箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

修学旅行のゆくえ

2020年08月31日 08時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ
新型コロナウイルス感染症が広がり、全国一斉に学校が臨時休校になったときから、約半年が過ぎました。

早いもので、もう半年です。

その間に、学校では大きな変化が起きました。

児童生徒は家庭でオンライン学習をする。

卒業式はスモールスケールで行う。入学式は時期を送らせて挙行する。

消毒を励行する。

ソーシャル・ディスタンシングをたもち、学校での生活を送る。

部活動も、できるだけ短時間で行う。

さまざまなことを行い、半年が経ちました。



中でも、修学旅行をどうするかは懸案です。
春に修学旅行を予定していた学校は、実施できませんでした。

この秋に修学旅行を行うか中止にするか、自治体や学校は難しい判断を迫られます。

この半年で、実際に、クラスターが発生したケースもあり、たくさんの児童生徒がいっしょに過ごす修学旅行には心配がつきまといます。

大阪府の豊中市は大きな自治体ですが、市内の60校近い小中学校の修学旅行を、すべてとりやめにしました。

移動が長時間になります。また入浴、食事、就寝でも密になることは避けることは難しいと判断したようです。

豊中市だけでなく、他でもとりやめにする学校があり、代わりに、宿泊をしない日帰り行事に変更を決めたりしています。

実施するにしても、もし感染者が出た場合、保護者が迎えにいくことも考慮して、近場で実施するような行き先変更をする学校もあります。

また、ビュッフェ形式の食事をやめたり、鍋料理をやめる、バスの台数を増やしたり、宿泊する部屋の人数を減らして対応します。


多くの人びとに言えると思いますが、学校時代の修学旅行は、一生のかけがえのない思い出として残ります。

また、校長にすれば、修学旅行はふだん話す機会のない子どもと話すことができる機会でもあります。

なんらかの形で、修学旅行を実施するほうが、子どもたちにとってよいのではないかと、わたしは考えます。





自分で考え、自分できめる

2020年08月30日 08時12分00秒 | 教育・子育てあれこれ

中学校では、班ノートや「生活ノート」を行っている学年やクラスがあります。

 

中学生にとって、自分の言葉で様々なことがらについて、自分の感想や意見を書くこと(綴る)ことは、とても大切です。

 

頭の中で考えていることは、それを文字にして表現することで、その考えがはっきりとしてきます。

 

「そうか、わたしはこのことを考えていたのだ」とあらためて気がつくこともあります。

 

また、意識していなかったことでも、書くことではっきりと意識できるようになることもあります。

 

書くことを続けるうちに、思考が深まって、厚みが増してくるのです。

 

ノートは最初はきまりきったことしか書いていませんが、続けるうちに毎日のできごとから、自分がこう思ったという感想や自分の考えを書くように変わってきます。

 

それを読んだクラスメートがまた、別の考えを書いたり、加えたりすることで、書いてもらった生徒はさらに自分の思考を深めていくことができます。

 

わたしは、中学生と接する醍醐味は、自分に関するものごとを、自分にひきつけて考え、どうするべきかという結論や決定を導き出す過程にあると考えています。

 

私が中学3年生を担任していた時、ある男子生徒がいました。その子は勉強はそれほど得意ではなかったのですが、2月の私立高校の入試で「ぜったいにA高校を受けたい」と言っていました。

 

その子のその時点での学力では専願にしたとしても合格ラインには届かない状況でした。


不合格になるのが十分予測できたので、別の私立高校を受験するようにすすめました。

 

しかし、彼の意志は固く、ぜったいに受けたいという考えは変わりそうにもありませんでした。

 

わたしは、そこまで強く思っているのなら受けてみるかと考え「がんばりなさい」と伝えました。

でも、もしだめだった場合、公立高校をどうするかどうするかを考えなさい」と添えました。

 

はたして、やはり彼は不合格でした。

 

合否発表の後、「残念だったね。次の公立はどうする。いままで一生けん命にがんばってきた。ここで進路を決めるんだ。自分が行くところだから、自分で決めるんだ。どこにする」と問いました。

 

彼は「○○高校にする」でした。わたしも合格するだけの学力はあるとみての問いかけだったのです。


でも「あとがない」という状況で、あと約1か月、どれだけモチベーションを高く保ち、本人が頑張れるかという正念場でした。

 

「それでは、おうちの人に話して、相談して、受験校を記入しておいで。そして、本気を出してがんばるんだ」と伝え、帰宅させました。

 

それから、彼は以前にもまして一生懸命に学習を重ね、もちまえの強固な態度でがんばり、その高校に合格しました。

 

いまふりかえって、もし私立入試で希望する高校を受けていなかったら、そのあとの彼のがんばりはなかっただろうと思います。

 

不合格という事実を突きつけられたから、気持ちを切り替えて、次のことを考えることができたのです。

 

中学生にとって、高校受験は多くの場合、初めて決める自分の進路です。もしかすれば失敗することもあるでしょう。

 

でも、自分を見つめ、深く自分のことを考え、自分で決めたことをやり通すことが、先の人生での大きな力になり、責任をもって生きていくことに繋がるのだと思います。

 


出る月を待つ

2020年08月29日 19時06分00秒 | 教育・子育てあれこれ

江戸時代中期の中根東里が次の言葉を残しています。


「出る月を待つべし、散る花を追うことなかれ」


花とは桜と解釈できます。

 

散りゆく花を悲しんでも仕方ありません。それよりも、これから出てくるきれいな月を鑑賞しょう。


こんな意味だと思います。

 

 人の温かさが伝わってくるようです。

 

出てくる太陽の光を待つのではなく、月を待つというのがエネルギッシュではない、穏やかなやさしさに包まれます。

 

「月」は「ツキ」(=幸運)に掛けているのかもしれません。


ギラギラした熱意でなく、自然の流れを待つというマイルドなメッセージを感じます。

 

人生を生きる心持ちとしてとてもステキだと思います。


生きる礎(礎)にしたいものです。


安定した収入を得る仕事

2020年08月29日 06時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ

日本型雇用のいちばん大きな問題点は長時間労働です。他の先進国と比較してもダントツに長くなっています。

その日本型雇用は、おもな働き手が男性であるとジェンダー化して、長時間労働を当たり前にしてきました。

バブルがはじけた後、「多様な働き方を実現します」という名目で、雇用の規制緩和が進み、非正規労働者を増やしてきました。

こうすることで、じつは人件費の削減を狙ったのでした。

今回の新型コロナウイルス感染症の流行で、雇用状況の悪化の影響を真っ先に受けているのは非正規従業員です。

そして、その非正規従業員のなかには、「就職氷河期世代」と言われるバブル崩壊のあと就職した人たちが含まれ、いま30歳後半から40歳代前半の年齢になっています。

一方、今年4月には同一労働同一賃金の制度がスタートしました。

これから正規と不正規の不条理な賃金格差を解消しようとするさなかに、新型コロナウイルスがブレーキをかけました。

それ以前には、日本の企業は、年功序列制度と終身雇用制で、労働者の質と自社への忠誠心を保ち、競争力を保ってきましたが、それは正規雇用者を対象としたものでした。

しかし、今やデジタル化といった産業構造の変化で、必要とされるスキルも変化してきました。

日本はデジタル化への職業訓練が必要なのに、対応が遅れています。

労働者の4割を占める非正規労働者の能力を生かすことが欠かせなくなっているのです。

そのうえで、転職しやすい労働環境の整備や失業時のセーフティネットの充実が必要なのです。

また、流通業や介護、小売業など、テレワークがなじまない職種の場合、多くの労働者が感染するのでないかという心配にさらされながら奮闘しています。

私が教えた生徒たちは、今、働き盛りの年齢になっています。

働きやすく、安定した収入が得られる雇用、またスキルを活かして待遇改善を求めた転職がしやすいなど制度の改善が必要です。

感情と言動は別のもの

2020年08月28日 06時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ



子育てや教育に関わる人にとって大切なこと。

それは、大人が自分の感情に気がついていることです。

感情とは不安、怒り、悲しさ、楽しさ、嬉しさなどいろいろとあります。

しかし感情そのものに価値はありません。

その感情により起こる行動が子どもに対してむけられるとき、それが適切であるか、ないかで、よいか悪いかになるのです。

その意味で、感情と行動は別のものです。

怒りという感情でカッときて、相手を攻撃する言葉や暴力の問題が起きるのです。

授業に集中できず、あたりかまわずおしゃべりをして、正常な授業を妨げる生徒がいたとします。

「静かにしなさい」と教師が何度か注意しました。

しかし、静かにせず、態度が改まらない。

教師に怒りという感情が沸き起こります。

カッとなり、思わずその生徒に手を出し、体罰となります。

この場合、怒りという感情と生徒への暴力は別だということです。


親子間でも同じです。

テスト前なのに、わが子がずっと居間で寝転び、学習に向かうことがない。

イラっときた親が、たまりかねてキレて、子どもの人格を否定するような暴言を吐く。

繰り返しますが、子どもが勉強しないということに腹が立つという感情そのものは「悪」ではないのです。

腹を立てて暴言になることが問題なのです。


イラっときて、言動に移っているとき、私たちは自分の感情に気がついていません。

後で、「しまった」と思うことはあっても、その瞬間には気がついていないのです。

そこで、自分の感情に敏感になると、言動になる前に、自分の感情に気づくことができます。

そのためには、平素から自分の感情をありのまま認めることです。

「わたしはいま、こんな気持ち」と考える時間をもつのです。

「わたしはいま怒りを感じている」と感じている間は、次の言動に移していません。
感情に飲み込まれてはいないのです。

感情は怒りだけではありません。

テスト前に寝転んで机に向かわない子に「大丈夫だろうか」と親が不安になりました。

ところが、子どものその様子をじっと見て、突然「あなたのことはもう知らない。好きにしたらいい」と言い放ち黙ってしまいました。

子どもは「いきなり何のこと?」と思います。

こうなると、親の不安はなくなることはありません。誰にも理解されず終わります。

ところが、「そうやって寝転んでいると、どこか体の具合でもわるいのかと心配だ」と言えば、親が素直に心配していることが伝わるのです。

私たちは、感情をコントロールする習慣を身につけたいのです。



センシィティブな生徒

2020年08月27日 07時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ
学校には、他の生徒なら気がつかないことにも繊細な感覚で気がつく生徒がいます。

この人をセンシィティブ(sensitive)な生徒と呼ぶことにします。

センシィティブな生徒は、相手の気持ちなどに想像力を働かせて考えます。

よく気がつき、対人関係でも気をつかいます。

さらに、深く考える性格になりやすいので、「気にしすぎでないの」と、周りの友だちから言われることもあります。

周りの生徒が、のほほんとしていたら、一人疲れてしまうこともあります。

でも、考えてみたら、生徒は一人ひとり考え方や行動の傾向もちがうのです。

いろいろな生徒がいていいと私は思います。

センシィティブな生徒は、自身の感覚を大切にしたらいいのです。

周りの生徒が平気でも、自分が気になるのであれば、「気になる」のです。

周りな生徒から「考えすぎ」と言われても、考えてしまう。

それが、その人にとっての自然体です。

自分の感覚や直感を大事にすることで、「わたしはわたしでいいのだ」と思えるようになります。

センシィティブな生徒は、周りの人なら通り過ぎてしまうような小さなことにも、喜びを見出したりすることもあります。

道端にひっそりと咲く花をみてきれいだと思います。

先生の服装のちょっとした変化にも気がつきます。

教室の掲示物の押しピンが一つ外れていたら、止めなおしてうれしくなります。

繊細な感性で、ちょっとした変化を味わうこともできるのです。

幸せは本来、主観で感じるものです。

周りから見たらなんでもないことでも、本人がきれいと感じたり、うれしく感じるならそれはきれいであるし、うれしいのです。

自分の感覚や直感を大切にしたらいい。センシィティブな感性が伸びていきます。

そのように、私は思います。

ファッション業界に変化?

2020年08月26日 05時50分00秒 | エッセイ


私は、新しく買った服は、基本的にその年のワンシーズンしか着ないということはしません。

短くても数年間は着ます。

そのため、すぐに形が古くならないようなオーソドックスなものを選んでいます。

ところで、ファッション界では、今から夏本番というときに、早くも秋冬物を発表するのが最近のならわしです。

ところが、今年はちょっとようすが違っていました。

新型コロナウイルス感染防止で、外出自粛が広がり、春夏物の洋服が売れなかったそうです。

人にもよるとは思いますが、ファッションは、世の中がたいへんなときには、優先順位がぞうしても後回しになります。

外出を控えているのに、華やかな服を着て外出する気にはならないというのが、人の気持ちだからです。

ただ、ファッションのサイクルがもっとゆっくりするよう、見直してもいいように感じます。

年に何回もコレクションを開催する必要があるのかとも思います。

次々と新作を発表しても、買う人が少ないのなら、その意義が見つかりにくい。

アフターコロナの時代は、慌ただしく新作を発表する回数を減らしていくという変化をもたらすことになるのかもしれません。

どこへいった キャンパスライフ

2020年08月25日 08時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ
新型コロナウイルスの感染防止のため、4月・5月の休校だけでも、およそ35日休みになり、学校は約200単位時間の授業を失いました。

そのため、夏休みを短縮して、今週月曜日(8月24日)から、2学期を始めた学校があります。

それよりも1週間早く、8月17日から始まった学校もあります。

ただし、それは小中高の学校の場合であり、大学は後期も早々とオンライン講義を決めているところがあります。

大学当局からすれば、在籍学生数が小中高とは比べものにならないほど多いので、もしクラスターが出ればと思うと、なかなか通常講義を再開するとはならないのでしょう。

実際、最近でも関西の大学で、部活動のクラスターが発生したという状況では、学生をキャンパスに入れることに、二の足を踏み、リモート講義の継続を決めるのもやむをえないのかもしれません。

しかし、大学教育の生命線ともいえるゼミや研究活動までも、リモートでやるというのなら、なんのための大学なのかと、私は思います。

新型コロナウイルス感染による大学生年齢の人の致死率は、ゼロに近いと聞き及びます。

それでもキャンパスを閉ざすのがいいことなのでしょうか。

それに対しては、「学生自身は大丈夫かもしれないが、周りの大人に感染させるかもしれない」という声が聞こえてきそうです。

そうです。その通りです。

ただ、とくに1回生の人は4月から大学生になったのに、まだキャンパスに入れていない人があまりにも多いのです。

教員は、学生との信頼関係のないところで講義を行い、単位を認定する。

学生の側からすれば、1日のほとんどを「知らない先生」を相手に、ひたすらパソコンから流れ出る情報に、淡々と接する。

それが大学生活だとすれば、あまりにも無味乾燥しすぎていると思うのは、私だけでしょうか。

自分が教師だから思うのかもしれませんが、大学とは師を慕い、友人をつくり、学食で食事をして、サークル活動を楽しみ、恋もするというかけがえのない場です。

このようにして、大学での学びが成立するはずなのです。

それを楽しみに大学生になったのに、学生にとっては、あまりにも理不尽です。

大学当局は、ひたすら「自粛」にベクトルが働くのが仕方ないとするのなら、政府が明確な方針をしめすべきです。

なんでも「大学の自主性と決定にお任せします」のではなく、大学生にとって貴重なキャンパスライフをどう保障するかを方向づけるべきではないでしょうか。


自分の欠点を知ってから

2020年08月24日 08時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私たちは往々にして、他者が完全であることを求めますが、自分自身の欠点を正そうとはしないものです。自分の欠点に気がついていないことさえあります。

学校では、ときどき先生が児童生徒に「こうするべきでしょう」「なぜそうしないのだ」と「指導」している場面があります。

「職員室に入るときは、何の用件か言いなさいと言っているだろう。黙っておらず言いなさい!(怒)」


生徒がそのようにできていない点を正そうとするのにやっきになり、言っているほうは、「これが子どものためだ」と思って、熱心に言っていることがうかがえます。

しかし、そんなとき、わたしはふと考えることがあります。

「では、あなたは同僚に必要な用件ちゃんと伝えていますか」と思うのです。

とくに、指導するのが仕事であり、教師としての使命だという思い込みの強い人は、自己反省が必要です。

「生徒にそれを言うなら、自分がやっていることをいうべきです。
自分ができていないことを生徒に求めてはだめだ。
それができている人かそうでないかは、中学生になるとちゃんと見抜きますよ」。

他者に説諭したりアドバイスしたりすることが相手のこころに届くのは、その言葉に話す人の生き方や所作など、リアリティが反映されているからでしょう。

べつにこれは、教師と児童生徒の関係でなくても、親子関係、また一般社会の人間関係ても同様だと思います。

まず、自分自身をよく見つめ、できていることとできていないことを自分で認知しておくことが必要だと思います。

ひとすじの気持ち

2020年08月23日 12時49分00秒 | 教育・子育てあれこれ
人間の世の中では、新型コロナウイルス感染対策で、ああでもない、こうでもないと、たいへんです。

でも、そんなこととは関係なく、花はいつものようにきれいに咲き誇っています。

花はなぜ美しいのか。

それは、ひとすじの気持ちで咲いているからです。

ならば、人間も世の雑多なことから少し離れて、ひたむきに、自分が大事だと信じることや活動にいそしむことがいいのではないでしょうか。

中学3年生は、部活の引退時期です。

臨時休校で、3月から十分には活動できなかったかもしれない。

その残念さを想うと、胸がいたみます。

でも、ひとすじの気持ちで努力を続けると、いつか大きな花が咲く。

就職氷河期世代はいま

2020年08月23日 06時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ
私が教員として担任した生徒たちの中には、いま30歳代後半から40歳代前半の年齢になっている教え子がいます。

この人たちは、日本がいわゆる「就職氷河期」に就活をした、「勝ち組」・「負け組」世代にあたります。

その教え子の近況は、社会で活躍して、高収入を得ている場合もあります。

でも、その一方では、非正規雇用、派遣で働き、派遣切りにあいやすいなど、不安定な就労状況にある人も少なからずいます。

日本経済でバブルがはじけ、「失われた30年」と言われた停滞期に就職しようとした世代にあたります。

今、社会では、この世代の人たちが「行き場所」が見つかりにくいという現実があります。

少し話ははずれますが、その後、2000年を過ぎると、SMAPの「世界で一つだけの花」がリリースされた頃から、時代は変わりました。

「ナンバーワンにならなくていい、あなたはもともと特別なオンリーワン」という歌詞が、その時代を端的に表していました。

それとともに、好きなことを仕事にするという価値観がもてはやされたように思います。

しかしながら、就職氷河期世代の人たちは、いま、好きなことを仕事にするというよりも、何よりも安定した仕事に就き、長く働けることを望んでいます。

それなのに、社会はその人たちに「積極性が足りないね」というまなざしを向けるのです。

その人たちに責任を押し付け、努力が足りないからと、自己責任にかえし、解雇します。

そうではないと、私は思います。

少なくとも、私が教えてきた生徒たちは、中学生時代に、将来を夢みて、努力をしてきました。

そもそも、「就職氷河期」は、社会のしくみが生み出したのです。

そのしくみが、この世代を不安定な就労に追いやっているのです。

気になるのは、今回の新型コロナウイルスが不安定就労に拍車をかけないかという点です。

社会のしくみが生み出した問題は、公的なサポートとセーフティネットが用意され、就労を政府が保障すべきです。

そして、安定して仕事に従事でき、長く働けるように、社会全体で支えていくべきです。

身体の感覚を取り戻す

2020年08月22日 09時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ

猛暑が続いています。多くの人が口を開けば「暑い」です。
街での生活は、一日中エアコンが効き、一定の室内温度をキープしてくれます。

こうなると、自分の身体が感じる感覚が働かないのです。

だから、一歩外に出ると暖気で身体が覆われ、紫外線がジリジリと照りつけ、思わず「暑い」と言う。


都会を離れ、田舎の自然の中で暮らす生活はどうだろうか。

たしかに暑い。

でも、花が揺れる
鳥が鳴く
風が吹く
月が照らす。(花鳥風月)

自然の中にいると、身体が自分で周りの気温に合わせ、調子を整えようと働きだす。

それで、自分にとっての「普通の」体調がわかるのだ。

自分の身体の感覚を大切にしたい。

子どもを見守る

2020年08月22日 06時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 子育ての極意としてよく、親に語られる言葉があります。 
 
・乳児からは肌を離すな
・幼児からは肌を離し、手を離すな
・小学生からは手を離し、目を離すな
・中学生からは目を離し、心を離すな 
 
年齢が上がるにつれ、子どもの養育には「見守る」ことが必要になってきます。 
 
この「見守る」ということは、教職経験からも感じますが、けっこう難しいものです。 
 
思春期の中学生には、あまり「これはしないように」とか「こうしなさい、ああしなさい」と干渉しすぎず、見守るべきです。 
このように、私も言います。 
 
では、具体的に考えます。
 
たとえば、校外学習でクラスレクを芝生の上でやっている自分のクラスの子を、学級担任の先生が「見守って」います。
 
①このとき、事故がないように、またクラスのみんなが楽しみ、仲間関係を深めることができることを願っている担任。 
 
②誰かがちょっかいを出して、友だちを困らせていないか、またクラスを抜け出してさぼらないかと心配している担任。 
 
もちろん、両方の場合もあるでしょうが、 ちがいを明確にするため、①と②の両極端で考えます。
 
の場合を「見守っている」、②の場合を「監視している」というのかもしれません。
 
では、両者は何がちがうのでしょうか。 
 
これは、端的に言うと、子どもを信頼しているか、いないかのちがいです。 
 
「あの生徒たちなら、大丈夫。仲間を大事にして楽しんでくれる。任せておける」
 
「あの生徒たちはさぼって抜け出し、よからぬ問題を起こすかもしれない。よくみておかないと」 
 
この「見守り」と「監視」は、親御さんの子育てにも当てはまります。思春期の子どもを育てる極意は、「監視」ではなく、「見守る」ことが肝要です。 

ウイルスへの不安を消すには

2020年08月21日 08時09分00秒 | エッセイ
新型コロナウイルスが流行り出した4月・5月ごろ、テレビではたくさんの人がいろいろなコメントをしていました。

新型コロナウイルスに関する情報が錯綜して、私たちの不安を掻き立てました。

政治家や医療関係者、大学の研究者、司会者、コメンテーターなどが、それぞれの視点から新型コロナウイルスについてのコメントを発していました。

(今もそうですが。)


しかし、ここで忘れてはならないことがあります。

政治家が考える新型コロナウイルスのこわさと私たちが感じているこわさは同じではないのです。

政治家は経済や景気対策のことを考えています。

また、別の人は科学的に新型コロナウイルスの脅威や医療のことを考えています。

でも、私たちは日常の生活がどうなるかを考えています。

テレビで話している人と自分の視点は、最初から違うのだということをわかっていないと、情報をちゃんと取り入れているのに、不安感がなくならないと、焦り出します。

すると、わからないウイルスへの不安はますます大きくなるのです。

つまり、溢れる情報の中で、何を信じるのかは、自分で見つけるしかないのでしょう。

情報をそのまま鵜呑みにせず、情報をもとに自分で考えること。

それがいたずらに不安に振り回されない心得です。


自然の中で暮らしていると、さまざまな情報に振り回されずにすみます。

新型コロナウイルスが拡大していても、自然の中では、変わることなく、
セミは鳴いています。

鳥の鳴き声も聞こえます。

夏草は繁ります。

雨は降ります。

小川のせせらぎの音が聞こえます。

風が吹きます。

月は輝きます。

そこには、変わらぬ自然の日常があります。

不思議と心が安寧に落ち着き、不安が消えていきます。



悩んで迷うのがおとな

2020年08月20日 07時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ



子育ては迷いと悩みの連続であると言えるでしょう。

社会が変わり、親は自分がしてもらった子育てを思い出しても、いまの子育てには役に立たないことも多いです。

わたし自身も、わが子のことで、こんなことがありました。

高校生で、一人で東京までライブへ行きたい。

許していいのか、よくないのか。

上の子は言わなかったようなことを、下の子が言います。

最初聞いたときは、あかんと感じましたが、はたしてそうだろうかと思い始め、最終的には認めました。

最初からダメと言っていれば、ダメなものはダメ、そんなことを考える相手の問題にできます。

それとも、認めないのが固すぎるのか。

こういうことを考えるのは、けっこうエネルギーがいります。

この例だけでなく、子どもの成長過程で、何か課題や心配事を感じたとき、親の育て方に問題があったのか、それともその子をとりまく生活環境に問題があるのか。

とくに中学生のような思春期の子どもの場合、親の悩みや迷いは尽きません。

ただし、悩みや迷いのあることが問題ではなく、その課題に目をそむけ、ちゃんと悩まない、ちゃんと迷わないことが問題なのです。

考えてみれば、家庭には、母親が育てられてきた歴史があり、父親にも育てられてきたという別のヒストリーがあります。

その両方を織りなして、わが子の子育て術を編みだすのが家庭です。

そもそもが、自分に刻みこまれているヒストリーが違うのだから、意見や考えが一致せず、悩みや迷いが生まれるのは当然です。

親が自分が受けてきた子育てを思い出しても、役立たないことが多いので、一つひとつ父親と母親が話し合って決めていかなければならないのです。

こう考えると、子育てはけっこうたいへんなのです。

でも、考えてみれば、人が生きていくのは悩みと迷いの連続です。

それをもちながら、我慢して、耐えて、いろいろやって生きていくのが「おとな」であるのかなと思います。