日本国内には、いま在留資格がない外国人の子どもたちがいます。
この子たちは、日本で生まれ育ったのに、不自由な生活を強いられています。
在留資格がなくても、いまの日本の教育制度では学校に通うことができます。
でも、健康保険には加入できず、医療を受けることが困難な状況に置かれます。
また、移動したくても、都道府県を超える移動には入管の許可が必要になります。
日本での労働もできません。日本で働いて活躍する夢をもっていても難しいのです。
国外退去を命じられれば、日本語しか話せない子どもも少なくなく。退去先の国で苦労に直面することにもなります。
そこで今回、在留資格がない外国人の子どもの在留を特別に許可する措置に法務省が着手しました。
ただし対象は、日本で生まれて小中学校・高校に通う子であり、未就学児や高校を卒業している人は含まれません。
子どもの利益を最優先して考えるなら、もっと幅広く特別措置を拡大すべきかと思います。
外国人の子どもが家族といっしょに安心して暮らせるようにするのは、国の責任です。
私は家で野菜づくりをしています。
売りに出すのではなく、畑があるので家庭菜園の延長のようなものです。
かぼちゃの花が咲き、やがてかぼちゃが結実し、しばらくすれば収穫できるようになります。
収穫の目安はがぼちゃの「へた」が茶色に変わった頃です。
今は、黄色の花がたくさん咲いていますが、一つ言えることがあります。
インドの詩人が言った言葉です。
花は その花弁の すべてを失って 果実を見いだす。
花はきれいで、人目を引きます。わたしたちはとかく花びらにばかり目が行きがちになります。
でも、花びらに集中しすぎると、次の果実というビジョンが見えにくくなってしまいます。
野菜づくりの目的は、果実の収穫にあるのです。
ものごとをなす際には、次への移行も考えておかなければならないという戒めの言葉と、わたしは解釈します。
第2次世界大戦の終結から78年が経った今、当時10代だった人も今年で90歳ちかく、または90歳代になっておられます。
学校の平和教育では、戦争の悲惨さや平和の尊さを児童生徒に伝えるとき、戦争体験者の高齢化で、直接当事者から体験談を聞ける機会が減っています。
さらに今後、もっと難しくなることが予想されます。
また、私も戦争は知りませんし、学校教育現場には戦争体験者の教員は一人もいません。
みんなが知らないのです。とくに若い教員が増え、世代交代が進むなか、教員側のとまどいもあります。
このような実態を考慮し、戦争体験を話したり、原爆の被爆伝承を継続していくため、デジタル教材に頼っていくのも方法の一つになります。
長崎市の核兵器廃絶研究センターは被爆体験をデジタル化して教材に役立ててもらえるよう取り組んでいます。
今の児童生徒への平和学習の課題は、日々の暮らしのとの隣り合わせの連続性のなかで戦争体験や被爆体験を学習することです。
「78年前って、こんなたいへんだったんだ(でも、それは昔のことだよね)」と子どもたちがとらえるだけで終わってしまわない学習にしたいわけです。
ところが、考えてみれば広島平和祈念資料館にしても長崎原爆資料館にしても、展示は原爆投下による被害を記録したものがほとんどです。
そこで、長崎のこの研究センターでは、被爆前の人びとの日常生活がわかる資料や写真もデジタル化して、原爆被害の状況と合わせてデジタルで見ることができるように工夫されています。
78年前の戦争を、いまの児童生徒が自分の日常生活に引き寄せて考え、平和の尊さを学ぶかが、学校の平和教育の課題となっています。