箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

親の失敗談を楽しく語る

2015年06月28日 12時25分58秒 | 教育・子育てあれこれ


日常の家庭生活を送るうえで、親が子どもに話したいことはいろいろあるでしょう。

しかし、中学生になると、子どもが素直に親の話を聞くことが減ってくることは多々あります。

特に、親からの説教じみた話は、はっきりと「聞きたくない!」と言い放つ子もいます。

また聞いているように見えても、心の中では反発を感じて、受け入れようとしない子もいます。

そのような状況ですので、親や教師というおとなからのダラダラとした長い話や、説教じみた話や経験談などをされると、子どもはとくにイヤがるようです。

そういった話には飽きており、「ホラ、始まった」「ハイ、ハイ」となりかねません。

それでもめげずに、一方的に話し続ける人なら、それはそれで貫き通せばいいのです。
しかし、もしあなたができるだけ子どもに話を聞いてほしいと思うなら、工夫がいるようになります。

工夫とは、親が笑い飛ばせるような自分の失敗経験をおもしろく、明るく話すことです。話しだしたはじめのうちはぎこちなくても、だんだん相手がのってくれば、話す方も楽しくおもしろく、おかしく話せるようになります。

たとえば、こんな失敗体験談。

「やっと念願のアーティストのライブに行けると、仕事が終わってすぐ飛び出したんや。あわててライブハウスまで一直線でかけこんだ」

「受付でチケットを差し出した。
すると店の人がなんて言ったと思う?」

「お客さん、これは明日のライブのチケットですよ」

「・・・。そうやった。その日は別のアーティストのライブやったんや」

「やってしまった!」・・・呆然と立ちすくんでいる。

「それで、父さんはトボトボ帰ってきたの?」

「と思うやろ。ところがや・・・」

「お客さん、せっかく来られたし、今日のライブならいくつか空席もあります。値引きして入ってもらえますよ」

「なんと、2000円引いてくれて入れたんや」
「それで、値引きしてもらったうえに、2日間も連続してライブに行けたんや」

「すごいやん、父さん。よかったやん」

「そうやろ!」・・・。

このような失敗経験の話は、教訓を含んだ言葉や子どもの心に働きかけるメッセージを入れなくてもかまいません。

思いもしなかった学びを子どもがすることもありますし、何かに気づく場合もあります。

笑いは話の潤滑剤です。笑いは人の心をなごませ、明るくします。それは、話す相手が思春期の子どもでも同じです。

生徒が集まってくる教員の特徴は、いつも笑顔で接してくれる先生です。

三中生の保護者のみなさん、子育てをしていると、腹立たしいこともあるでしょうが、ニコッと微笑み、楽しく、明るく、面白くお子さんと接してみてください。

柔らかく、力強い中学生

2015年06月21日 17時06分56秒 | 教育・子育てあれこれ

今日、大阪府中学生演劇祭が大阪市立平野区民ホールで開催され、箕面三中の演劇部が、出場しました。

私も応援に行ってきました。
開演前に舞台を訪ねると、「あっ、校長先生!」と喜んでくれます。
ねぎらいの言葉を、部員たちにかけ客席に戻りました。

三中は午前中一番の出演で、創作劇「芽衣子とびんのふた」を演じました。

この創作劇は、部員の女子生徒が全部書きあげ、おとなの手は入っていません。

学校は同じことの繰り返しでつまらないと、登校したがらない愛利に、おばあちゃんが70年前の第二次世界対戦の頃の、自分の少女時代をかたりはじめます。

その少女は二人姉妹で、父にはある日、赤紙が届き出兵。病弱の母は寝たきりの状態。
一人田舎に疎開する少女に、家族はびんのふたをわたします。つらいことがあったら、このびんのふたを見るんだよと。

終戦を迎え、わが家に戻った少女はぼう然と立ちすくむ。家は跡形もなく、無くなっていた。家族はみんな亡くなり、一人ぼっちになってしまった少女。

そして、その少女は戦後70年を生き抜き、いま孫の愛利に自分の半生を語っている。

このストーリーを、三中演劇部の生徒たちが演じました。
彼女たちは、遠い70年前の人びとの心情や願いに、一生懸命に思いを馳せ、見事にそれぞれの役割を演じました。

劇の最後では、おばあちゃんからびんのふたを託された愛利が立ち上がり、普通の生活ができるありがたさを感じ、「わたし、明日から学校へ行くね」と告げる。
その愛利ね手のひらには、びんのふたが、キラキラと光っている・・・。

わたしは、涙を流しながら三中の子が演じる劇を見ていました。

中学生と接していて、いつも感じることですが、彼女たち/彼たちが本気になって、ひたむきに物ごとに取り組む態度は純粋で柔らかく、力強く、感動を与えてくれます。

この柔らかく、力強い中学生の態度に、いままでどれほど自分自身が、励まされきたことか。

劇が終わってからは、舞台と演劇を陰で支えてくれた下級生とキャストの演劇部全員に、顧問3人、演技指導でいつもお世話になっている前山さんが一堂に会して、集合写真を撮りました。

素晴らしい創作劇をありがとう。

親は子どもの「安全基地」

2015年06月20日 09時48分32秒 | 教育・子育てあれこれ


学習からの逃避、非行・問題行動、いじめ・不登校など、子どもの問題に直面するとき、おとなは困ります。

そして、その子は「困った子」や「たいへんな子」と、とらえられるようになります。

つまり「困ったこども」は、親や学校の先生のような、おとなにとっての困った子どもを指します。

しかし、見方を変えれば、「困った子ども」は、その子自身が困っている子どもです。

つまり、その子どもは困っているからこそ、「助けてほしい」というSOSを学習逃避、非行・問題行動、いじめ・不登校というカタチで発しているのです。

したがって、おとなが子どもの困り感を聴くことで引き出し、それに共感し、子どもへの応対や接し方をかえていけば、こどもは「わかってくれた」という思いをもち、困った問題は落ち着いてきます。

ただし、問題の中でも、重度で深刻な場合は、なかなか解決策が見つからない場合も多くあります。

暴力や窃盗などの触法行為を繰り返す子どもの場合、その対応は一筋縄ではいかず、親や教師は悩みます。

とくに親は、わが子の問題行動に驚き、悲しみます。その親の感情を誰かが聴いてくれればいいのですが、そのような人が周りにいないときには、驚きや悲しみの感情は固定化されます。

また子育てがうまくいかない悩みは、やがて怒りに転化することもあります。あきらめ・無力感になるときもあります。

そして怒りは、他者への強い攻撃性となって表れる場合もあるようです。

また、あきらめや無力感は、うつ病などのメンタル疾患となり現れることがあります。

悩む親御さんには、サポートが必要です。三中でも、教職員はなんらかの力になれないかと思い、かかわりをもとうとしています。

学校の教職員だけで力が足りないときには、スクールカウンセラーの臨床心理士やスクールソーシャルワーカーの社会福祉士などの専門家や相談機関、関係機関等に支援を手伝ってもらいます。

また、同じ悩みを持っている人たちが集い、悩んでいるのは自分だけでなく、ほかにもいるという気づきをもち、思いを共有して、ともに問題の解決にアプローチしていくサークル等の活動もあるでしょう。

そして自信をなくしている親に、「大丈夫ですよ、あなたなら」というメッセージを、教育関係者が発していくことができるなら、親の子どもへの見方やまなざしが変わります。

それはきっと親子関係にいい影響を与えていくことでしょう。

親は、子どもの安心感を引き受ける「安全基地」です。

子どもはいずれ親の元から旅立っていきます。思春期の子どもの特権は未来をみる力にあると考えることができます。

しかし、子どもが成人してからふりかえってみれば、そこに親がいた。このように、親とは子どもにとっての過去に存在するものなのかもしれません。

親は、つねに子どもへの不動の態度と無償の愛をもって存在しているのです。

壁紙などにお使いください

2015年06月19日 23時28分24秒 | 教育・子育てあれこれ

修学旅行の写真で、私が撮影したものからベストショット?を選びました。
保護者のみなさまで気に入った画像があれば、自由にダウンロードしてください。


修学旅行1日目 平和祈念公園に広がる天空の青空。心が洗われるようでした。その青空のもと、大合唱。


修学旅行2日目 ホテルから見えた海に沈む夕陽。じつにきれいでした。
Sunset Beach


那覇空港から大阪空港に向かう飛行機から撮影した夕陽。下には雲海が広がっています。


本当の意欲は、子どもの内側から湧くもの

2015年06月13日 11時18分34秒 | 教育・子育てあれこれ


三中の部活動では、たいへん一生懸命に、夢中になって練習に取り組む態度を見せる子どもがいます。

たとえば吹奏楽部で、おとなが「すこし休憩する?」と尋ねても、「いえ、まだやります」と楽しそうで、夢中になって楽器に向かう様子が伝わってきます。

このとき「ただ楽器を吹くのが好きだから」というモチベーションが、その子を支えています。

さて、このモチベーションは専門的には、「内発的動機づけ」といいます。内発的動機づけとは、その子の関心や「好き」という気持ちによって湧き上がる動機です。

一方、「外発的動機づけ」とは、(言葉は適切でないかもしれませんが、)いわゆる「馬の目の前にニンジンをぶら下げる」という動機づけです。

「今度のテストでがんばったら、ほしいものを買ってあげる」とか、「勉強しないと、いい高校へ行けないよ」のように、ごほうびや罰でヤル気を起こさせるものです。

たしかに外発的動機づけが有効な場合も多くあるのは事実です。実際、外発的動機を抜きにしては試合や大会に臨めないこともあるほどです。

しかし外発的な動機づけは、長い目で考えると弊害も出てきます。

自分が楽をして得をする方法や、うまく手を抜くことを覚えてしまうというマイナス効果を生むことがあります。

部活動の場合なら、顧問や指導者がいないと、努力しない、自分から進んで練習に励まないという子どもになってしまうこともあります。

さらに、何よりも大きな弊害は、チャレンジしないおとなになってしまうという危惧です。

今の時代、これからの時代を生きる子どもたちにとって、もっとも必要なチカラのひとつは「チャレンジ力」です。

変化の激しい社会にあって、今のままでいいと現状を維持しようとしても、まわりは動いて、変化しています。ですから、「現状維持は、実質後退」なのです。

実際、研究者からも、外発的動機づけをされた集団よりも、内発的動機に支えられた集団の方が、高い効果を得ることができるという見解が示されています。

ですから、部活動やでは、部分的に外発的動機づけを取り入れながら、本質的には内発的動機づけを重視する練習を行うことが大切なのだと思います。

内発的動機で支えられた子どもは、湧き出るバイタリティを持ち、努力することを惜しまない「最強の子ども」なのです。

ご家庭でも、子どもに対して、外発的動機づけを上手く使いながら、本質的には内発的動機で、内から湧きあがる意欲を引き出して高めていくことが、子育ての要所です。

罪を憎み、人は憎まない

2015年06月09日 20時36分37秒 | 教育・子育てあれこれ


「罪を憎んでも、人を憎まない」は、博愛主義的な言葉ですが、じつは子育てや教育にも通じる真理です。

次の二つの親からの言葉の例で、考えてみます。

🔵「中学生だけで、キャンプに行くって髪 ? そんな子にロクな子はいないのよ。そんな子は不良よ」

🔵「あなたのような物わかりのいい子が、子どもたちだけでがキャンプに行くって? それはお母さんは認められないね。よく考えてくれたらうれしいんだけど」

この2つの言葉は、よく似ているようですが、意味がまったくちがいます。

前者の言葉は、子ども自体を否定します。しかし後者は、その子の行動のみの否定です。

🔵前者の言葉を言われた子どもは、自分自体が否定されていると感じるでしょう。そうなると受け入れられていないと思い、自己肯定感(自分が大事という感情)を下げ、自信をなくしていきます。

このように、おとなは、とかく子ども自身を否定する話し方やしかり方をしてしまいがちです。

まして、いまの子は傷つきやすくなっています。かりにおとながその子自身を否定するつもりがない言い方をしたとしても、子どもは自己を否定されたと捉えてしまいがちです。

思春期の子どもの問題行動は、このような子ども自身を否定する言葉により始まり、増幅されることを、おとなはもっと自覚する必要があります。

🔵一方、後者は、まず最初に、「いい子であると思っているよ」と伝え、その上で「~すると(私は)うれしい」という気持ちを添えています。

同様に「~してくれてありがとう」「~すると悲しい」などのおとなの感情を添えることも、行動を評価する伝え方になります。

また、後者の言い方で、おとなが行動そのものを評価して、感情を添えることにより、子どもはどのようにすればまわりの人が喜んでくれるか、どのようにしたら悲しませるのか、何をすることで相手から感謝されるのかという、微妙な感情への働きかけを学ぶこともできるのです。

罪を憎んで(行動を否定して)、人を憎まない(子ども自身を否定しない)というのは、子育て・教育において実行すべき、大切な心得です。

(続)不登校の子に親ができること

2015年06月03日 10時14分31秒 | 教育・子育てあれこれ


前回のブログでは、「不登校の子に、親ができること」を掲載しました。
今回は、その続きとなります。

前回、私が出会った不登校の生徒のお母さんのエピソードを紹介しました。

「『もう今のところ、この子は、学校へ行かなくてもかまわない』と私が思い始めた頃から、家での子どもの様子が落ち着いてきました」

このように、わが子の不登校を経験したうえで、それをのりこえてきたお母さんが語っておられました。

そのお母さんは、さらにもう一つ、大切なことを述べておられました。

「わが子が学校に行かなくなったとき、私も悩み、焦りました。家庭では、たいへんな毎日がしばらく続きました。

でも、あるとき、近くに『不登校の子の親の会』があることを知ったのです。
その会で、わが子が不登校になっている、ほかの親御さんと出会うことができました。お互いに悩みを話す内に、私は『悩んでいるのは自分だけではないのだ』と思えたのです。」

そのお母さんは、続けました。

「これだけでも、いくぶんか心が軽くなりました。その上、その会の紹介で、専門の先生に相談にのってもらうことができました。『学校に行かないこの子は、今、心を休めている時期なんです』・・・。

だったら、今は学校に行かなくてもかまわない。相談のあと、このように私は思えるようになったのです。」・・・・・・・・・・

お母さんのこの言葉は、「不登校の子に、親ができること」の重要なヒントを示唆しています。

その一つは、⑤親が一人にならないこと、家庭が地域と孤立しないことが、不登校の子どもを支えるということです。

子どもが不登校になった親は、ほかの子どもが元気に学校へ行っている様子を見て、ある意味で肩身の狭い思いをしていることもあるでしょう。あまり外に出たくないという気持ちにもなるかもしれません。

でも、このお母さんはちがっていました。ちょっと行ってみようと「不登校の親の会」に参加しました。

また、お父さんは地域でのスポーツ活動に関わっていました。お姉さんは、「普通に」学校生活を楽しんでいました(もちろん、不登校の弟のことを、気にかけながらですが)。

さらに、私が出会った別の不登校の子がいました。この子のお母さんは、「子どもが学校に行っていないから、私だけでも学校で何かやらないと・・・」といって、中学校のPTAの委員を積極的に引き受けてくださいました。

このように、家族がふだん通りに生活し、家庭外の人との人間関係を絶やさないようにすることで、様々な人からの協力を得ることもできるでしょう。

そのような親の姿勢が、いかに不登校の子ども本人の心(自分のせいで家族を苦しめているという思いこみ)を軽くすることかと、私はしみじみと思います。

そして、⑥親が、専門の先生(SCなどの臨床心理士や心療内科の医師など)に相談することも有効な手立てだと思います。

もともと、不登校は、いじめと同様に、どの子にも起こる可能性があるという認識が必要です。

いまの世の中を生きる子どもは、様々な矛盾の中で生きています。人と人との関係が薄くなり、自分のことだけに関心が向きやすいという社会状況も子どもたちに影を落とします。

また思春期ともなると、理想と現実のギャップに直面し、思い悩むこともあるでしょう。
三中生にもあてはまることですが、ある意味で、「中学校は悩むのが仕事である」とも言えます。

不登校の子は、そのような現代の社会の矛盾に、ほかの子どもより少しだけ敏感に反応し、翼を休めて、家にいるという選択をした子どもたちであると考えることができます。

この点で、不登校の子は、ほかの子どもたちよりも感受性の鋭い子どもたちである、と見なすこともできるでしょう。

このようなアドバイスを、専門の先生は、されたのかもしれません。先のお母さんは、専門の先生からアドバイスを受け、今のわが子の状態を理解でき、納得して、「いまは学校に行かなくてもいい」と感じられたのでしょう。

結果的に、私が出会ったお母さんの子どもは、中1の途中から不登校になったのですが、不登校を乗り越え、中3からほぼ毎日、学校へ来れるようになり、高校進学を果たしていったのです。そしていまは保険会社の営業の仕事をしています。

不登校の克服には、長い時間がかかることもあります。しかし、その子のことを気にかけ心配し、親をはじめとする人たちが気長につきあって、かかわっていくことで(このことは、どの子にとっても重要ですが)、再登校の道は開かれていくのです。

不登校の子どもに親ができること

2015年06月01日 21時40分08秒 | 教育・子育てあれこれ


不登校になった児童・生徒の気持ちを聞いてみると、「登校したいけれどできない」とよく言います。

この意味で、ずいぶん前には学校に行かない学校不適応状態を「登校拒否」といっていましたが、いまでは学校に行かない状態という意味あいで「不登校」といういい方が一般的になっています。

まず、おことわりしておきたいことは、不登校になる子どもは、特別な子どもであると、私は決して考えていないということです。
つまり、いまの複雑化した社会や人間関係においては、どの子も多かれ少なかれ不登校になる芽はある、という認識をもっているということです。

不登校を引き起こす理由や原因は、一律でなく、生きた生身の子どものことですから、子ども一人ひとりで異なります。

ですから「こうすればよくなる」という、どの子にもあてはまる「処方箋」などありません。不登校に対しては、子ども一人ひとりにあった対応や支援が必要となります。

さて、子どもが不登校になり、学校へ行かなくなると、親は焦ります。「何が理由や原因なの? 言ってごらん」と子どもに迫ります。

しかし、この質問は不登校の子にとっては、非常につらいものですし、あまり意味のある質問ではないと考えています。

というのは、不登校の子自身にも、なぜ学校に行かないのかが十分わかっていないことが多いからです。

このことを説明できるようになるには、もっと時間がかかります。

子どもが自分のことを深く見つめ、客観的に過去の自分と今の自分とのつながりの中で、何が理由だったのかが意識されてくるからなのです。

そもそも、これが意識されるようになれば、子どもは学校へ再び通いだすこともよくあります。

かりに、子どもがなにか理由や原因らしきことを言ったとしても、それは自分でも深く考え、分析できないままで、言っている場合が多いのです。

ですから、不登校になった子どもに対して、親ができることは、①理由や原因(過去)を問いつめるではなく、どのようにすれば学校へ行けるようになるのか(未来)を、子どもと話し合うことです。

どうしたら行けるようになるか、私にできることは何かあるのかな?」と、親が子どもに聞きながら話し合うのです。過去に引きずられた否定感ある状態よりも、肯定感のある未来を思い描かせることが、子どもに変化を起こすことはよくあります。

さらに、親がやるべきことは、②登校するかどうかは子ども自身の決定に委ねることです。「とにかく学校へ行きなさい」と無理矢理行かせても、ほんとうに不登校になっている子には、長続きしません。ですから、登校するかどうかを、子ども自身に決めさせるのです。

そして、③家での過ごし方も考えさせ、親子で決めます。「学校に行かないというのはわかったけれど、家での生活はふだん通りにしてよ」と、子どもと約束します。

これは、不登校の子は昼夜逆転が起こり、生活が不規則になることが多いからです。朝はきまった時間に起き、食事もちゃんととり、就寝する時間も一定にして、いつでも学校に行ける状態を維持しておく必要があります。

さらに、④親自身が焦らないことも大切です。親が焦って子どもを学校に行かせようとすると、子どもにその気持ちが伝わります。そして、「親を困らせているのは、自分のせいなんだ」と子どもは感じ、よけいに自信を失っていきます。

実際私が過去に出会ってきた生徒のお母さんは・・・、

「『もう今、この子は、学校へ行かなくてもいい』と私が思い始めた頃から、家での子どもの様子が落ち着いてきました」

と、わが子の不登校を経験したうえで、それをのりこえてきた母が、子どもの中学卒業後にしみじみと語っておられたのが印象的でした。

不登校になった子どもには、親がじっくりとつきあっていくことが、何よりも大切です。

焦らないでください。お子さんが不登校の場合、再登校にむけ、いっしょに悩みましょう。