
将来のためには、子どもはこれを身につけなければならない。
子どもの成長のためには、いまはこうしなければならない。
このような信念や強い思いがあるからこそ、子どもに向き合うエネルギーが湧いてきます。
そして、子どもが直面している壁を乗り越えたときに、それを本人の自信に返していくことが大切です。
ふつう、子どもの気持ちを受け、それに寄り添いサポートしていくことが教師には望まれます。
そのときには、教師はその段階での子どもの願いに沿うような支えをします。
でも子どもの将来や子どもの成長のためには、寄り添うというより、あえて一歩高みの段階へ引き上げたり、一歩高い目標をねらわせたりすることも、その教師に確固たる信念があるからこそできることです。
自分の経験ですが、以前、1・2年生では、ほとんど登校できなかった生徒がいました。
3年生から登校するようになりました。
その生徒に対して、青少年弁論大会に出るようにすすめました。
その誘いかけに、最初、その生徒は迷っていました。
学校にくるだけでも精一杯である生徒に、一人でたくさんの人の前で弁論させるのは、生徒の気持ちに寄り添うなら、そっと見守り、極度な緊張感に出会わせることは避けるのがふつうでしょう。
しかし、自分の不登校だった過去を弁論することで、その子に自信をつけることができる。
その信念でその生徒にかかわりました。
その生徒は、出場を決め、練習を重ね、当日立派に自分の歴史を振り返り、将来に向けた展望を、弁論で語ることができました。
臨床心理士をめざし、大学は心理学を選びました。
そういった教師のかかわりは、サポートするというよりは「導く」という言葉がピッタリとくると思います。
これを乗り越えたら本人の自信になる。そして意欲を自分で出すことができるはず。
この熱い思いがその教師を裏打ちしているのです。
教師は、生徒に対して、言葉を正しく使い、その場面にあった表現を使えるように指導するべきです。
授業は公式の場です。教職経験の少ない、若い先生の授業での言葉づかいに対して、先輩教師が指導します。
「〇〇やねん」でなく「〇〇です」と言いなさいと直したりします。
では、次に生徒が使う言葉に対して、教師がどう応対するかについて、考えます。
たとえば、いまの若者言葉(JK語)のひとつに「ぴえん」があります。
悲しいことに出会ったとき「泣く」という意味を表す言葉ですが、多くの教師は、生徒が「ぴえん」と言ったり、書いたりしたとき、注意をして直させるのではないでしょうか。
「悲しかった」とか「残念だった」と言いなさいとか、書きなさいとか。
私も、言葉を直すように指導すべきだとは思いますが、言葉には感情交流ができる役割もあります。
「ぴえん」は泣き声の「ぴえーん」から来たもので、響きがよく、使いやすいし、目をうるうるした顔の絵文字といっしょに使う若い子が多いようです。
感情をうまく伝えることができるので、言葉としては正しくないけれども、感情の交流はうまくできるのでないかと思います。
だから、「ぴえん」は言い方としては適切でなくても、言葉としては「生きている」のでないかと考えられます。
どんなに正しい言葉でも、生徒の心の中に入っていかない言葉は「死んでいる」言葉ともいえるのでないかと思います。
SNSでの誹謗中傷の言葉で、先日、女子プロレスラーが亡くなりました。ひいては昨今の思春期の子どもたちの言葉の問題には、心が痛みます。言葉は人を傷つける「凶器」にもなることがあります。
「受けた言葉は、今までずっと私がいちばん私に思っていました」。体の中から絞り出されたような言葉に、胸がえぐられるようなつらさを感じます。
言葉は、自分が使った言葉がどのように相手に伝わっていくかは、体験しながら獲得していくところが大きいのです。
失敗しながら身につけ、わかっていくのが人間なのです。
ただし、言葉を「凶器」にしてはならないのです。また、たとえ「凶器」として使われることがあったとしても、それをうまくかわせる人であってほしいとも思います。
純粋で心優しい人が、ひどい言葉を全身で受け止めてしまった哀しさがこの事件にはあるように思います。
学校教育の場で、子ども同士があたたかい言葉を交わせるようになるには、教師自身が自分と他者を大事にして、日常生活の中であたたかい心を伝えることができるようになることだと、わたしは思います。
そのモデルをもとにして、子どもは自己を大切にするようになっていくのでしょう。
黒人男性が警察官に首を押さえつけられ亡くなった事件を発端に、アメリカで抗議活動が広がっています。
「人生山あり、谷あり」と言いますが、
「人生の価値とはけっして転ばないことにあるのではなく、転ぶたびに起き上がり続けること」なのでしょう。
南アフリカ共和国の大統領だったネルソン・マンデラが残した言葉です。
南アフリカ共和国では、アパルト・ヘイトの人種差別がかつて浸透していましたが、彼はその根絶に取り組みました。
その反対運動により、捕らわれの身になり、27年間も獄中生活を強いられました。
彼は、それに屈することなく、人種差別を撤廃させました。
私は、「転んだら、なにかをつかんで起き上がれ」をモットーにしていますし、中学生にこの言葉を何度か伝えてきました。
人が一生を過ごすなかで、失敗や挫折は避けることができないでしょう。
その失敗から学ぶとか挫折をバネにして不屈の態度で生きる。
このような教訓を、ネルソン・マンデラが教えてくれます。
新型コロナウイルス感染拡大のための臨時休業で、できなかった授業の時間をとり戻そうと、9月入学を導入しようという案が政府から突然出されました。
検討チームは1か月ぐらいの検討で、首相に導入の見送りを提言しました。そして9月入学案は今年度からでなく、中長期的な課題として検討することになりました。
そもそも政治主導で出される提案(発案といってもいいし、「思いつき」と言ってもいい)は、今回の学校の臨時休校についても同様で、「国がきめたからこうなります」というように国民への影響力が強く、現場が混乱するという危うさをもつことが多くあります。
今回のコロナウイルスに対しては、今まで経験したことのない対応で、学校現場がアタフタとしながら、多忙をきわめているときでした、
そのときに、突然9月入学・始業の制度を導入しようとするのは、学校関係者にさらなる過度の負担と混乱を強いることになるのは、容易に想像できることでした。
ある評論家が、「教育のグローバル化のためには、コロナ禍の今だからこそ、9月入学を導入するのです」という意味の発言をしていましたが、とんでもない話です。
教育のグローバル化のために9月入学を行うのであれば、義務教育ではなく、高等教育で入学・卒業の時期の多様化をはかっていけばいいのでないかと、私は考えます。
それよりも、義務教育では感染予防のための「三密回避」を考えたとき、1クラスの児童生徒数が多すぎることがいちばん大きな問題です。
また、オンライン学習や家庭学習の必要性が今回、クローズアップされました。
その点でも、子どもの学習状況をていねいに把握して、個別の学習ニーズに応えるためにも、1クラスあたりの児童生徒数を減らすべきです。
OECD諸国の中でも、日本の学校のクラスの人数は国際基準に照らしても、多すぎます。
その検討と同時並行で、9月入学を展望していくべきです。
そもそも、9月入学案は、臨教審(臨時教育審議会)で今までに何度も検討されてきたのですが、企業の採用時期、人事面など、ほかの社会システムとの調整が必要と考えられていました。
拙速に小学校から高校までを一気に9月入学に移行させる案は、乱暴すぎます。
それを受ける学校関係者の戸惑いを考慮せず、トップダウンで物事を進めるのでなく、熟慮することで、新しい制度は導入すべきです。
教師はアンテナをもたないとつとまりません。
そのアンテナとは、子どもの心をキャッチするセンサーのようなものです。
生徒の外見的な様子から、「なにかいつもと違う。学校生活や家庭生活で、何かあったのではないか」と気になるセンサーです。
「Aはいつもと様子がちがう。落ち着きがない。なにか心配事でもあるのでないか」
こう思った教師が、その子にアプローチして話してみると、お母さんが病気で入院して不安な気持ちであることを打ち明けてくれるといったケースが実際にありました。
教師の中には、子どもの心の状態を直感的につかむことのできる人はいます。でもそんな人は、ごく一部の教師です。
多くの教師は、日々の教育実践からの経験をもとに、子どもの置かれている状況をキャッチして、その子に必要なサポートや指導をしていくのです。
学校、とくに中学生の場合、十分な信頼関係が築かれていないままに、教師が子どもの心の深い部分にいきなり立ち入るのは、難しいものです。
思春期を迎えた中学生が相手なら、なおさらです。
教師が熱くなり、「さあ、悩みを話してごらん」と促したところで、「ハァ? ウザー!」と言われるのがオチです。
実際、経験年数の少ない教師の場合、無自覚に、土足で生徒の心に足を踏み入れ、生徒との人間関係がまずくなってしまうこともあります。
そこで、どの教師にも実行できるのは、まずは、その子が好きなことや得意なことを聴くことです。
若い教師はまずこれを実行するように伝えています。
どの子にも、それぞれ好きなことや得意なことがあります。それほど突出した才能や知識・技能でなくても、本人がとにかく好きなことや得意なことに耳を傾けることです。
これは、とくに特別な訓練やスキルがなくても、できることです。
そして、生徒が話す内容を、大人の尺度で否定したり、価値判断をせず、いったんは受け入れます。
たとえば、電車・鉄道、クルマ、ロボット、アニメのキャラクター、アイドルオタク、ネット動画、You Tuber、スポーツ、ネイル、ツイッター、スイーツ・・・。
これらは、大人にとっては、とるにたらないものと思うかもしれません。それを長い時間じっと聞くのは、しんどいかもしれません。
それで、相手をこバカにしたように笑うのなら最初から聞かないほうがマシです。
でも、子どもは、自分が語ることを聴いてくれ、共感してくれるおとなに対してはよく話し、またその大人の話もよく聞こうとするのです。
そこから、おとなは子どもとつながることができます。子どもの心の琴線にふれる働きかけができます。