新型コロナウイルス感染防止のため学校の休校が続いています。
高校生がインタビューに答えている場面が、テレビに映し出されていました。
「休校で、卒業式がなくなったことをどう思いますか」
「一生の思い出をつくることができず悔しかったです」
「友だちに会う日が減り、そのまま卒業しなければならないのが残念でした」
このような声がありましたが、一方で「誰が悪いのでもないので、しかたないです」と答えている生徒がいました。
この「しかたない」という答え方をする若い人は少なくはないように思います。
おとなも街角でマイクを向けられ、「こんなときだから、店を休むのもしかたないと思います」と答える人が少なくないという印象を受けます。
「しかたがない」は、ものわかりのいい人のように思えます。
ただ、もし「しかたがない」があきらめからきているとか、思考停止になっているのなら、問題だと思います。
とくに若い人の意識が「しかたがない」派に向いているのは、ちょっと心配です。
昨年の「18歳の意識調査」によると、「自分は社会の責任のある一員だと思う」と答える人は4割ちょっとであり、「社会の課題について、家族や友人と積極的に話し合う」は3割に満たない結果でした。
日本の18歳は、外国のほかの国の18歳に比べ、いちばん低い数字でした。
このように、日本の18歳は社会への意識が低いのです。
そこで、今回の日本のコロナ対応がほんとうに「誰が悪いわけでもない」のでしょうか。
日本医師会が、保健所に新型コロナウイルスの検査を頼んでも断られる場合が多かったといわれています。
一方で、日本国内の保健所の数は30年前と比較して約半分に減っているという事実があります。
医師会とは社会的に認知され、一定の信用をもつ専門職性に担保された集団です。
そこからの検査依頼を断ることになってしまうのは保健所を減らしてきて対応できないという国の制度の問題です。
また、保健所に電話をしてもつながらず、検査を受けることができなかったという報道もありました。
これも制度の問題です。
ですから、制度が整っていれば、もっと多くの人が早く検査を受けれたはずです。
制度が整っていないというのは社会の課題です。
今回の「コロナ禍」は、社会の課題に対して意識が低いという人びと、とりわけ意識の低い若い人という課題をあぶり出しているといえるでしょう。
社会の改善すべき点を改めていく、そのことに自分も関与するという、若い人の意識改革が、いま必要なのでないかと考えます。
教職経験年数の少ない教師が陥りそうな過ちがあります。
「よい教師」とは熱心に指導をして、生徒に自分の言うことをきかせることができる教師であることに自信をもち、まわりからもそれで評価される。
要するに、生徒を変容させる力をもつ人がすぐれた教師だと、私も若い頃は思い込んでいました。
逆に言えば、生徒を思い通りに動かすことができなければ、指導力がない教師ということになります。
ただ、若いがゆえに、情熱のあることが多く、年齢も近いことから、生徒には魅力になることがあります。
それを自分の力だ勘違いして尊大になると、少し年齢が上がってくると、やがて行き詰ってしまいます。
しかし、そもそも人を自分の思うように動かそうとするなんてことはできません。生徒を変えようなんてことは、どだい無理なのです。
自分が相手の言いなりになれと言われたら、どれほどイヤなことか。生徒も同じです。
「よい教師」とは、生徒を変えようとするのではなく、生徒が変わるように支えていく(サポートしていく)人です。
子どもの可能性を信じて、子どもの成長の可能性を信じてかかわりを続けるという肯定的な人間観をもっている人こそが教師であるべきです。
本来、どんな生徒も、心の底では「変わりたい」「成長したい」という願いをもっています。
もちろん、素直になるのが難しく、本当の気持ちを打ち明けない生徒もいます。
でも、少なくとも、その生徒を変えようとはせず、未熟な存在としてあるがままのその子を受け入れることはできます。
どうしようもない(と感じている)自分を認めてくれる人がいることで、自分を変えようとその子は思うようになります。
スポーツ庁は2019年12月に令和元年度の全国体力・運動能力、運動習慣等調査の結果を公表しました。
小学校男子が調査を始めて以来最低の結果であり、その原因は長時間のスマホ使用と運動遊びができる場が減ったことでないかと指摘しています。
この見解については、スポーツ科学の専門家によって、さまざまな意見があるようですが、少なくともいえるのは、今回の新型コロナウイルス感染拡大による学校の休校措置が、子どもの体力・運動能力の低下にさらに追い打ちをかけるであろうということです。
3月からずっと学校に登校できず、家にいても「外へ出るな」と言われ、公園で遊ぼうとすれば「自粛しなさい」という日々が続いています。
あきらかに体を動かす機会が減り、運動不足になっています。
また今回あらためて明らかになったのは、不正確な情報が人々の不安や恐れを増幅し、他人を押しのけてでも日用品を確保したいと買い占めを引き起こすということです。
いま、私たちに求められるのは、変化に向き合い、必要な情報を選び判断して、今までに経験したことのない「コロナ禍」に対して、その時々の最善策を考え、子どもが適切に体を動かす行動を確保するかということなのでないでしょうか。
制限された状況の中でも、活気のある毎日を送るために、運動の意義を考え、子どもたちが活動できるようにしていきたいところです。

(平和登校での3年生学年合唱「HEIWAの鐘」)
3月8日には、「日本対台湾」の試合が、東京ドームで行われました。じつは台湾の野球は、日本が台湾を植民地にしていた時代に伝えられました。そして、日本人が台湾野球の発展に協力してきたという歴史があります。
ですから、台湾の選手にとって、日本のプロ野球選手は目標であり、WBCで日本に勝つことは夢でした。約1世紀にわたり台湾チームは日本に「追いつき、追い越せ」を目標にしてきました。
その前に立ちはだかる日本。その名勝負は夜11時半を超えても決着がつかず、いつしか敵とか味方関係なしに、球場を一つにし、東京ドームにはウェーブが起こりました。
さて試合は台湾がリードしていました。台湾の勝利目前の9回2アウトで日本は同点に追いつきました。延長10回表、ついに逆転し、日本が勝ちました。
試合後、大喜びしている日本選手のそばで、ベンチを飛び出した台湾の選手たち。
彼らは、負けてがっかりするどころか、マウンドに集まり360度円陣を組みました。そしてスタンドの全方向の日本人の観客に深々と頭を下げました。その謙虚な態度に、観客からは惜しみない拍手が送られました。
いったい何が起こったのでしょうか。じつは、この試合の2日目に、ある一人の日本人がツイッターにこのようにつぶやいていました。
「3月8日の台湾戦を見に行かれるみなさんへ。2年前の東日本大震災で台湾は大きな支援をしてくれました。だからお礼のプラカードを書いて球場へ持っていこうよ!」
そうなのです。震災の時、台湾は世界で最も多い200億円を超える義捐金と400トンを超える支援物資を送ってくれました。さらに震災の翌日には世界のどこよりも早く救助隊を派遣してくれたのでした。
そんな台湾にお礼をしようという呼びかけに多くの観客が応えました。ドームのスタンドには感謝のメッセージや台湾をたたえる国旗があふれたのでした。
台湾の選手たちは、スタンドを見て驚きました。「これほどまでに、日本人は私たちに感謝してくれている」。試合を生中継する台湾のテレビカメラは、スタンドの映像を台湾全土に流しました。だから、試合は日本と台湾の友好を深める名勝負となったのでした。
このようないきさつで、試合後、台湾の選手たちは日本人の観客に深々と頭を下げたのです。「お礼に対してはお礼で応える」。このようにお互いを尊重し合う関係が、日本と台湾の間で築くことができたのでした。
全校生徒のみなさん、私たちは、平和を考えるとき、その対極にある戦争を思い浮かべることが多いです。そして戦争に反対することで、平和を求めようとします。
しかし、WBCでの出来事のような、国と国の友好関係でも、平和の尊さ、平和を守ることの大切さを知ることができるのです。このことを覚えておいてください。 (以上)
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この講話では、戦争に反対して、国と国の友好関係という視点で平和を希求する生徒になってほしいという台湾と日本のつながりを伝えました。
与えて恩を願わず、受けて恩を忘れず。
つまり、他者に与えた恩は見返りを求めません。でも、他者から受けた恩は忘れてはならない。大隈重信の言葉です。いま、この言葉が鮮やかに色づき出します。
みなさんにはこんなことがありませんか。
やらないといけないとわかっているのに、期日ギリギリにならないとなかなかできない。
明日から、毎朝早く起きて、近所をジョギングするときめたけど、ついつい遅く起きてなかなかできないんだよ。
このように、人間とは本来的に弱いものです。
ところが、使命を受けたり信念で行動するときは、人間は果てしなく強くなるものです。
学校の教師も、子どもを育てるという崇高な使命を自覚する。こうすることが子どもに必要であるという信念を持ち、教育に携わりたいものです。
新型コロナウイルス感染症対策は、人類にとって初めての経験です。
各国が試行錯誤しながら取り組んでいます。
報道されているところでは、世界中で感染拡大を何とかうまく防止できているのは韓国や中国であるといわれています。
この2国では、最初から個人のスマホの位置情報を活用し、感染者の行動を監視したと聞きます。
いまや、このようにビッグデータの利用は多くの国で行われていると聞きます。
アメリカでは位置情報によって、集会の開催を察知し、警察が出動したと伝えられました。
本来、そもそも個人がどこにいるかはプライバシー権のひとつですし、集会をするのは、法が定めるように、自由なはずです。
しかし、新型コロナウイルスという脅威は、人びとに対して、個人の権利に政府が踏み込むことを禁じるブレーキを緩めさせています。
たしかに、事態は緊急なので仕方がないという声もあります。
でも、コロナウイルスの恐怖が去った後のことを考えたときのことを、いま考えておく必要があると思います。
いまは命を守るか、経済を守るかの選択を迫る議論が主流です。
ところが、必要なのは「いまの恐怖」と「収束後の社会」という点もふまえておかなければならないと考えます。
つまり、個人の情報を守るという価値観につらぬかれた社会と個人を監視する監視社会のどちらを選択するかという観点で、コロナ対策をみるべきだということです。
日本のコロナ対策が手ぬるいという批判もありますが、日本政府は個人がどこにいるかというデータを集めて対策をとってはいない(と思われる)のが、せめてもの救いです。
○○県○○市○○町◯丁目に住む○○さんが今どこにいるかという位置情報をもとに、「都道府県を超えた移動をしないように」と言っているのではないのです。
あくまで、個人を特定することなく、不特定多数の人たちに「移動しないでください」と要請をしているのです。
しかし、今後、日本でも監視社会が進行すると、個人の自由はどんどん狭められていくでしょう。
気がついた時には人びとが求めていた理想の社会とは似ても似つかぬものになってしまうことに、後で気がつくという危惧を感じます。
今年の3月(2020年3月)は、学校にとって、きっと歴史に残る出来事として、後世に語り継がれることになるでしょう。
2月27日(木)の夜、全国すべての小学校・中学校・高校・特別支援学校(大阪では「支援学校」)が、3月2日(月)から春季休業まで一斉に休校することになったのでした。
ここで、少し、この学校の一斉休校についてふりかえっておきたいと考えます。
学校の現場では、次のような声が、教職員からあがっていたように思います。
・学年の締めくくりである濃密な3月を、子どもたちと過ごすことができなかった。
・卒業目前の児童生徒と対面して、6年間(3年間)の思い出を共有して財産ともなる思い出をつくることができず、残念だった。
・中学3年生の大阪府立高校一般入試のための出願に、本人たちを行かせることができなかった。また、例年「卒業式は中学校最後の授業」として練習を重ね、卒業のムードを高め、盛り上がっていくが、それができず残念だった。
いろいろな思いが交錯して聞こえてきました。
なかでも、昨年3月に感慨深く退職した私は、今年度末をもって定年退職する教員の思いが気になりました。
子どもとの人間関係が中断されるかたちになり、なにか中途半端な学校との別れになってしまった。長年の教職のピリオドとしては、しっくりといかない、心の整理がつきにくい3月であった。
以上は、学校関係者としての感想です。
ここで、もう少し角度を広げ、今回の休校措置からわかったことをみていきます。
それは、学校というものが社会のなかでいかに大きな存在をもっているかをあらためて人びとに気づかせたということです。
つまり、わが国では、学校が正常に機能することが、社会を維持していくために必要不可欠だということです。
このことを人びと全員があらためて認識し直したのではないでしょうか。
「子どもが学校へ通う」という日常があることが、子どもはもとより、保護者はもちろん多くの人びとに安心をもたらすのであり、社会や経済の安定につながります。
3月の1か月間で、新型コロナウイルス感染が拡大しました。人々の抱えるストレスは高まりました。
そして、その高まりは、おとなだけにとどまらず、子どもたちも同様であり、ストレスを抱えています。
このストレスをやわらげたり、解消するには、学校の再開がいちばんです。
子ども同士、あるいは子どもとおとなの心の交流やささえあいを通じて、人と人のつながりとりもどし、不安を安心に変える。その中心的な役割を担うのが学校なのです。
とはいうものの、緊急事態宣言を受けている大阪府としては、いつ学校を再開するか、休校を延長するのかは、難しい判断です。
いまは、自治体間で足並みをそろえて判断するべき事態です。ゴールデンウィーク明けに学校再開か、休校延長かをめぐり、情報交換・共同歩調が求められことになるでしょう。
新型コロナウイルスの集団感染を防止するためには、「3密」を避けることが不可欠であるという見解が専門家グループから示されています。
それを行政のトップやメディアが取り上げることで、大々的に私たちも知るところになりました。
換気がよくない密閉された空間、多くの人々が集まる密集する空間、間近で会話や声を出す密接した空間という3つの条件がそろう空間が集団感染の危険度が高くなるという見解でした。
ただし、集団感染を防ぐために、
「不要不急の外出は自粛してください」
という要請もほぼ同時に出されたのでした。
その結果、繁華街の人通りはなくなり、閑散とした様子がテレビ等で映し出されているのが、この緊急事態宣言発出下の状況です。
たとえばJR大阪駅と阪急大阪梅田駅を結ぶ通路には、数人しか歩いていない様子がテレビに出ました。
あれほどにぎわっていた道頓堀、戎橋も閑散としていました。
一方、地域に目を向けると、公園で子どもたちが、または親子が遊んでいる光景が目につきます。
それを見たおとなが疑問を呈するとか、非難したりします。
「外へ出るな。外出をしたらダメだと言われているやろ。親は何をしてるんや!」と顔をしかめます。
でも、学校関係者のわたしとしては、「そこまで追いつめたら、子どもには酷ですよ。親もたいへんなんだから」と思うのです。
「3密」の場所へ行くのは避けなければなりません。その通りです?
でも、「3密」の場所にさえ行かなければ、外出しても感染するリスクは低いはずなのです。
たしかに、子どもが公園で遊ぶことは絶対に必要かと問われれば、必要でないし、急を要することでもありません。
また、「3密」でない場所なら外出してもいいとなると、人びとが多く出歩き、収拾がつかなくなることを予想して、あえて「外出を控えてください」というメッセージを出しているとも考えられます。
でも、相手は子どもです。「じっと家の中にいなさい」と言われても、外で遊びたいのが子どもです。それが子どもなのです。
こんなふうに、外で遊んでいる子どもをみて、「危険だ」という人が現れるのは、「3密を避ける」という警告と「不要不急の外出をやめなさい」という要請がタイミングを重ねて出されたために、「外を出歩くだけで危険なのだ」という誤解を人びとに与えてしまったのです。
客観的にみて、子どもが公園で遊ぶのは、専門家グループが言う「3密」には当たりませんから、感染リスクは低いはずです。
それよりも、子どもの健康のためには、かえって近所の広い公園での外遊びは勧めてもいいことだと思います。
そうでなくとも、運動部に入っている中学2・3年生にすれば、今まで部活で身につけてきた体力や体の動きは、この休校の間にすっかりなくなってしまっています。
このままでは、学校が再開して部活動を始めると、まったく体力が続かず、素早い体の動きができないので、けがをする心配もしなければなりません。
まして、多くの3年の生徒にとって、夏休み前か夏休み中に始まる府大会は、基本的に3年間で1度出場できる大会ですが、実施そのものが危ぶまれます。
新型コロナウイルスは目に見えないので、人びとの不安をかきたてます。
わたしも、「死者〇人」、「緊急事態宣言発出」などと聞くと、「えらいことになってきた」と思うと同時に、「これからいったいどうなるのだろう」というように、先を見通しにくいことから不安な気持ちになります。
不安は漠然としていればするほど大きくなります。
何が不安なのかもわからないまま過ごすのでよけいに不安感が増大します。
非常時には多くの人の気持ちが不安定になります。
こんなときには、心のケアや癒しが必要になります。
でも、厚労省のWEBサイトには、メンタルサポートについての表示は見当たりません。
いまは、お金のこと、体調のこと、子育てのこと、就労のことなど、複合した不安を抱える人が多いのです。
その不安に応えるという趣旨で、質問に対して自分の場合にあてはまるように答えていくと必要な情報やサポートにたどり着くような相談できるしくみがあるといいと思います。
現状のような、ジャンルがいろいろあり、膨大に羅列されている項目の中から、自分が知りたい情報にたどり着くのは難しく、根気がいります。
相談者が、自分の抱えている漠然とした不安の正体を知り、いま活用できる制度はなにかなど、具体的な情報を得ることができたら、不安が安心に変わることもあるのです。
数的には、新型コロナウイルスの感染者よりも、「不安に飲みこまれる感染者」の方が多いのです。
外出自粛が長引けば長引くほど、メンタル面で追いつめられる人が増えます。
「人々の命を守るます」と言われるよりも、不安に応える相談体制があるほうが、人びとは安心しやすいと思うのですが・・・。
新型コロナウイルス感染予防のため、学校は休校で児童生徒は家にいる時間が多くあります。
こんなときこそ、文学全集などにチャレンジするなど、読書をすることができます。
ふだんの生活ではゆっくりと本を読む時間はとれません。
たとえば、以前にこんな中学生の例があります。
その生徒のふだんの生活は、朝から学校に登校して、1限から6限まで学習。そのあとは、部活(吹奏楽部)の練習を下校時間まで。急いで家にかえって、あわてて夕食をとり、その後は学習塾へ通い、帰ってきてから学校の宿題などをこなす。
夏休みでも、朝から午後も通して演奏練習。その後、夕方の地域のまつりで招待され演奏を披露して家に帰ると今度は学習塾。帰宅が午後10時・・・。
いまの、とくに中学生の1日は、ほんとうに「忙しい」のです。
5月6日(予定)まで休校の間、学校での授業はないですし、部活もない、塾もオンライン授業なので、まとまった時間がたくさんとれます。
各自治体では、休校中の児童生徒のために「授業配信」を提供している市町村も多くなっています。
それを活用しながらも、余った時間はまだあるというのが今回の休校措置です。外へ出歩くこともお勧めできません。
そこで、その時間の一部を読書にあてるのは、ほんとうにいい方法です。
ところが、休校中の過ごし方として、子どものために読書を勧める配信(たとえば、学校司書が、「おすすめ本」をウェブページにのせて発信)している自治体は、私が知る限りあまりないように思います。
読書については
いま、各界で活躍されている人(研究者、企業経営者、スポーツ選手など)のなかには、濃密な読書体験をもっている人が多くいます。
読書は、想像する以上に、子どもの成長に与える影響は大きいのです。
休校の期間を、「本と友だちになる」きっかけにしてみてはどうでしょうか。
とくに、中学生は発達段階とともに、内省的思考が深まってきます。読書をしながら、自分を見つめることができます。
きのうのブログで私の経験を書いたように、読書が自分の生き方に重要な影響を与える場合もあります。
ほんとうは、読んだ本について感想を友だちと語り合うことができれば、より好ましいと思います。
この活動は、「ビブリオバトル」として、いま静かなブームとなっています。
この時期、語り合いは無理でも、自分が行った読書体験は、その子の内面を耕していくことができます。
ぜひ、この休校期間中に、読書の時間を設けてほしいと思います。
わたしは子どもの頃、本屋に入る時にはワクワク感がありました。
そのころ、住んでいる地域には本屋がなく、駅前の駄菓子屋さんに雑誌や漫画を置いている程度でした。
川西能勢口(川西市)や池田駅近くの商店街に本屋があり、いろいろな本を手に取ることができました。
小学校高学年になると、家から梅田の旭屋書店や紀伊国屋書店に連れて行ってもらい、置いてある本の多さに圧倒されたのを覚えています。
さて、 時は流れて、1990年代の終わりごろには、全国に23000店ほどの書店がありました。
このころは、出版業界や書店には活気がありました。
それが約20年後の2018年には、およそ12000店ほどになりました。半減してしまいました。
いま、書店がない地方自治体は全国に430ほどあります。
つまり、世の中には、本を買いたくても買えない人がいることになっています。
「インターネット通販があるからいいのじゃない」「電子書籍もあるしね」。
こう言う人もいるでしょう。
しかし、本屋に入り、じっさいに本を手に取って読むことができない子どもがいるのです。
本は「知」への入り口です。このままでは、未来の読者は育ちません。
大阪府箕面市の小中学生への調査では、学年が上がるほど一人あたりの読書量が減っているとわかります。
受験が近づき、読む時間がないという事情もあるようです。
わたしは、太宰治の『走れメロス』を読んだときのことを思い出します。
すがるように活字を追い、友だちのことを思うメロスの心の葛藤を自分の思春期の想いと重ねて考えていました。
「これが正しいと」か「あなたはこうするべきだ」という教えはなかったですが、「人生とはなにか」を考えるきっかけにはなりました。
「活字が体の中に入っていく」という感覚は、電子書籍では味わえないのです。
「買う」、「買わない」とは別に、実際に手にとるという感覚は通販では経験できないと思います。
ぜひ、小中学生のみなさんは、本を手に取ってページをめくってください。そして、「これだ」という本を見つけ、じっくりと読んでみてください。
(次回に続く)