今後AI翻訳が改善され、翻訳家の仕事を脅かすことになり、普及すれば単なる道具として英語を学ぶのではなく、言語を通じて異文化を知り、相互理解を深めるという少し前の外国語教育のあり方に戻るのではないかと思います。
また、語学を英語に特化する必要もなくなると思います。
作詞:秋元康 作曲:伊藤心太郎
やさしい瞳で
叱ってくれたね
あなたは
母親のように…
まわりの大人は
あきらめてたのに
どうして
名前を呼んだの?
路地裏のネオン
雨に打たれた猫
荒んでた心に
希望の光が射す
もう一度 生きようか?
ここから抜け出すんだ
ボロボロの過去なんて
捨ててしまおう
もう一度 生きようか?
未来は外にあるよ
眠ってた魂は
最後のカタルシス
少ない金貨を
握らせてくれた
あなたに
返しに来るから
道のゴミ袋
誰かの怒鳴り声
望まれず生まれて
望まれる夢を見てた
俺なりに生きてみる
やりたいようにやるさ
この世に正解も
間違いもない
俺なりに生きてみる
何かが始まるだろう
傷ついたその分だけ
祈りはカタルシス
もう一度 生きようか?
ここから抜け出すんだ
ボロボロの過去なんて
捨ててしまおう
もう一度 生きようか?
未来は外にあるよ
眠ってた魂は
最後のカタルシス
俺たちは生きるんだ
たとえ何があっても
そのドアを開けてみろ
すべてはカタルシス
カタルシス(catharsis)は、浄化と訳されることが多いです。
心の奥底にしずんでいたネガティブな感情を吐き出して解放して、重くイヤな気持ちを浄化します。
今の学校では、教師は忙しく、児童生徒とゆっくりと時間をとって話す余裕がありません。
わたしが教師になってしばらくは、土曜日にも授業が午前中だけありました。
それは、完全学校週5日制が導入された1992年より以前のことです。
土曜日の午後からの時間は、ほんとうにゆったりと時間が流れていました。
中学の場合なら、ゆっくりと昼食をとって午後からは部活にいそしむ。
そのような教員生活を送っていたのを思い出します。
しかし、その後は、学校に求められる教育のとりくみ課題は肥大化し、社会からの要請もあり、「これはしなければならない、あれもしなければならない」となり、業務量が増えてきています。
授業の準備も、学校行事の準備もあり、本来の仕事の一つである生徒との対話もままならないのです。
そのようにして小学校6年間を終え、思春期を迎えた生徒(中学生)は、心が揺れ動く、変化の大きい年齢になっったときに、教師に自分の悩みや困りごとを相談することを知りません。
つまり、「先生は相談できる相手である」という認識をもっていないのです。
それにくわえ、いまは教師自身も「話ができる人間関係」を求めていないかも知れません。
そこで、生徒にすれば「先生に相談してどうなるの?」となります。
生徒にとって、それだけの存在にもなっていないのかもしれません。
でも、わたしが知っている限り、「先生に助けられた」とか「先生に救われた」という実感をおとなになってももっている人は、じっさいにいます。
どんなに忙しくても、生徒の話を聴き、生徒の相談相手になることは、教師である以上は必ず求められる業務だと思います。
教師の存在意義は、ここにあります。
そして、英語による授業が行われ、日本人の学生にとっては、各国から集まった学生に囲まれ、世界の共通語である英語を身につけることができると意図しているのが、最新の大学情報です。
しかし、長年英語教育にかかわってきたわたしから見ると、英語は使えるにこしたことはないですが、グローバル世界や国際世界で活動するには、それだけでは不十分です。
世界や国際的に通用する人権感覚・人権意識を身につけていないと、立ち行かなくなります。
国連の人権理事会が、日本に是正を勧告している案件が多数あるのが現状です。
英語が使えるだけで、コミニケーションができると考えるのは早計です。
国際的に通用し、活躍できる人材は、人と人との間の良好な人間関係を築くことができる人です。