

前回までの3回のブログで、今の日本社会では伝統的な村落共同体的な人間関係の絆ではなく、「ゆるやかな人間関係」を望む人が多いことを書きました。
そもそも「絆」とは、平安時代には「ほだし」と呼ばれ、牛や馬が逃げないようにつなぎとめておく縄のことでした。
読んで字のごとく、「絆」という漢字の右側は「牛」を表します。
ここからわかるように、絆はいい言葉の響きをもっていますが、必然的に人を縛るという意味を持っています。
わたしのすむ地域は大阪府の中でも山間にあり、田園風景が広がっており、今でも自治会の下部組織として「となり組」があります。
しかし、それでもいまは回覧板をまわしたり、年に1回共同で道路清掃をするぐらいの活動にとどまっています。
昔のように、組のなかのだれかが亡くなると、となり組の人が総動員で葬式を取り仕切ったり、料理をつくったりはしません。家族葬がほとんどで、式への参列もしなくなりました。
このような生活体験をもとに、「ゆるやかな人間関係」を書いていました。
その念頭には、日本の伝統的村落共同体は姿を消したという思い込みがありました。
しかし、そうでないことも新聞記事であらたにわかりました。
以下、新聞記事からです。
**********************************************
福井県に池田町という町があります。最近田舎暮らしを志向する人が都会から移住してきます。
その町が出している広報誌が、いま物議を読んでいます。
移住者に向けた「池田暮らしの七か条」が広報誌に載っています。
抜粋すると
第1条:集落の一員であること、池田町民であることを自覚してください。
第2条:参加、出役を求められる地域行事の多さとともに、都市にはなかった面倒さの存在を自覚し協力してください。
第4条:今までの自己価値観を押し付けないこと。また都会暮らしを地域におし付けないよう心掛けてください。
■これまでの都市暮らしと違うからといって都会風を吹かさないよう心掛けてください。
第5条:プライバシーが無いと感じるお節介があること、また多くの人々の注目と品定めがなされていることを自覚してください。
■共同体の中に初顔の方が入ってくれば不安に感じるものであり「どんな人か、何をする人か、どうして池田に」と品定めされることは自然です。
この七か条は「町の風土や人々に好感を持って移り住んでくれる方々のための心得」であると町は説明されています。
一方、移住してきた人びとの中では、「この文面が町の公式文章として出ていることを問題だと思う」としています。「移住者を拒否しているようにもみえる」と指摘する人もいます。
(以上、毎日新聞2月14日朝刊の記事より)」
********************************************
この七か条の文面は区長会が決めたものなので、町としては修正する予定はないそうです。(区長とは各自治会の代表者のこと。そもそも自治会は地域住民の自治組織)
わたしは、この七か条の是非について考えを述べるつもりはありません。またそのような立場でもありません。
ただ、地域での強い、ある意味で人をしばる絆の人間関係はなくなってしまったのではなく、まだ残っていて、残そうとあたためている地域もあるという事実を知りました。
多くの人とかかわることのある忙しい日々を過ごしていると、人はひとりになることが必要で大切なことです。
他者の考えや意見に耳を傾けることも必要ですが、それがあまりにもたくさんになると、みずからを失うことにもなりかねません。
そのようになりそうなときは、ひとりで自然の中に浸ることがいちばんだとわたしは思います。
自然の中ででリラックスしてしばらく時を過ごすのは貴重です。
このとき、人は一人でも、孤独ではありません。
自然は何も言いません。山、森、木や葉や草、鳥、花、水、空、風、星、月は何も言いません。
でも、私たちを受け入れ、包み込んでくれます。
「花」は人とは関係なしに咲いています。
「鳥」は人とは関係なしに飛び、羽ばたきます。
「風」は人とは関係なしに吹き、流れます。
「月」は人とは関係なしに光り、照らします。
しばらく自然に浸ったあと、現代人はまた多くの人とのかかわりをもつのです。
日本の男性ファッションブランドとして、1960年代から当時のアメリカントラディショナルのトレンドを築いたのがVANでした。
いわゆる「アイビールック」や「みゆき族」を生み出しました。
当時、そのVANが手本にしたのが、アメリカのアイビーリーグの学生たちのファッションでした。
アイビーリーグとは、アメリカ合衆国の北東部にある8校の名門私立大学の総称です。
ハーバード大学、ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、エール大学が加盟します。
日本では、これらの大学のロゴマークを入れたスエットシャツ(トレーナー)、Tシャツ、パーカーなどは、いまもよく目にします。
さて、そのアイビーリーグの大学では,最近女性学長が相次いで生まれています。
たしか8大学のうち6大学で学長は女性です。
では、日本の場合はどうでしょうか。
初めて女性が学長になったのは20世紀の終わりの1997年でした。明治時代の「学制」発布後およそ150年の大学の歴史がありながらです。
そしていま全国の4年制大学では109人が女性学長です。それは全体の約14%程度です。
なかでも国立大の女性学長はとても少ない状況です。
学長の選考はどのようにきまるのでしょうか。学長の多くは、副学長または学部長から選ばれますが、その役職のほとんどが男性で占められているのが現状です。
アイビーリーグでいま女性学長率は75%ですが、1994年までは0%で「男性中心社会」だったのです。
べつにアメリカと同じでなければならないという問題ではないですが、あまりにも少ないのは今の日本社会の現状での問題を表しています。
世界の流れは総じて「ダイバーシティ}(多様性)に向いていますが、日本では言葉だけが先行して実態が伴っていないのです。
本音のところで、女性はリーダーに不向きなのでしょうか。日本では「そうだ」という人・考える人も一定数いるのが現状でしょう。
でも世界の今の常識では、それとは逆になっています。
「共感力」・「柔軟」・「利他」・「表現力」・「忍耐強さ」などがリーダーの資質として必要とされるという認識がありますが、それらの特徴はすべて女性に見受けられやすいという調査があります。
もっとも、日本の女性議員のなかには、人としてのかけがえのなさをまったくといっていいほど認識せず、問題発言を繰り返す人もいますが、それは論外です。
ドイツのメルケル元首相が呼びかけた新型コロナウイルス感染対策では、多くの国民が共感し、賛同しました。国民の心に琴線にふれる女性リーダーだったといえるでしょう。
いまどんなリーダーを求めるかで、国の将来はかわっていくでしょう。女性が選ばれない国は将来への選択肢をはじめから「いりません」と投げ出しているようなものです。