箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

新たに始まる

2020年01月31日 08時45分00秒 | 教育・子育てあれこれ

早いもので1月も今日で終わりになります。

もう終わりだと思うのも、さあ始まりだと思うのも、どちらも自分です。

「もう、終わりだ」と考えるよりも、終わったからこそ、新しい月が「新たに始まる」と前向きに考えることで、停止していた思考が動き出すのです。

思えば、どこをスタートととらえるかで、ものごとはいかようにもなるのです。

旧暦では、2月の節分から年が変わると言われてきました。

新しい年が始まるのです。

日本のインターネット事情

2020年01月30日 07時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ


日本のインターネットを使う人々は、海外と比較して、特徴的な点がいくつかあるようです。

その特徴の一つは、「匿名性」です。

海外では、おもに実名を載せるSNSであるフェイスブックが好まれますが、日本では匿名性のSNSである、ツイッターに人気があります。

とくに10代では、絶大な人気があります。そして、日本ではツイッターやインスタグラムで、別々のアカウントを使い分けるのが一般的です。

さて、その匿名性ですが、匿名性が高いと、人は攻撃的になることが多くあります。

日本のインターネット空間は、匿名なので、他者に寛容でなく、厳しくなります。

有名人が、大きな災害時にプライベートな用事をしていたとわかる投稿をすれば、おびただしい数の攻撃を受けます。

「炎上」も同じで、誰かが少しでも悪いことをしてしまうと、容赦なく厳しい言葉で攻撃され、突き上げられます。

これは、日本人の考え方や行動が同質性を求め、異質なものは排除する傾向にあるからではないでしょうか。

異質なものに対しては不寛容であり、排他的で攻撃的であるという特徴を表しているようです。

また、匿名だからこそ、SNSに不適切なことを投稿してしまいがちです。

たとえば、アルバイトの人が、店の冷蔵庫に入って遊んでいる動画により炎上しました。

それ以来、バイトの人が投稿する動画が、お店の経営にまで甚大な影響を与えかねないという「バイトテロ」がしばしば起きました。

インスタのストーリーズに投稿した動画は24時間で消えますが、その動画が保存され、ツイッターで拡散されて炎上することもあります。

インターネットを利用して、情報を流す場合には原典や全文をよく読み、そのうえで自分で考えて判断するというリテラシーを身につけなければなりません。

(月刊『教職研修』2019年12月号「ネットに翻弄されないためのメディアリテラシー」から部分的に引用)





誰一人も置き去りにしない

2020年01月29日 06時53分00秒 | 教育・子育てあれこれ


2015年9月、国連サミットで持続可能な社会づくりが提唱されました。

その中で、2030年をめざし、世界がキャッチフレーズにしている目標が、「誰一人置き去りにしない社会」です。

置き去りにされなければ、次世代の誰もが平等に、尊厳と希望を持って生きられます。

そういう社会が次々に循環します。持続可能な希望の未来は、私たちが目指すべき約束のゴールでもあります。


誰もが置き去りにされない、世代をこえて頼りあうことのできる社会を、あと10年かけて求めます。

わが国で言えば、虐待、貧困、格差社会の顕在化が大きな問題となっています。

子ども食堂はいま全国に3700余り広がっています。この3年で12倍の急増です。

箕面にいると見えにくいですが、日本ではいま、子どもの貧困は深刻さを増し、家庭で食事を摂れない子が増えています。

その子どもたちに食べ物を提供して、居場所としての人間関係で支えるのが子ども食堂です。

また、子ども食堂は、例えば子連れの親たちが子育ての手を休めにやって来る場でもあります

一人暮らしのお年寄りが自作の料理を持ち寄る場にもなっています。

中学生には、誰もが置き去りにされない、世代をこえて頼りあうことのできることの大切さを学習してほしいと思います。

また、その実践力もつけてほしいと願うのです。

レディ・ガガは言いました。

もしあなたに影がないなら、光の中にいないということ。

自分でもなくしてしまいたい短所や欠点があっても、それに光を当て、自分の一部分にしてしまうのは、世代を超えて助け合い、頼りあう人間関係であるのです。

そのような学習をしてほしいと願う今日この頃です。



高校生への大人のかかわり

2020年01月28日 06時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ


昨日のブログに書いたように、中学生には、大人の「見守り」が必要です。

これは言い換えれば、「いつでも話を聞くよ」という、親・教員の態度です。

中学生は、基本的には自分たちで問題を解決しようとします。

ですが、子ども本人に任せて横で見守ってくれている大人がいるという安心感があることで、自分が出会った問題(学習上の課題、友だち関係のもめごとなど)を、自分の力で解決しようとします。

では、高校生はどうでしょうか。

中学生より、さらに大人に近づいています。

だから大人は見守ってくれているというより、ふだんは子どもに背を向けているが、「いつでも振り向いてくれる」という関係でないかと思います。

「私は高校生活での問題を解決できる」と信頼してくれているという大人(親・教師)の期待に応えようとします。

こんなとき「あの、お母さん(先生)」と声をかけられた段階で、親(教師)は振り向いて、子どもの話を聴くのです。

「どうしたらいい」とか解決策は述べる必要はなく、ただ聴くだけでいいのだと思います。解決策は子どもがきめていきます。

わかってくれている、信じてくれているという感覚が力になって、自分自身で解決していきます。

でも、子どもの成長を信じられない大人ほど、相手がもう高校生なのに、「こうしたら」と、子どもをコントロールしようとします。

思春期の頃から、ずっとこのように育ってきた子は、高校生になっても子どもは自分の力や自分自身も信頼できなくて、自信をもてないのです。

自分は無力で何もできないという思いでティーンエイジを過ごし、成人します。

または、大人の支配に徹底的に反抗して大人になるのかもしれません。

だから、子どもは「もう大丈夫、守ってくれなくても自分でできるから」「自分でやってみるから、ちょっと行きづまったときに聞いてくれるだけで十分」という気持ちで、子どもは何とかやっている。

こんなふうに大人は理解しておけばいいのでしょう。

しかし、この親の態度は、これに徹するのはたいへんなことだと思います。

でも、「聴くだけ」は、親にとっては寂しいかもしれません。教師にとっても苦行であるかもしれません。

でも、大人が大人として成熟する大切な役割であるのです。

 「先回り」よりも「任せる」

2020年01月27日 07時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私が学級担任をしていた頃にはこんなことがありました。

生徒同士のトラブルがあり、生徒たちを指導したあとで、親御さんに学校に来てもらったときのことでした。

「うちの子にもよくない点はあります。両方の子どもの話を聞いてもらい、ありがとうございました。
このようなもめごとが起こりましたが、これも二人にとってのなにかの縁だと思います。だから、お互いに歩み寄るところは歩み寄り、今回のトラブルはこれからの二人の友だち関係がよくなるように役立てたいと思います。
お互いの子にとっての学校生活がよくなるように、今後も指導をお願いします・・・」。



この親御さんは、当時の私よりも年上の人でした。まだ私にはわが子がいない頃で、その親御さんのお話を聞かせてもらい、その度量の大きさに感心しました。

同時に、親御さんのほうから逆に人が生きる上での知恵のようなものを学ばせていただいたと思ったものでした。


中学生にかかわる問題は、基本的には子どもに任せて自分たちで解決させることができる。親の過度な口出しは必要ない、と構えている親御さんの態度に私は、感心したのでした。


時代も変わりましたが、今でもこのような親御さんがおられます。

しかし、一方で、子どもの先回りをして口を出す親御さんもいます。

その時には感情が表に出ることも多く、それを受けた相手の親御さんの方も平静心ではいられなくなり、混乱することもあります。


しかし、時代は変わっても、思春期の中学生の内面や心情は大きくは変わっていないと思います。

学校での人間関係がうまくいかない、トラブルが起きる。それは昔も今も変わっていません。

なので、トラブルやもめごとに直面して、子どもが傷つくことは避けることができないのです。

それは、中学生の心はつねに柔らかく、繊細で、柔軟だからです。

柔らかい果実のような心が傷つきやすいのは当然なのです。

というか、むしろ、その傷ついたという体験から学びがあり、人間関係を結ぶ粘り強さを身につけていくのではないでしょうか。

生きていく上での力と知恵を身につけていくのではないでしょうか。

ときとして、その傷つきは本人にとって、つらく、苦しい場合もあるのですが、その経験を通らせて、折れそうになる子どもの心をしっかりと支えてやるのが、せつないですが、大人の役割だと思います。

子どもが傷つくとかわいそうだからと、先回りをして、人と人がぶつかるのを避けさせる。

たしかに、子どもだけに任せておけない問題がある場合もありますが、多くの問題は、子どもに任せ、親は支え役にまわることが、本当の意味で子どもの成長につながると、私は考えています。





PBLの学習

2020年01月26日 09時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ





いま大学では、「課題解決型学習」(PBL)を行うことが増えています。

PBLとは、Problem Based Learningであり、企業の課題解決に学生が取り組むのものです。

飛行機内での「耳の痛みを和らげるためには」というテーマで、関西大学の学生が顧客満足度を高めるために、ティッシュを活用する方策を考え、スカイマークの役員・社長の前でプレゼンしました。

その日の社長の「実現させよう」の一言で、実証実験することが決まりました。

そして、スカイマークの制服を関大生6名が着て、搭乗客にポケットティッシュを配りました。

そのポケットティッシュには、ティッシュを使い「耳抜き」する方法がイラスト付きでプリントされていました。

このようなPBLは、いま、大阪経済大、近畿大など、いくつかの大学で始まっています。

企業にとっては、思いつかなかった発想を大学生が提供してくれ、社員が刺激を受ける。

大学にとにとっては、学生が文字通り問題解決力を身につけます。

また、座学では学べないことが学べたり、社会を違った角度から見ることにつながることになります。

いまの小中学生が授業の中で、課題を解決する学習を行なっているのも、おおざっぱに言えば、PBLに通じるものです。

予測できない社会の問題に対して、知識を活用して解決を図る学習は、いまや小中高大を通して行われます。

(本文は、毎日新聞2019年1月14日の記事から引用しました。写真:関西大学のHPから)






就職氷河期世代問題に思うこと

2020年01月25日 05時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ




いま日本で問題となっているのが、「就職氷河期世代」の人びとへの就労支援です。政府も本腰を入れて対策に取り組もうとしています。

就職氷河期世代は、おもに1993年から2004年の間に高校、大学を卒業した際に就職した世代になりますので、現在32歳から48歳になっている人たちが含まれます。

この人たちの就職期には、希望する就職ができず、現在も不安定な仕事を余儀なくされている人が少なくありません。

とりわけ1999年に就職期を迎えた人たち(現在38歳~42歳)は、就職できなかった人が10万人を超えました。

そして、いま、希望する就職やその後の転職が難しいのは、とくに高卒や高校中退で社会に出た人たちです。

思い起こせば、この就職氷河期には、「勝ち組」「負け組」という言葉が盛んに言われるようになりました。また、「ロストジェネレーション」という言葉も使われたと記憶しています。

教育界では、1990年代に、子どもの「自己実現」をめざすことが言われだしました。

その言葉に呼応するかのように、就職できなかった人には、機会は平等なのだから結果は「自己責任」だという論が力をもつようになったのでした。

自己責任は自己実現とセットで使われるようになったようです。

今現在、不安定な就労にある人や生活保護を受けている人たちにも、「自己責任ですね」という「まなざし」が向けられがちです。

はたして、そうでしょうか。

氷河期時代の就職難は自己責任などではありません。構造的な問題であり、社会のしくみが生み出した問題でした。

たしかに就職氷河期はバブルがはじけた後の不景気の時代でしたが、この時期に日本の産業構造が大きく変化した時期だったのです。

1995年ごろには、正社員の定義の見直しされ、雇用の流動化が進んだのでした。

2008年ごろには、製造業でよく名前を聞くメーカーが生産調整を行い、非正規雇用の労働者を容赦なく減らすようになりました。

契約期間の途中で派遣を打ち切る場合もあり、「派遣切り」と呼ばれました。

ですから、この就職氷河期世代の人びとの雇用の不安定という今の問題は、社会のしくみが生み出した社会的問題なのであり、本人の努力が足りなかったというものでは決してありません。

私は、中学生に努力することの大切さをずっと説いてきています。

しかし、私たちはどんな問題でも、結果というものを簡単に、「あなたの努力が足りなかったのね」「じゃあ、しかたがないね」などというように人の努力にそのうまくいかない理由をかえしてしまうことには違和感やとまどいを覚えます。

その問題の深層に、社会のしくみの問題があるとき、それは社会を変えていくべき課題であると考えるのです。


長くやることには意義がある

2020年01月24日 08時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ







長いことやっているのは、それなりの意義がある。


イチロー選手が代打での安打記録を達成したときのインタビューで言いました。

全盛期の記録と比較すると、目立たないものですが、長年野球人生を送ってきたからなし得たのです。

長く続ければこそ記録が生まれます。


同じ道を突き進めば、着実に力をつけることができます。

教職の道を真面目に進んだ教員の学習指導や生徒指導は、経験の浅い教員よりも、生徒は安心感をもちます。

小学校よりも中学校のほうが教員になる倍率は高くなっています?

2019年に実施した教員採用試験に合格して、今年4月から教職につく人は、初心を忘れずに教職の道を突き進んでほしいと思います。

不登校生徒にとっての学級担任

2020年01月23日 07時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ



いま不登校の生徒には、学級担任だけでなく、学年の教職員、保健室の先生をはじめとした教職員など、様々な人がかかわります。

それにくわえ、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカー、または学外の「適応指導教室」や教育相談員の支援もあります。

不登校生徒を支えるこれらの支援者の役割は、たいへん重要です。この人たちのかかわりにより、登校できるようになる場合もあるので、さまざまな大人が支援することは必要です。

そして、学級担任が一人で抱え込まず、チームで支援するのが当然です。

しかし、それでも、私は不登校生徒を支援する要(かなめ)は、学級担任であると考えています。

じつは、中学時代不登校だった生徒で、高校へ進学して安定して高校生活を送っている生徒は、中学時代に登校できるようになった、ならなかったにかかわらず、学級担任との関係がよく、かかわりが厚かったという経験をもっている。

このように、私は教職経験上、感覚的に思います。

学級担任が、家庭訪問をして相談の相手になり、学級とつなぐ工夫をしたり、進路指導でもていねいに情報を伝え、その子にあった進路を親身になっていっしょに考えていくかかわりは、生徒の自立を支えていくのでしょう。

思えば、生徒にとっては、学校は一つの「社会」です。学校で生徒は学力を身につけますが、社会で生きる力も身につけます。

その意味で、学級担任は、不登校の生徒にとっては、たった一つの「社会への窓口」になりえるのです。

学級担任との出会いは、その生徒の人生に大きな影響を与える可能性をもっています。

回復力を発揮させる

2020年01月22日 08時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ

子どものたくましさは、「回復力」があるかないかでみることができます。

失敗したり、困難に出会い挫折したとしても、回復する力のことです。

このことを、アメリカでは「レジリエンス」といい、かなり前から研究されてきました。

大阪弁風にいうと「しぶとさ」と表現されることもあります。
  
(私のブログ2015年11月29日「聴くことで「しぶとさ」を引き出す」にも、とりあげています。)

大阪弁の「しぶとさ」は、ときとして相手を揶揄する場合に使われることがあります。

「これほど痛みつけたのに、あいつはしぶとい奴や」というように。

そこで、ここでは「回復力」という言葉を使います。

たとえば、中学生の部活で大会で負けて入賞できなかった生徒が、へこたれなで次回には入賞するというケースは、回復力を発揮したからです。

では、なぜ回復力のある人は、困難に屈しないのか。

自己を肯定するからだと言えます。

どうしたら勝てるのか、どう問題を解決するかを考えることができるという点で、未来を見ているからと言えます。

過去にとらわれないのです。

なおかつ、自分で自分を励ますことができる。

もっと状態のいい自分が出せるはずだと思い、「まだがんばれるよ」と自分を勇気づけることができるのです。

さらに、プラス思考でものごとを考えることもできるかもしれません。

このうまくいかなかった経験も、自分が成長するには必要なことなんだと覚悟して、決意するのです。

ただし、中学生が回復力を発揮するには、大人が以上の視点をふまえサポートをするべきです。

「先のことに目を向けて、次は結果がでるはす。前向きに考えたら、今回のことがいい経験になるよ」と声かけをしたらいいでしょう。

つまり、親御さんがふつうにする声かけと変わらいのです。

大切なことは、子ども自身がその言葉かけを受け、どう捉え、どう自分の中で消化するかです。





活発な気力

2020年01月21日 07時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ






人生活発の気力は、物に接せざれば生じ難し。

福沢諭吉の言葉です。


明治時代になり、民衆は支配されるものではなく、主権者であることを自覚しなければならない。

自由を得た民衆への戒めの言葉です。


そして、自らが主役であるために、不断の努力と勉学、多くの人たちとの親交を心がけなさいと、諭しています。

これは、130年ほど経ったいまの学校教育での中学生にも、そっくり当てはまる言葉であるのです。

努力、勉学、親交をもとに学校生活を送る。

かつ、いまの自由は、当然あるべきものではなく、不断の営みにより維持発展させていくことができるのです。


いまの世相は、一部の権力者がその権限を行使しており物言わぬ大衆は巻かれていく。

いま、あらためて、かみしめたい福沢諭吉の言葉です。

敵か、それとも味方かの二分法で分断を深める手法が世界で台頭しています。

多数派は、本来、異論との間で隙間を埋め接点を探るべきなのに、実際は多数派の論理で異論を排除する光景が日常化しています。

人生を活発に生きる気力は、物事に接していないと生まれにくいのです。

コミニケーション力の呪縛

2020年01月20日 07時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ








中学生の高校入試のための自己申告書を読むと、グローバル時代の子どもらしく、高校で英語を使った「コミュニケーション力をつけたい」という抱負を書いている生徒が、けっこうたくさんいます。

また、最近問題になった大学入試センター試験での外部の民間テストを導入しようとした目的の一つに「コミュニケーション力の向上」がありました。

この制度は、もともとは2013年に、経済界からの要請と教育再生会議からの提案を受け、文部科学省が制度を設計しました。

そして、その制度は大学入試に民間の「聞く、話す、読む、書く」の英語4技能テストを盛り込めば、学生の4技能とコミニケーション力を高める学校での教育が行われるようになるだろうという見込みで考案されたのでした。

もっと学校(中学、高校)の現場の声を聞くべきなのに、経済界や政界が主導で進めてきたことが、この制度破綻の根本にあります。

英語を使うコミニケーション力の向上は、たしかにこれからの時代を生きる若い人にとって必要です。

しかし、それを学校での英語学習の目的にすることはできないと私は考えています。

グローバル社会、国際社会で対等に外国人とつきあうためには、対等な人間関係をもとに、その人がどんな信念をもち、どれほどの教養をもって話しているかという、話の中身が必須となるからです。

つまり、どのように(How)話すかではなく、なにを(What)話すかが求められるのです。

高校では、まだその信念や教養の基礎を積み上げる時期でないかと、私は考えます。

その意味で、昨年度、高校で英語の学習でコミュニケーション力をつけると書いていた中学生には、私のこの考えにたったアドバイスをしておきました。

日本の企業の採用面接でも、英語に限らず日本語のコミュニケーション力は、採用のための強みにはならないでしょう。

企業側は、コミュニケーション力は身につけていて当たり前と考えます。それにプラスしてどんな力をもっているかを、採用条件にするでしょう。

外国人との会話でも、かりに英語のイントネーションが少しおかしかったり、なまりがあったとしても、少しぐらい流暢でなくても、英語そのものは言語であり、それ以上でも、それ以下でもありません。

顔をつきあわせて、濃い内容の話ができると、国籍や人種の違いをこえてお互いを尊重しあえると思います。

流行のように使われる「コミュニケーション力」という言葉、そしてそのとらわれから、私たちは抜け出したほうがいいと思います。





親が自由になる

2020年01月19日 07時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
思春期の子育てで好ましくないこと。
 
それは、親が自分に自信をもてないことです。 
 
長年、中学生の親と接したり、悩みの相談を聞いて思うことは、課題のある子の親の多くは、「私の子育てが悪かったのです」と、自分を責める場合が多いようです。 
 
私の子育てがよくないから、わが子は思うように成長しないのかもしれない。問題を起こすのかもしれない。 
 
そうなのかもしれません。でも、たとえ子どもが問題を起こすのが親の責任だったとしても、親が自分を責めているだけでは、子どもの問題は解決しません。 
 
どんな親も、わが子が問題を起こさせようとして子育てをしていたのではないはずです。
 
かりに、自分の子どもが問題を起こしたとしても、子育ての結果が、たまたまそうなっただけです。 
 
親の気持ちが受け身であると自分はダメだと思い、自分に自信を失い自分のことがきらいになります。 
 
そこで、親は自分が罪悪感にさいなまれるのではなく、自由になることです。
 
もし、自分に欠点があるなら、ありのままの自分を認めることです。 そこから積極性の芽が生まれます。それにより、よい子育てができます。 
 
親が自分の人生を変えていこうとすること。この方が罪悪感にさいなまれているよりも、ずっと前向きな気持ちなれます。 親が前向きな気持ちに変わると、子どもも変わります。  

冬に想う

2020年01月18日 15時34分00秒 | 教育・子育てあれこれ




寒い日が続いています。

今年の冬は暖かいとは言われていますが、中学生が寒さをイメージして作った作品です。

冬の日の寒さを感じた感覚・感性で、冬の出来事や自分の経験を短歌にしました。

あわせて、冬を表すバックをつけています。

美術科と国語科のコラボ作品です。

中学生の作品です。

着眼点により、表現の仕方がかわります。






あれから25年

2020年01月17日 08時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ


1995年1月17日、阪神淡路大地震が起きました。

今年はあれから25年となります。

当時、私は箕面二中で3年生の学級担任をしていました。

二中の中にも被災した教職員がいました。

あの地震は、甚大な被害を人びとに与えました。

建物は崩れ、傾き、火災が起こり、いま思い出しても、大阪北部でさえも猛烈な揺れでした。

家や家族を失った人がいます。

25年経って、神戸の街並みは見事に復興されました。

ただし、その問題や課題がすべて解決されたわけではなく、今もその影響を引きずり、生きている人がいます。

しかしながら、この災害によって、未来への発展が閉ざされたのではなかったのです。

後ろ向きでなく、前向きに考えることで、新しい知恵が生まれました。

たとえば、建物については、耐震構造や耐震性を考慮する社会に変わりました。

人びとの考え方も革新されてきたと考えることもできます。
 
人は苦しみ、悲しみを乗り越えるなんてことはできないと、私は常々考えています。

その苦しみ、悲しみとつきあって生きていくのだと考えています。

悲しみ、苦しみはその頂点に立ったとき、そこからは下り道か続きます。

その頂点に立ったときの痛みが、その人を強くします。



それでも未来へ 愛は続いている

人と人が求めあっている

それでも私は一歩歩き出す

そこに忘れられた希望を拾って 始めようか
  (秋元康『風は吹いている』より)