箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

おおらかに接する

2019年06月30日 07時09分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
 若い人は経験が少ない分、職場では教えてもらう立場になります。 学校の職員室でも、経験の少ない教職員は先輩教員に教えてもらうことが多くあります。 
 
このブログを読んでいるみなさんも、職場に若い人が入ってきたら働く人としての物足りなさ感じることがあるでしょう。
 
 だから、若い人を軽く見がちになることが、職場の傾向として現れたり、先輩の人たちのなかに見られることがあります。 
 
しかし、孔子は『論語』のなかで、「後世畏るべし(こうせいおそるべし)」という言葉を残しています。 
 
後世とはこれから活躍する若い人のことであり、「若い人のなかには、優れた能力を持つ人がいる。だからそれらの人びとには畏敬の念をもつべきだ」という意味を表しています。 
 
当然ながら、若い人のすべてが優れているというわけではありません。 
 
しかし、若い人の力を軽く見るのではなく、「おお、やったね」とか「すごいな」というように、何事も評価して、伸ばしていくような声かけが必要です。 
 
そうすることにより、何よりも本人が前向きな気持ちになれますし、職場の雰囲気も明るくなります。 
 
一例をあげれば、PCを使った作品を若い人がつくると、音楽や映像を駆使してすばらしいものを仕上げたりします。 
 
たとえば、職場の部下の結婚披露宴に呼ばれたとき、その先生のクラスの生徒によるお祝いメッセージを入れたビデオを流すことがあります。 
 
みごとにソフトを使い、駆使して、感動的な映像に仕上がっています。
 
それは友人の若い先生がつくったもので、高いクオリティを備えており、披露宴のお客さんは、中学生らしい言葉に皆が微笑み、じっと楽しく見入ってくださいます。 
 
こんな技をもつのも若い先生です。私にはまねのできない作品です。 
 
PC以外でも、若い人が高い能力を発揮することが多々あります。 
 
したがって、若い人にはいつもおおらかな気持ちでいることが大切です。 
 
 
 
私は、いま若い先生の授業を見て、指導をしていますが、あまり細かい点まで「ここができていない」「あれがよくなかった」などと指摘はしません。 
 
まず、自分の授業をふりかえってもらい、「できたところ」と「できなかったところ」などを言ってもらいます。 
 
そして、相手に質問して「どうしていったらいいと思う?」と問います。 
 
「次は、もっと生徒一人ひとりが考えたことを発表する時間を増やします」。
 
このように答えた若い人は、自分の授業を改善する方針を自分の言葉で表現しているのです。 
 
考えているだけでなく、それを自分の言葉にして表せば、実行力につながっていきます。 
 
私は、それを認め、受け入れたうえで、自分の教職経験を語り、その若い人の方針を理論づけします。 
 
こんなプロセスを踏んで、若い教員が育つのではないかと考えています。

失敗は宝

2019年06月29日 08時34分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
親であればこそ、わか子には失敗をしてほしくないと思うのは、もっともなことです。
 
 
誰だって、親ならわが子がつらい目にあったり、苦しんだりするのをみたくないものです。
 
 
ただ、だからといって、親が先回りして、子どもが失敗するのを何度も回避してきた子は、困難なことや挫
折したとき、あきらめてしまうことが多くなります。
 
 
 
その一方で、幼い頃からうまくいったり、失敗したりしてきた子は、中学生になっても、つきぬけています。
 
 
結果を受け止め、努力が足りなかったと感じるとともに、乗り越えようとします。
 
 
ただ、困難に出くわすと、あきらめてしまう子が中学生であっても、「失敗は宝である」と大人が我慢強く教え、導くと子どもは成長します。
 
 
失敗して、「もうイヤ」と言うのは、「自信がない」の裏返しです。
 
 
「止めるのはあなただけど、そのイヤな気持ちのままで終わったら、もったいないよ。あきらめたら、そこで『試合終了』だ」と、くじけそうになる子の気持ちに寄り添います。
 
 
転んだら、何かをつかんで起き上がれ」。
これは、私がよく生徒に伝えてきた言葉です。
 
 
 
失敗しても、そこから立て直す経験を通して、困難を乗り越える人へ成長します。
 
 
 
子どもが失敗したときに、大人が言うとよくない言葉は、「あなたには難しいことだったのよ」と、慰めるセリフです。
 
 
 
この言葉は、現状から目をそらすことになります。
子どもを傷つけたくないからこの言葉が出ます。
なかには、親も傷つきたくないという思いが含まれているかもしれません。
 
 
 
しかし、できないということはダメなことでしょうか。
 
 
 
人はみな、できないことから学ぶのです。
「失敗にも必ず意味があります」
 
 
 
この言葉も、私がよく生徒に伝えてきました。
 
 
 
さらに、もっと言うならば、中学生は友だちとの差が見えやすいという学校のしくみのなかに、身を置いています。
 
 
 
自分はできないのに、あの子はできる。
 
 
 
このことに気がつくことも、失敗した子には、大切なことです。
 
 
 
友だちのことを、「あの子はすごい」と感じることも、子どもの成長という点で大切なことです。
 
 
 
他者を尊重するとともに、自分は自分で努力を重ねる。
 
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この過程をくぐり、子どもは成長していきます。
 
 
 

強みを発揮する

2019年06月28日 10時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
私が教職に就いた頃は、中学生にとっての「学力」というと、知識をたくさんもたせることや情報を正確に早く処理することを求めていました。
 
教科書に載っていることを頭の中に多く入れ、覚えて、テストで高い点数をとる子どもを、学力が高い子と考えていました。
 
社会や世間もそのように考えていました。
 
いま中学生の親になって、このブログを読んでいる人たちも、このような学力観で学習をしてこられた方が多いのではないでしょうか。
 
だから、いま「社会科は暗記科目よ」と言われる親御さんは、その時代の学力観に基づいていますが、いま社会科は知識とその知識を働かせて思考力を深める教科になっています。
 
このように、この30年間で大きく学力に対する考え方が変わりました。
 
この30年間は、いわゆる「バブルの崩壊」から、日本は低経済成長時代に入り、「失われた20年(30年)」と言われています。
 
その間に、社会のしくみは大きく変わりました。
 
SNSの発達は、私たち誰もが情報を世界に向け発信する術を与えてくれました。会社という組織に所属せず、収入を得る道も開かれてきました。
 
このような時代には、まわりの人と同じことができるように教育することより、自分でないとできないという強みを発揮する力が大切になると思われます。  
 
その人に苦手なことはあったとしても、他者にはない強みや長所があり、それを発揮できることが重んじられるようになると思います。
 
 
 
 

オリジナルは真似ることから

2019年06月27日 05時59分37秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
私は駆けだしの教員だった頃、先輩教員の授業や学級づくりから学びました。
 
学ぶというか、真似ていたと言ったほうが正確でしょう。
 
真似ることは、よくない響きをもつ言葉のように、一見思えます。
 
しかし、ものごとはまったくゼロから作るのではないのです。
 
そもそも、「真似ぶ」という言葉から「学ぶ」という言葉が生まれたのです。
 
したがって、真似ることは学ぶことにつながります。
 
たとえば、体育の授業で走幅跳をするとき、学生やプロの選手が走幅跳をしているービデオをみます。
 
「そうか助走の約半分を過ぎたら、上体を起こしてまっすぐ前を見るのか。よし、そのようにして自分も跳んでみよう。」
 
こうやって、他者を真似て自分のフォームを作っていくのです。
 
だから、真似ることは、なにもいけないことではないのです。
 
みんな、最初は真似ることから始めたのです。
 
ただし、ただ真似るだけでなく、自分にあうようにアレンジしていくことが大切です。
 
自分にあうようにアレンジしたとき、その人だけのオリジナルができるのです。

たよるか、たよらないかの線引き

2019年06月26日 15時36分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
子育てにおいては、以前に何度か触れていますが、幼少期にたっぷり依存したひとほど、自立するのが早いという事実があります。
 
その意味で、幼少期に親から虐待を受けて大きくなった人は、大人にたっぷりと依存する機会が乏しくなり、自立が遅くなる傾向があると考えられます。
 
 
 
私は、自立とは人が生きていく上で、自分のことは自分でしようとするが、自分だけではできないときに、「助けて」といって助けてもらう人間関係をもつことが自立であると、再三述べています。
 
 
 
しかし、最近では、本来、自分のことは自分でするべきなのに、他者に助けてもらおうとする人もいるように思います。
 
人にたよるか、たよらないかという線引きはもっと先にあるのに、その線引きの手前で人に甘えるのは、他者にもたれかかっていることになります。
 
その甘えは、金銭面でたよるとか、経済面で援助をたよるということにもなり、人間関係にヒビが入る場合もあります。
 
しかし、そんな人ほど、「自分は一人で生きていける」と思っていることが多いようです。
 
 
 
中学生は、人に協力を求めなければならないときに、協力を依頼して、自分でやるべきことは自分で責任を負う。
 
このことを学習する毎日が、中学校生活です。
 
もちろん中学3年間でその学習は完結するわけではありません。
 
しかし、その基礎は中学校時代に身につけてほしい。
 
つまり、中学校では、「自立した人」になるのではなく、「自立に向かう人」になるかどうかが問われているのです。

さまざまな価値観をもつ

2019年06月25日 07時12分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
子どもがいわゆる「勉強ができる」か「できないか」は、実際、親も子も、ときには教職員も大きな価値を置きます。 
 
中学でいえば、高校入試があります。そして、高校には現実にランクがあり、それぞれの高校の特色もあります。 
 
学習が好きで、よく学習する子は、一般的に、中学校での成績も高くなります。
 
学習意欲が高いと、進学する高校の幅が広がる。 これは事実です。
 
私が言うまでもなく、親御さんも子どももそう感じています。 
 
ただ、問題は、学力のトップの高校へいく子は偉くて、それ以外の高校は偉くない、またはランクに応じて偉さの度合いが下がっていくと考えるよう価値観です。 
 
「いい高校」へ行けない生徒は、劣っているという固定的な見方・「きめつけ」が問題なのです。 
 
大切なことは、高校のランクをなくすことではなく、そのランクに根付く偏見・差別感をなくすことです。 
 
一生懸命学習して「できる子」とそうでない子に、人間としての価値の差はありません。 
 
一生懸命に勉学に励み「一流大学」に入りたいという希望と、かりに勉強は嫌いでも、人を楽しませたり、人に喜びを与える仕事に就きたいと願う気持ちは、同じ価値があるということを、大人は忘れてはなりません。
 
 
 

成長する教員とは

2019年06月24日 07時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
私はこの4月から市内各中学校を回って、教職経験の少ない教員の授業を参観して、後でコメントをして指導をしています。 
 
そこで感じることは、最初は人間関係がないので向こうも、こちらも遠慮しがちですが、慣れてくると、多くの人は素直に自分の授業をふりかえり、授業について考えていることを述べてくれます。 
 
私は、最初は授業を見て気がついたことを、ポンポンと相手には言いません。相手が課題に感じていることを言ってもらい、それと私が授業を見て感じた印象や課題と一致したとき、コメントを挟みます。
 
 ほとんどの人が、素直に聞いてくれ、疑問点を尋ねてくれます。
 
そんなとき、私は自分が経験したことを語り、「こうしたらどうだろう」と話します。 
 
私が思うのは、人が伸びたり、成長するのに一番必要なことは「素直さ」だということです。 
 
素直な人はアドバイスや忠告を受け入れます。 
 
中学生の指導もまったく同様です。素直に教師の言うことを受け入れる生徒は、成長するのが早いのです。
 
ただし、人はアドバイスを受けたからといって、すぐにできないこともあるかもしれません。
 
でも、それは、わかったうえでこちらも話しているのです。 だから、あの人が言ったことをいつも取り入れて実践していこうと固くならなくてもいいのです。
 
気軽にとりあえず、できることからやってみようという態度でいいのです。 
 
自分より経験の多い人が言う意見や忠告は、「とりあえずやってみる」がいちばんです。
 
同僚や同じ年齢の教員が言う意見やアドバイスは、あてにできない場合もあります。 
 
しかし、年期の入った人の言うことは、実践の経験に基づいているので信頼性の高いものです。 
 
そして、次のステップアップの段階に入ります。
 
私は、ある先生に「いまこうやって話していると気がつきにくいけど、授業では早口ですね。もっとゆっくりと話した方がいいですよ」と言いました。
 
すると、次にその先生の授業を見たときには、明らかに話すのがゆっくりになっていました。 
 
この態度が大切なのです。とりあえずやってみて、変化が見受けられたから、私も次の課題を言うことができるのです。 
 
もし変化がなければ、「この前も言ったけど、変わらないね」と感じてしまい、言う方も張り合いがなくなってしまいます。 
 
結果的に、その先生自身が成長するチャンスをなくしてしまうことになるかもしれません。
 
指導される人というのは、大人であっても、中学生であっても、素直さととりあえずやってみるという態度こそが、人が育つ秘訣だと思う今日この頃です。  

最良の方針とは

2019年06月23日 06時40分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
医師の治療方針と患者さんの願いが、必ずしも一致するとは限りません。
 
例をあげれば、ある糖尿病患者にとって、医師がすすめる治療は食事制限を中心にしながら適度な運動により、治療をしていくのが医師の治療方針です。
 
これは、科学的な根拠に基づく、医師が考える最良の方針です。
 
しかし、その患者さんにとっては、食事制限がいちばん大きい苦痛だったとき、実現できない治療になります。
 
つまり、その患者さんにとっては最良の治療ではなくなります。
 
そんなときには、食事制限はある程度にして、運動の実行を治療のメインにもってくるという方針が選ばれることもあります。
 
ここで大切なのは、医師は専門家として科学を根拠にした治療を最良としてすすめるのですが、患者さんはそれが科学的に最良の治療だと理解したうえで、医師に自分の願いと思いを伝えることです。
 
そして、治療方針の決定が医学的・科学的にはベストではないかもしれませんが、患者さんにとってはベストになる場合もあるのだと思います。
 
つまり、医学的に正しいことを言えるのは医師です。しかし、自分にとって望ましいことを考えることができるのは、患者さん自身であるのです。
 
 
 
このことは教育にあてはめることができます。
 
教師が教育のプロだとするとき、子どもの課題について、科学的根拠や教職経験から、指導や支援の最良の提案をします。
 
しかし、その課題を解決するための指導・支援の方針がその子や保護者の家庭にとっては実現できないことなら、たとえ学校にとってはベストであったとしても、子どもの家庭にとってはベストであるとは限らない場合があるでしょう。
 
たとえば、中学生がどうしても受験したい私立高校があります。
 
それは、学校の見立てでは、その子の学力ではたいへん厳しく別の私学を考えるように提案します。
 
その提案は、学校の進路指導の資料と過去の合否データから、最良の方針です。
 
しかし、子どもにとってはその高校しか私学受験が考
えられないなら、別の私学を受験するのは、その子にとってはベストな進路選択ではないのです。
 
結果として、不合格になっても、希望の私学が受験できたことで、次の公立高校をどこにするかを、本人が納得して考えることができるかもしれないのです。
 
これは進路指導の例ですが、他の教育課題についても同様です。
 
 
教育的に正しいことを言えるのは教師です。しかし、自分にとって望ましいことを考えることができるのは、生徒自身であるのです。

チーム学校とは

2019年06月22日 19時02分52秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
組織はチームとして機能することが重要であることは言うまでもありません。
 
学校も組織であることは確かなことで、文科省も教育行政も「チーム学校の組織づくり」を学校現場に提案します。
 
ただし、なぜチーム学校が必要なのかという論理的な説明がありません。
 
「教職員が協力しあうから、いい教育ができる」という理由だけでチーム学校が必要だと言われているようにしか、私には思えません。
 
1 1 2 でなく、1 1 2 以上になる理由を明確に説明しなければなりません。
 
たとえば、学校に企画力のある教員Aと生徒指導がうまい教員Bがいるとします。
 
一人で仕事をするときは、自分が苦手なこともしますが、二人で仕事をしてどちらもが得意なことだけに集中してできるように役割分担したほうが、それぞれパフォーマンスがあがるので、1 1 2 以上になるのです。
 
たとえば、私が校長を務めていたときの3年生の沖縄修学旅行(2018年)では、1日目の夜の平和学習で、「がちゆん」という那覇市にある学生が起業したグループを招聘しました。
 
 
彼らは、修学旅行生にディスカッションをコーディネートして、平和の問題や基地の問題を学習する機会を提供する大学生による企業です。
 
この新たな平和学習を企画した教員がいて、平和学習を指導した学級担任がいて、学年がチームになり、新たな試みの平和学習が実現しました。
 
当日、生徒たちは真剣になり、ディスカッションをして、深く平和のことや基地の問題について考えることができました。
 
これが、1 1 2以上になるチーム学校です。
 
これが個をいかすチームの実例であるとも言えるのです。
 
 
(なお、がちゆんは、いま業務を停止しています。)
 
 
 

悩みや不安は認めると軽減される

2019年06月22日 08時02分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
中学生になると、部活の大会や発表会で、子どもが緊張を強いられることがあります。 
 
いま、このサーブを決めたらチームが勝利する。
 
いまこのスリーポイントシュートを自分が決めれば勝利が転がり込む。
 
ソロで、たった一人で楽器を大勢の人の前で演奏しなければならない。
 
 失敗したらどうしよう。 
 
こんなとき、私が生徒にアドバイスしたのは、「だいじょうぶだよ」という声かけだったことがあります。
 
しかし、子どもによっては「あがっているんやね。無理もないな。こんな大事な場面やから」 このように声かけをしたときもあります。 
 
このときのねらいは、不安でいっぱいの子が「自分はあがってドキドキしている」と、自分の不安を受け入れることなのです。 
 
不安を不安として、人は認め受け入れたとき、不安は不安でなくなるのです。 
 
「不安だ、不安だ」と気持ちを膨らますだけでは、焦るばかりです。
 
自分に自信のある子は、不安をもった自分を受け入れることができるのです。 
 
 
あるとき、「なかよしの友だちなのに、あの子の言うことやすることが、いちいち気になるるのです」と言ってきた子がいました。 
 
しばらく話を聞いて、私は、結局この子は友だちに嫉妬しているのでないかと思いました。
 
 そこで、「その友だちに嫉妬しているのでないか」と問いました。 
 
しばらくして、後日その子は言いに来ました。 
 
「そうでした。ボクは友だちがうらやましかったのです。そう思うと、ボクの悩みは消えてしまいました」
 
 もともと、人間は不完全なものです。嫉妬やうらやみは起こります。そのとき、自分は自分と思えれば、自分は不完全な存在であると気がつくのです。 
 
人は、そのようにして不完全な自分と付き合って生きていくのです。 
 
悩みや不安は認めたときから軽くなるのです。    

自分を誇り生きている

2019年06月21日 07時29分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
箕面三中の2年生がつくった短歌です。
 
 
ふまれても 道端に咲く 菫花(すみれか)は 今生きている 自分を誇り 
 
 
 「国語表現」の授業でつくりました。
 
 
短歌に込めた作者の思いは・・・
 
春の道端に咲いている菫の花は、気づかれずにひっそりと生きています。
人に踏まれても自分を誇っているかのように前を向いて咲いていて、私も菫のように、傷ついたとしても自分を誇りに思えるようになりたいです。 
 
 
 
この短歌に対して友だちからのコメントもついています。
 
・自分の目標を短歌にしているのがいいなと思いました。目標に向けて頑張ってね。
 
・自分を誇りに思っているのはいいことだと思います。
 
・自分がどう生きたいか、気持ちがこもっていてすてきだなと思った。 
 
 
 
コメントをもらって、作者の生徒はあらためて自分の思いをかきました。
 
五・七・五・七・七の少ない語数で自分の思っていることをおさめることが難しかったです。自分のつくった短歌を見てもらって、自分の思いが伝わっていることがうれしかったです。
 
 
私は、生徒がつくった。たくさんの短歌から、とくに惹かれたものの一つがこの作品でした。
 
 
この短歌に通じる武者小路実篤の詩を2019410日のブログに載せています。参照してください。
 →410
 
 

転校も考えかた次第

2019年06月20日 06時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
私には一度も経験がないのですが、一生のなかで、引っ越しのある人は多いでしょう。
 
箕面市の市民は、大学進学や仕事で他府県に引っ越してと、家庭をもち子どもをもち、大阪近辺に戻ってくるとき、もう一度箕面市に住む「もどり率」が高い街だと聞きます。
 
自分が学生時代を過ごした箕面市に戻り、わが子を育てたいと考える人が多いのかもしれません。
 
いちおう子育てがしやすいまちという位置づけが箕面市についています。
 
じっさい、箕面市の学校教育関連では、トイレは美装化されています。学校耐震化率100パーセントは、大阪府内自治体で一番でした。
 
タブレットを子どもが使える、電子黒板は普通教室に備わっている、普通教室だけでなく、特別教室にまでエアコンがついている。体育館にまでついている。
 
あれだけ「暑い町」と言われる岐阜県多治見市の小中学校では、エアコン設置は0パーセントです。(2018年度実績)
 
このような小中学校を卒業して、府立高校へ進学した子は、設備の粗末さに戸惑うことが多いのです。
 
教職員も同様で、府立高校高校では、いまだに仕事に使うパソコンがWindows VISTAを使う学校があり、それをWindows 7に入れ替えて使っています。
 
一方、箕面市の教職員はタブレットのWindows 10を昨年夏から使っています。
 
箕面市の教育環境の充実は、子どもたちや教職員にとって、また保護者にとっても、たいへんありがたいとことです。
 
さて、話がそれましたが、引っ越しという話題にもどります。
 
子ども時代に親の仕事の関係で、転校を何度も重ねる子もいます。
 
慣れ親しんだまちや学校を移るのは、子どもにとってはたいへんなことです。
 
しかし、それは考えようです。
 
たくさんの地方を知っていることは、その地方の習慣や文化を知っていることです。
ものの見方や視点まで変わることもあります。
 
引っ越しても音信がある子なら、友だちが増えます。
 
こう考えると、転校はマイナス面だけではないのです。
 
考え方の幅広さ、視点の多さなどは、移動した距離に比例する。
 
このように、前向きに捉えると転校のよさがわかります。
 

聞き上手な人

2019年06月19日 10時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
私は、中学生と話す教師は「聞き上手」であるべきだと考えます。
 
生徒が教師に悩みや相談ごとを持ちかけてきたとき、
教師は聞き上手であるなら、いいことが起こります
 
話す相手が聞き上手な人だと、話した側は気持ちがよくなります。
 
私の言っていることをわかってくれたとか、理解してくれていると思えるので、話してよかったと思えるのです。 
 
 
ところが、多くの教師は往々にして話し好きです。
 
もちろん話してもかまわないのですが、教師はとかく、生徒が少ししか話していないのに、「ああ、そういうことは私にも以前に~ということがあってね」と自分の話をし始める人がいます。 
 
 
これは、聞く人が親の場合にもあると思います。
 
わが子が聞いてほしいと思って話すのに、途中から「お母さんにも同じようなことがあってね、それは~というものよ。だから・・・すればうまくいくのよ」で自分の意見や考えを伝えます。 
 
中学生やわが子の言うことをよく聞かずに、口を挟み自分のことを話すのは、人の話を結果的には「盗って」しまうことになるのです。 
 
明石家さんまの『踊る!さんま御殿!!』を観ていると、さんまさんはゲストが話すことに「え~、それで」「ほんで、どうしたんや」というように口を挟みますが、相手の話を盗って自分のことを話したりはしません。
 
彼はゲストの人に話を振ると、話しきらせます。
 
そして、最後まで聞いて床に倒れるというような大きなリアクションをして爆笑を起こすので、話した方も楽しんでくれた、また周りも楽しんでくれたと満足できるのです。
 
 明石家さんまさんは、一見、話し上手な人に思えますが、じつは究極の聞き上手な人でないかと思うのです。 
 
生徒や子どもの話を聞くことは、それほど簡単な技術ではないと思います。
 
黙っていてはダメで、あいづちを打ったり、「へー、それで」とか「あー、なるほど」「うんうん」と同意したりするのはもちろん、聞きながらも相手の話を要約できるほど理解している必要があるのです。
 
いい加減に聞いていれば、相手は中学生です。見透かされてしまいます。 
 
そこで、一生懸命に、真剣に生徒やわが子の話を聞いていると、聞いた側も「ああ、そういう考えもあるのだ」と自分の視野を広げてくれることにもつながるかもしれません。

なだらか感をもつ人

2019年06月18日 06時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
川の底に沈む石は、明けても暮れても、水の流れの抵抗をうけ、角ばった部分が削られ丸みを帯びてきます。
 
この状態を「なだらか」と呼ぶことにします。
 
 
あるとき、家庭科の授業で調理実習をするクラスがあるので、見に行きました。
 
ある女子生徒に、わたしの目がとまりました。
 
包丁さばきは鮮やかで、野菜をトントントンと刻んでいました。
 
 
そうかと思うと、お皿に盛り付けるだけはのも素早く正確で、さっとまな板を流し台に運んでは、慣れた手つきで洗っていました。
 
 
その子は一連の作業を、適度にグループの友だちと会話しながらこなしていました。
 
 
じつは、その子はひとり親家庭の子で、家が食堂を営み、お父さんと従業員が店をきりもりしているとか。
 
 
その子も時々、店を手伝い、お客さんに料理をはこんだりしたこともあるそうです。
 
 
また、家族の晩ごはんをつくることもよくあるそうです。
 
 
その子のもつ「なだらか感」は、まだ中学生なのに、生活するうえでのさまざまなことにも対処できるのではないかという印象を私に与えました。
 
私は教員採用試験の面接官をしたことがありますが、どの学生さんも、一般的にいって、この「なだらか感」が足りないと感じます。
 
 
「面接練習してきたこと」を忠実に伝えようとしますが、どことなくぎこちなく話しているという印象を受けます。無理もないことですが。
 
 
しかし、この「なだらか感」をもつ人は、年齢が若くても、なにか人としての幅の広さを感じさせます。
 
 
これなら、教壇に立っても、堂々と話せるだろう、保護者の人とも、良好な人間関係を築けるだろう。
 
 
そして、面接官は高い評価を出すと思われます。
 
初任者の教員は、フレッシュで初々しく、エネルギーに満ちている人も多いのですが、まだ社会に不慣れで、子どもや保護者の人たちを不安にさせることもあります。
 
 
しかし、この「なだらか感」は、直接会話をすれば、「あっ、落ち着いている」とか「緊張せずに話すことができる人だ」という印象を与えます。
 
 
 
人は経験すること、場数を踏むことで、この「なだらか感」をもつことができます。
 
 
これは、才能とは無関係であり、誰でも多かれ少なかれ身につけることができるのだと思います。
 
 
才能よりも、経験と時間が「なだらか感」を人にもたらし、人を育てるのだと思います。
 
 
 

イメージしてトレーニング

2019年06月17日 06時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
わたしは、イメージトレーニングを大切に考えます。
 
実際に自分がその場面にあると想像して、本番と同じようにふるまったり、言動することです。
 
スポーツなら、自分が実戦に身をおいていると仮定し、試合での自分のパフォーマンスを練習します。
 
サッカー選手が、PK戦の最終キッカーになった場面を思い浮かべ、自分の蹴ったボールがキーパーの横をすり抜け、ゴールのネットにすいこまれる場面を想像してシュートの練習をするなどは、イメージトレーニングです。
 
もう三中を卒業しましたが、ある女子生徒が英語のスピーチコンテストの開始直前まで、英語のスピーチを話し、身振り手振りをつけながらイメージトレーニングに余念がない光景に出会いました。
 
その生徒は、見事に入賞しました。
 
 
 
実際の場面を想像して練習をすると、本番で力を発揮しやすいのです。
 
言い換えると、output を意識したinputには大きな意味があるということです。
 
アメリカ留学を控えているから、いま一生けん命に英語の学習をするというのも、output を意識したinputです。
 
 
学習のための動機が明確なとき、学習ははかどります。
 
中学3年生なら、希望の高校に合格したい、ぜったいその高校に行きたいと思うから、受験学習に励むのです。
 
output を意識したinputは、取り組みの動機やモチベーションになります。