあ、と聞いていて感じることが多いものです。

やはり、10代の子どもがちゃんと相手に伝わるように話すことはたいへんなことです。

でも、子どもは話す機会が多いほど、頭の中が整理されてきます。その子のもつ語いは増え、知識と知識をつなげて、順序だてて話すことができますし、使う言葉も豊かになっていきます。

ですから、発達途上の子どもに対して大人は「子どもの話すことだから」と「上から目線」で眺めて聞くようなことは慎みたいものです。

子どもが話していて、その話が続かなくなったら、5W1Hで「何が?」とか「それは誰が?」とか「いつのことかな?」、「どのようにそうしたの?」、「どこで?」、「なぜ?」など質問を入れていきます。

すると、「ああ、こう話せばいいんだ」と学んで、話せるようになってきます。

学校での生徒の問題は、先生とその生徒の関係にあるのです。

また、その話し方の程度は、よく話せるまわりの子どもと比較するものではありません。

あくまで、その子自身が、たとえば3年前の自分と今の自分と比較して、「ここまで話せるようになった」と自分が感じるものです。



年長の子を育てる秘訣

2020年09月19日 13時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ
いまの時代は、少子化が進み、きょうだいの人数はさほど多くはないですが、きょうだい3人の場合を考えてみます。

ふつうお母さんは、「うちの家では、きょうだい3人に分け隔てなく、公平に接しています」と言われます。

たしかに、気持ちではその通りでしょう。

でもお母さんが子どもにかかわる時間は、下の子に手をかける時間がどうしても長くなってしまうのではないでしょうか。

いくら公平接しようとしても、これは仕方のないことです。

しかし、受けとる側のいちばん年長のお兄ちゃんやお姉ちゃんからみたら、やはり公平でないと感じるでしょう。

「弟や妹ばかりが、かわいがられている」と思うかもしれません。

親が、かりに「小さいときはしかたがないのよ。お兄ちゃん(お姉ちゃん)は、3歳までひとりっ子だったのよ。弟や妹より、あなたにどれだけ手をかけてきたと思ってるの」と説明(弁明)します。

でも、それはあまり意味がありません。

子どもはそんな昔のことは覚えていません。子どもにとっては、終わったことよりも「いま」がすべてであるし、大切なのです。

こんなとき、上の子が言ってもらってうれしいのはどういう言葉でしょうか。

もちろん上の子にもプライドがありますので、下の子のようにベッタリと手をかけてくれるのを望んでいるのではないのです。

でも、なにか言葉がほしいと思っています。

そんなとき、「一人でもできるから、たのもしい」とか下の子に「お兄ちゃん(お姉ちゃん)を見習いなさい」と言ってくれれば、本人はうれしいでしょう。

このように、お母さんはちょっとだけ、お兄ちゃん(お姉ちゃん)の「味方」になると上の子も救われたような気持ちになります。

その意味で、上の子には少し「特別扱い」をするのがいいようです。

こうなると、上の子は下の子にやさしくなるのです。

これは、上の子がいつも不公平感を感じているときは、「お母さんが下の子にやさしくしているのに、なぜ自分までその上やさしくしないといけないの」と思うからかもしれません。

肯定的な伝えかた

2020年09月19日 07時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 小学校のローカには、子どもへの呼びかけ文がよく貼ってあります。
 
「廊下は走りません」。
 
学校での独特な言い回しですが、私はこれを中途半端な言葉だと思います。
 
おそらく「廊下を走ってはいけません」という言葉が、子どもにとって、きつい口調になるので、やわらかな言い方にしているのでしょう。
 
しかし、呼びかけの言葉にして、主語があいまいで、ふだんの会話で言わない表現なのでしっくりときません。
 
かといって、「廊下を走ってはいけません」とか「廊下を走るな」は、禁止や否定のメッセージをもっています。
 
そこで、肯定的に伝えるにはどう言えばいいでしょうか。
 
「廊下は歩きましょう」なら、子どもは素直に受けとり、その通りにする場合が多いのではないでしょうか。
 
このことは、大人が子どもにどう声かけをするかにも関係します。
 
「携帯電話を学校にもってきてはダメだ」よりも「携帯電話は家で使いましょう」が肯定的表現になります。
 
親もよく否定的表現を使います。
 
「勉強しないとダメだ」と言うのは、たぶん「いい点をとってほしい」という願いとともに、親自身が安心したいと言う気持ちの両方から、発せられのです。
 
このことは、とてと自然な感情です。
 
ただ、ここで考えるべきは子どものためと親の安心のための両方を満足させ、否定的でない言葉を使わずに済む方法があればいいのです。
 
「勉強をしようよ」と、肯定的に言う方が、子どもは素直にうけとり、学習に向かいまさす。

地元に泊まる修学旅行

2020年09月18日 08時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ

みなさんは、学校時代の修学旅行が、一生の思い出として、自分史に残っている人も多いのではないでしょうか。

中学校は、多くの学校が春に修学旅行を行います。

秋に行う学校もありますが、秋は文化祭や体育祭(運動会)をやる場合が多く、また中学3年生には高校受験が近づいて来るので、春(4月~6月)の実施が多くなっています。

ところが、今年度は新型コロナウイルス感染防止対策による臨時休校が約2ヶ月続きました。

わたしの近隣でいえば、大阪府豊中市では全中学校が修学旅行を中止しました。

大阪府箕面市では、いちばん最初の中学校で数えて、23年間続いた春の沖縄修学旅行を今年度は秋に、飛行機を利用しない目的地に変更して実施となります。

そして、全国的に見れば、地元を見直す学習の機会として、行き先を変更する例もあります。

鳥取県の三朝(みささ)町の中学校では、5月の東京修学旅行(2泊3日)をやめ、県内の三朝温泉の旅館に宿泊して、夕食も地元の料理を食べられるようにしました。

保護者アンケートの「県外にも行かせたい」という声を受け、島根県松江市も行程に組み入れ、学生料金の活用で地元での修学旅行となりました。

修学旅行のスローガンは、「Go To 修学旅行 ソーシャルディスタンスだけど私たちの郷土愛は密!」です。

地元に住んでいれば、地元のホテルや旅館に泊まる機会は意外と少ないのかもしれません。地元を見直す機会にもなるかもしれません。

生徒たちからすれば、「東京にいけないのは残念だけど、友だちといっしょに修学旅行に行けるのはうれしい」。

中学生の修学旅行に対する気持ちや思いは、この言葉に尽きると私は思います。