箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

星空を眺めて

2023年02月28日 06時51分00秒 | 教育・子育てあれこれ
長い間星空を
眺めていて

かりに一人だけでも
孤独な夜は寂しくもない

追いたてられるのでもない
わたしはいつも自由なのだ


先日、教育委員会主催で小学生と保護者に案内して「星を観る会」を開きました。

寒い中でしたが、たくさんの人が集まってくれました。





M42星雲を観ることができました。

星を観ると自由な気分を味わうことができます。



残るしばる人間関係

2023年02月27日 07時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ

前回までの3回のブログで、今の日本社会では伝統的な村落共同体的な人間関係の絆ではなく、「ゆるやかな人間関係」を望む人が多いことを書きました。

 

そもそも「絆」とは、平安時代には「ほだし」と呼ばれ、牛や馬が逃げないようにつなぎとめておく縄のことでした。

 

読んで字のごとく、「絆」という漢字の右側は「牛」を表します。

 

ここからわかるように、絆はいい言葉の響きをもっていますが、必然的に人を縛るという意味を持っています。

 

わたしのすむ地域は大阪府の中でも山間にあり、田園風景が広がっており、今でも自治会の下部組織として「となり組」があります。

 

しかし、それでもいまは回覧板をまわしたり、年に1回共同で道路清掃をするぐらいの活動にとどまっています。

 

昔のように、組のなかのだれかが亡くなると、となり組の人が総動員で葬式を取り仕切ったり、料理をつくったりはしません。家族葬がほとんどで、式への参列もしなくなりました。

 

このような生活体験をもとに、「ゆるやかな人間関係」を書いていました。

 

その念頭には、日本の伝統的村落共同体は姿を消したという思い込みがありました。

 

しかし、そうでないことも新聞記事であらたにわかりました。

 

以下、新聞記事からです。

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福井県に池田町という町があります。最近田舎暮らしを志向する人が都会から移住してきます。

 

その町が出している広報誌が、いま物議を読んでいます。

 

移住者に向けた「池田暮らしの七か条」が広報誌に載っています。

 

抜粋すると

1条:集落の一員であること、池田町民であることを自覚してください。

 

第2条:参加、出役を求められる地域行事の多さとともに、都市にはなかった面倒さの存在を自覚し協力してください。


第4条:今までの自己価値観を押し付けないこと。また都会暮らしを地域におし付けないよう心掛けてください。


■これまでの都市暮らしと違うからといって都会風を吹かさないよう心掛けてください。

 

5条:プライバシーが無いと感じるお節介があること、また多くの人々の注目と品定めがなされていることを自覚してください。


■共同体の中に初顔の方が入ってくれば不安に感じるものであり「どんな人か、何をする人か、どうして池田に」と品定めされることは自然です。


 

 

この七か条は「町の風土や人々に好感を持って移り住んでくれる方々のための心得」であると町は説明されています。

 

一方、移住してきた人びとの中では、「この文面が町の公式文章として出ていることを問題だと思う」としています。「移住者を拒否しているようにもみえる」と指摘する人もいます。

   (以上、毎日新聞214日朝刊の記事より)」

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この七か条の文面は区長会が決めたものなので、町としては修正する予定はないそうです。(区長とは各自治会の代表者のこと。そもそも自治会は地域住民の自治組織)


わたしは、この七か条の是非について考えを述べるつもりはありません。またそのような立場でもありません。

 

ただ、地域での強い、ある意味で人をしばる絆の人間関係はなくなってしまったのではなく、まだ残っていて、残そうとあたためている地域もあるという事実を知りました。

 

いまの日本社会では、ゆるやかな人間関係と強い人間関係が混在することをあらためて知ることになった新聞記事でした


いまは、どんなふうに他者とつながりたいのか③

2023年02月26日 08時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ
前回のブログでは、つきあう相手はかつてないほど自由になり、液状化・流動化している。

その一方で、自ら動きを起こさなければ、人の輪のなかに入ることができにくくなってきており、孤立の問題が出てきています。

疎外感や寂しさを感じる人がいるのが、いまの人間関係の特徴であることにふれました。

この時代にあって人はどんな人間関係を求めているのでしょうか。

それはひとことで言うと、「ゆるやかな人間関係」です。

おたがいにしばりあわない、いつもいっしょというわけではない。でも、ある場面ではつながっていると感じる関係です。

たとえば、趣味のサークルで活動しているときには親しく話すが、活動外で会うことはあまりない。

そのような関係が人によっては複数のサークルにまたがっている。

自然災害で被災した人には、仲間と全力で支援するボランティアに所属していて、そのつながりで、あの人を知っている。

でも、どこに住んでいるかはお互いに知らないという関係です。

また、SNSでフォロワーになってくれていて、チャットの交換はするが、じっさいに会ったことはない。

それでも、フォロー・フォロワーの関係に満足していて、つながっていると思う。

それでも、会いたくなれば、いっしょに遊びたくなれば、それをするのも難しくはない。

そして、気が合えば深い関係に発展していく。

つまり、人間関係への期待を下げて、興味や関心のあることをやりながら、ゆるやかにつながる。

このようにゆるやかにつながる関係を今の人は望んでいるのではないかと、わたしは考えています。

いまは、どんなふうに他者とつながりたいのか②

2023年02月25日 08時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今の日本の社会では、人間関係が固定的なものでなくなり、液状化してきています。

近所の人とのつきあいは絶対的なものではなくなり、職場でもつきあう人を選ぶ時代になりました。

職場の飲み会は絶対参加するものではなくなってきています。

私たちは誰とつきあうかをある程度は選べるようになりました。

ICTが発達し、SNSを使えば、多様な人たちとつながることができるようになりました。

「それが人間関係か、人間関係というものは会ってじかにコミュニケーションをする関係だ」という主張をする人もいるでしょう。

しかし、時代の勢いは「つきあう相手は日々かわるもの」というように、かつてないほど自由になり、液状化・流動化しているのです。

端的にいえば、イヤならつきあわなくていい。それが許される時代になったのです。

結婚して妻がわたしの地域に住むようになったとき、「地域の人には、道で出会ったら、知らない人でもあいさつをしなさい」と言ってきかされた頃とは、隔世の感がします。

たった30年・40年の間に、日本の社会での人間関係は大きく変わったのです。

ただし、その一方で困った問題にも直面することになりました。

自ら動きを起こさなければ、人の輪のなかに入ることができにくくなってきているのです。

そこから、孤立の問題、「ぼっち」の問題が出てきて、疎外感や寂しさを感じる人が出てきているのが、日本の現代社会なのです。

この現代社会で私たちはどのような人間関係を求めている/求めていくことになるのでしょうか。

次回のブログに続きます。


いまは、どんなふうに他者とつながりたいのか①

2023年02月24日 09時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ
一般的には、いまの日本では濃い人間関係は苦手という人が多いと思います。

昔ながらの村落共同体に見られるような、近所づきあいのつながりが強く、葬式などは地域の人の協力で行う。

近所の人が子供の世話をしてくれたり、面倒をみてくれたり、ご飯のおかずをおすそ分けしてくれるなどは、古き昭和の濃い人間関係に基づいていました。

令和の今の時代では、「そんな近所づきあいは苦手です」という人が多いでしょう。

その一方で、東北大地震以後、絆という言葉が多用されるようになり、礼賛されています。

固い絆は私たちの生き方を豊かにする点はたしかにあるでしょう。

そこから、濃い人間関係のないつながりを、寂しい関係としてとらえ、その対極に「孤立」という言葉を当てはめ、寂しい生き方を思い浮かべます。

古代のギリシアの哲学では、友情がキーワードに議論されてきて、友情は人生の幸せでではあるが、そんな友情にはめったにめぐりあえないものとされています。

日本では、太宰治の『走れメロス』のなかに友情について、深い問題提起がなされています。

それでは、いま私たちはそのような孤立や孤独を嫌いながらも、どんな人間関係を求めているのでしょうか。

次回のブログでは続きを書きます。

AIをどう学校教育に導入するか

2023年02月23日 12時53分00秒 | 教育・子育てあれこれ
AIの社会での活用は、予想以上に早くなりそうです。

とくに注目に値するのは、「対話型AI」です。


これは人間どうしが会話しているように、AIを介して自然な答が返ってきます。

先般、アメリカでリリースされた対話型AI「ChatGPT」(チャットGPT)はオープン利用ができます。

もうすでに1億人以上のユーザーがいます。

そして、教育の分野にも対話型AIは大きな波となり押し寄せます。

例をあげれば、今まで語学の学習を積み上げ、翻訳をしていたものが、一瞬にして完璧に翻訳してくれます。

ただし、簡単な会話程度ならいいでしょうが、異なる文化、考え方、習慣をもつ人の背景まで理解することができなければ、真のコミュニケーションにはならないでしょう。

その点で、学校教育ではAI万能とは、やはりならないと思われます。

とにかく、対話型AIは外国語教育をはじめとした学校教育のありようを大きく変える可能性をもっています

AI万能に抗して、オーストラリアでは学校教育に対話型AIの導入はストップするとアナウンスしました。

しかし、アジアの国の中には、積極的に学校教育に導入するとしました。

このように、対話型AIへの世界の対応は、とにかくはやいのです。

ところが、日本ではまだプログラミング教育はこれから導入しようとする段階です。

日本の大学では先進的にチャットGPTをすでに使っている例があります。

インターネットで調べれば答が見つかるようなものでない、深く思考する課題を設定して、レポートの提出を求めます。

そしてチャットGPTを使わせると、学生による差が出て評価もできると聞きます。

今の児童生徒は予測不可能な時代を生きることになります。

気候変動、感染症、紛争など何に遭遇するかわからないなかで、自分で課題を設定して、言語活動を通して解決していく。

そのとき、解決策はAIが出すにしても、それをアレンジして解決策を選び、その責任は人間が引き受ける。

その力を学校教育で育むことが求められています。





自然に浸る~「花鳥風月」~

2023年02月21日 07時28分00秒 | 教育・子育てあれこれ

 

多くの人とかかわることのある忙しい日々を過ごしていると、人はひとりになることが必要で大切なことです。

 

他者の考えや意見に耳を傾けることも必要ですが、それがあまりにもたくさんになると、みずからを失うことにもなりかねません。

 

そのようになりそうなときは、ひとりで自然の中に浸ることがいちばんだとわたしは思います。

 

自然の中ででリラックスしてしばらく時を過ごすのは貴重です。

 

このとき、人は一人でも、孤独ではありません。

 

自然は何も言いません。山、森、木や葉や草、鳥、花、水、空、風、星、月は何も言いません。

 

でも、私たちを受け入れ、包み込んでくれます。

 

「花」は人とは関係なしに咲いています。

 

「鳥」は人とは関係なしに飛び、羽ばたきます。

 

「風」は人とは関係なしに吹き、流れます。

 

「月」は人とは関係なしに光り、照らします。

 

しばらく自然に浸ったあと、現代人はまた多くの人とのかかわりをもつのです。

 


選択肢は一つでいいんですよ」という国

2023年02月20日 07時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ

 

日本の男性ファッションブランドとして、1960年代から当時のアメリカントラディショナルのトレンドを築いたのがVANでした。

 

いわゆる「アイビールック」や「みゆき族」を生み出しました。

 

当時、そのVANが手本にしたのが、アメリカのアイビーリーグの学生たちのファッションでした。

 

アイビーリーグとは、アメリカ合衆国の北東部にある8校の名門私立大学の総称です。

 

ハーバード大学、ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、エール大学が加盟します。

 

日本では、これらの大学のロゴマークを入れたスエットシャツ(トレーナー)、Tシャツ、パーカーなどは、いまもよく目にします。



 

さて、そのアイビーリーグの大学では,最近女性学長が相次いで生まれています。

 

たしか8大学のうち6大学で学長は女性です。

 

では、日本の場合はどうでしょうか。

 

初めて女性が学長になったのは20世紀の終わりの1997年でした。明治時代の「学制」発布後およそ150年の大学の歴史がありながらです。

 

そしていま全国の4年制大学では109人が女性学長です。それは全体の約14%程度です。

 

なかでも国立大の女性学長はとても少ない状況です。

 

学長の選考はどのようにきまるのでしょうか。学長の多くは、副学長または学部長から選ばれますが、その役職のほとんどが男性で占められているのが現状です。

 

アイビーリーグでいま女性学長率は75%ですが、1994年までは0%で「男性中心社会」だったのです。

 

べつにアメリカと同じでなければならないという問題ではないですが、あまりにも少ないのは今の日本社会の現状での問題を表しています。

 

世界の流れは総じて「ダイバーシティ}(多様性)に向いていますが、日本では言葉だけが先行して実態が伴っていないのです。

 

本音のところで、女性はリーダーに不向きなのでしょうか。日本では「そうだ」という人・考える人も一定数いるのが現状でしょう。

 

でも世界の今の常識では、それとは逆になっています。

 

「共感力」・「柔軟」・「利他」・「表現力」・「忍耐強さ」などがリーダーの資質として必要とされるという認識がありますが、それらの特徴はすべて女性に見受けられやすいという調査があります。

 

もっとも、日本の女性議員のなかには、人としてのかけがえのなさをまったくといっていいほど認識せず、問題発言を繰り返す人もいますが、それは論外です。

 

ドイツのメルケル元首相が呼びかけた新型コロナウイルス感染対策では、多くの国民が共感し、賛同しました。国民の心に琴線にふれる女性リーダーだったといえるでしょう。

 

いまどんなリーダーを求めるかで、国の将来はかわっていくでしょう。女性が選ばれない国は将来への選択肢をはじめから「いりません」と投げ出しているようなものです。


保育園での習いごと

2023年02月19日 05時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしの孫は愛知県内の子ども園に通っています。

その園では、バレエや英語を習っています。

習っているというのは、園の職員が教えてくれるのではなく、外から講師の先生がやってきて教えてくれるのです。

つまり、習いごとを園でできるのです。

もちろん有料で、保護者は月謝を払っています。

わざわざ習いごとに行かさなくても、園で習える。

保育時間内で習いごとを受けさせたいという保護者の要望に応える活動として、実施されていると聞きます。

親にしてみれば、外の習いごとに通わすと送迎がいりますが、園でやってくれればそれをしなくてすむという事情もあります。

もちろん、習うかどうかは任意です。習わない場合は、園での通常の保育活動を受けます。

ただし、この保育時間内での習いごと教室には、賛成しない保護者もいるようです。

他の子が習っていれば、わが子も行かさなくてはと思う保護者がいます。

みんなが習いごとをできればいいのでしょうが、家庭によっては入会金や月謝、また活動によっては服代や教材費を払える経済状況でない場合は、他の子が習っているのに、わが子は習わせられないとなります。

そのあたり家庭による事情があり、保護者からは賛否両方があります。


認可保育園および幼保連携型・保育所型認定子ども園は、法律上の児童福祉施設になります。

家庭の経済条件に関係なく保育の質を確保することが必要になります。





議会での女性議員

2023年02月18日 06時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ
議会の中でも、国会などを除くいわゆる地方議会には、都道府県議会や市区町村議会での女性議員がどの程度いるかを調べた結果が、先日公表されました。

それによると、昨年の11月段階で、女性議員がゼロの議会が全体の14%ほどになります。

加えて、女性議員が1人の議会と0人の議会をあわせると、全体の約39%になるといいます。

男女共同参画推進法では、政治のフィールドでは「均等」、つまり半々をめざしていますので、それには程遠い現状にあることがわかりました。

議会が審議する都道府県・市区町村の施策や事業は、男性の視点からも女性の視点からもみて多面的・多角的に吟味されなければなりません。

しかし、現状では客観的に見積もっても「男性目線」の施策・事業が成立しやすいという弊害が考えられます。

とくに子育て施策や雇用問題などでは男性議員や高齢議員には見えていないことがあるものです。

男女協働参画社会を標榜する日本において、議員になる希望者が減る中で、議会はいま転換点に立っています。

学級担任の役目とは

2023年02月17日 07時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ
とくに小学校高学年、つまり子どもが思春期に入る頃に、クラスがうまくいかなくなる場合があります。

うまくいかないとは、担任の先生と子どもたちの関係がぎくしゃくして、簡単に言えば、子どもが先生の言うことをきかなくなる状態のことです。
 
このとき、担任の先生が大声で子どもをどなりつけるようになると、子どもとの関係はますます悪化します。
「ほら、こっちを向け。ダラダラするな(ボーとするな)。集中だ。ちゃんとしろ!」と、子どもに大きな声で怒鳴りつけます。

最初のうちは、子どもたちは先生の言うことをきくかもしれません。先生の方を向くでしょう。

しかし、そのうちに顔は向けているけれど、先生の話を聴いていない、つまり心は先生に向いていない状況になってきますす。

人間は怒鳴られてばかりだと、「うるさい、うっとい」という感情が先に立ち、怒鳴られれば怒鳴られるほど、イヤなことから逃げたくなります。
聞いているふりをすればいいんだと、聞き流すようになります。

そして、だんだん人の話をまじめに聞こうとしなくなってしまいます。こうして子どもたちからは素直な態度がなくなり、「ああ、また言っている」と思い、先生の存在自体も軽くなってしまいます。

このような子が増えてくると、クラスは機能不全になっていきます。いわゆる「学級崩壊」は、このようにして起こります。

高学年での学級崩壊の一因は、子どもの思春期の発達段階に対して、先生の指導がミスマッチを起こしている状態にあります。

このミスマッチは、経験を積んだベテランの先生も例外ではありません。

ですから先生は、いまの子どもの早期化する思春期の成長段階にあわせていかないと、子どもの関係はうまくいかなくなるのです。

怒鳴ることで、子どもを抑え込み、いうことをきかそうとするのは指導ではありません。

「指導」とは、子どもとおとなの人間関係(=信頼関係)があり、「この人の言うことならきいてみよう」という気持ちが子どもの中に起こり、指導者のいうことに納得させ、言動を変化させることです。

ではどのように、思春期の入り口に入った子どもたちと接していけばいいのでしょうか。

ポイントは、おとなが子どもの言動の背景にあるものを、常にみようとすることです。

とくに問題や課題を抱えた子どもの場合はなおさら必要です。
どうしてそのようなことを言うのか、なぜそのような行動をとるのか。その言動の後ろに何があるのかを見きわめようとする姿勢が求められます。

たとえば、家庭での厳しい状況・環境という背景をひきずり、悩み、苦しみ、心に大きな傷を受け、めげそうになりながらも、学校へ来ている子どもたちがいます。

この子たちにすれば、「抑えつける」だけの注意やどなり声だけの教師に対して、「どうしてわかってくれないのだ」と思い、反抗するのは当然です。

子どもに「寄り添う」とは、子どもの背景にまで目を向け、その子のことを一生懸命に思い、あたたかく見まもることでしょう。

「どうしたの?」「なにかあったの?」

そういって近づいてきて、心配してくれるおとなを子どもは、ひたすら待っているのです。

自分のことを気にかけてくれるおとなに対して、子どもは心を開きます。

学級担任とは、どの子のことも気にかけて、公平に声をかける人です。

そうでないと、いまの多様化した教育課題を抱えた子どもには、学級担任としては務まりません。

豊かな発想と表現力、寛容さ

2023年02月16日 08時02分00秒 | 教育・子育てあれこれ
コロナ禍で大学が休みになり、オンライン授業を受けていた間は、学生は窮屈な生活を強いられました。

家にいて、画面に向い受講するのが長くなると、キャンパスに行って友だちといっしょに授業が受けられない生活は長くなると、自分の存在感が確かめられない学生まいました。

その空虚感が高じると、「消えてしまいたい」とか「死にたい」ともらす学生もいました。

そして、3年が経ち今は対面授業が行われています。

オンライン授業も残しつつ、キャンパスに学生の姿が戻ってきています。



「いまどきの若者は覇気がない、若々しい元気さがない」と、巷でよくいう中年男性がいます。

しかし、わたしは大学生と授業で接していて、そのようには思いません。

ちょっとした言葉かけで刺激をすると、軽く背中を押して、その気にさせると、驚くほど話し始め、自己を表現しはじめます。

さらに、いまの学生は以前より発想が豊かで、しばられない自由さをもっています。

たとえば、男性と女性以外に性的少数者も理解して受け入れます。

高齢者や中年の人の方が、寛容さに欠けることも多いと、わたしは思います。

授業の講義の一部で、ベアワークやグループワークをします。

すると、笑顔で嬉々としてコミュニケーションを交わす学生が多くいます。

学習の課題に対しても、熱心に取り組み、ときにはわたしが思いつかないようなやわらかな発想で柔軟に学習に取り組む。

それが今どきの若者です。




今はどんな時代か

2023年02月15日 08時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ
日本では令和の元号になって5年目を迎えました。

たったの5年でどんな時代になるかを言い当てることはできません。

でも、明らかに言えることもあります。

それは、世界が様変わりしたことです。

これまでの20世紀型発展のありかたの欠点と限界を、私たちはまざまざと見せつけられることになったのでした。

環境破壊とそれによる気候変動がジワジワと悪影響として現れました。
また、新型コロナウイルスの世界的な大流行で、たくさんの感染者が現れる感染爆発が時代の変化を示しています。

新たな世界のしくみを作り直さなければならない時代にきていると考えます。

さらにまた別の角度からみると、2020年以降のおよそ20年間で、情報通信技術は飛躍的に急激に発展しました。

これは住んでいる場所に関係なく、離れた人と人の交流を可能にしました。

従来なら、人と人が会うのは共通の場所を介してでしたが、そうではなくなりました。

会議やセミナー、研修会をはじめ、学校の授業でさえ、離れていても出席できるようになりました。

このように、今までは不可能だったことが可能になりました。

以上の時代の変化にあわせて、今後はどんな世界をつくっていくかを模索している。

どこの国もその課題に向き合う21世紀はすでに始まっているのです。


教師の性(さが)とは

2023年02月14日 08時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ
学校の教師の中には、何十年も前に学級担任をしていたクラスの児童生徒の名前を一人ひとり言うことができる人がいます。

そして、卒業しておっちゃん・おばちゃんになっている教え子に同窓会で、または道で出会ったとき、その名前を言うことができるのです。

そういうわたしも30年ほど前に担任していた卒業生に出会っても、その容貌は変わっていても、どこか残っている面影をたよりに、「〇〇さんだったね」と言います。

相手は、もと担任がよく覚えてくれていることに驚くと同時に喜ぶのです。

退職しても、もと教え子を覚えているもと先生はそれで達成感・存在感を得るのです。

それは、おそらく自分はいまも「生きている」であり、「生きて居る(いる)」のです。
さらに、「生きて居る(いる)」は「生きて要る(いる)」のです。

こんなに年数がたっても、また退職して高齢になり、かりに80歳をこえても、これだけ教え子のことは覚えている。

いまも「教師」であり、あなたにとっては意味のある人であることで、必要な人だと思いたいのです。

ある意味で、少し悲しくも思われる教師の性(さが)なのです。



恋愛感・結婚観・人生観の広がり

2023年02月13日 07時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ
もちろんひとくくりにしては言えませんが、今の若い世代は恋愛について、どう考えているのでしょうか。

思うに、「恋愛をしなければならない」と考えていない人も少なくはないのでないかと、わたしは最近思うのです。

私たちの若い頃は「恋愛はするもの」と考えていたのを思い出します。

でも、もうその感覚を理解しない人が若い世代に増えているのではないでしょうか。

恋人がわたしをまるごと認めてくれるのでなく、インターネットでつながる人がたくさんいて、フォロワーが何人いるとかでわたしはひとりでない。

部分的にでも、ゆるやかにつながっている人に理解してもらえればいい。

このような感覚をもつ人が増えてきたのではないかと思うのです。

だから、結婚願望も薄い人がいるのです。

性の多様性が広がり、家族のカタチも多様であるという認識がここ10年ほどで広く広がりました。

昔は、恋人がいない人には、近所のおばちゃんが世話を焼いてくれ、写真を抱えて訪ねてきて、お見合いをして結婚する。

すると今度は、子どもを産むという既定路線にのっかり、家族ができる。

いまはそんな時代でもありません。

そのあたりの若い世代の意識の変化をとらえず、おっちゃん・おばちゃん世代の政治家が、「恋愛→結婚→出産→子どものいる家族」という思考経絡で少子化対策をうちだしても、効果はないのでないかと思います。

その反面、今のような自由恋愛の時代になると、結婚したい人は周りが手を差し伸べてくれることに期待できず、自分の意思と相手へのかかわりで人生を自ら切り開いていくことになります。

個人化(社会学ではprivatizationといいます)が進んだ分、個人が引き受ける「責任」は、ある意味で大きくなってきているとも言えるのではないかと思うのです。