本日は、3年生の学力テストです。高校進学のためには、いまの学力状況をみるためには、大切なテストになります。
そのため、どの子も真剣に答案に向き合っていました。
さて、私たちは、中学生に対して、「将来、社会に出たら」とか「社会では、そんな行いは許されない」とか言います。
三中の教育目標にも、「社会にかかわろうとする生徒」と、卒業時の目標とする姿を定めています。
中学生は大人になって学校を出ると、いやでも「社会」に出ることになります。
この「社会」に出ることを楽しみに思う生徒もいるだろうし、何かたいへんそうと感じ生徒もいるでしょう。
しかし、ふと立ち止まり考えみると、「社会」とはいったい何でしょうか。
そこで、もし「社会」をたくさんの人の集まりだと考えるなら、いま三中生が通っている学校も、ひとつの社会です。
そして、複数の人が集まると、そこには必ず「関係」が生まれます。親しい関係、あまり親しくない関係、尊重しあう関係、先輩-後輩の関係、利害関係、微妙な感情の関係などです。
とくに上下関係、利害関係、微妙な感情の関係をいま三中で感じている生徒は、社会というものがなんとなく複雑で面倒なものと映ります。
今でさえわずらわしいのに、大人の社会に出るなんて嫌だ。こう感じる生徒もいるでしょう。
その意味で、「社会」とはたくさんの人の集まりであり、それらの人と人の間になんらかの「関係」がある集まりであると言えます。
人間関係だけでなく、社会にはさまざまな決めごとや規則があります。個人の行動に対する制約もあります。好きなことができません。一言でいうと、自由の少ないのが社会です。
その窮屈さから、「仕事がつまらない、社会はうっとおしい」と嘆く人が、私たち大人の中にもいます。
しかし、自由が少ないからと言って、社会から抜け出ることはできないのです。
ただし、よく考えてみると、「社会」とは、たんなる人の集まりであり、「社会」なんてどこにも存在していないということに、私たちは気がつきます。
「社会」とは複数の人の集まりにつけられた名称であり、探しても、探してもどこにもない。そこには、一人ひとりの人間が存在しているだけです。
人間が存在していることの方が、確かな事実です。
だから、他人との関係で、または他人のすることを気にすることで、自分を不自由にしているのは、自分でしかないのです。
もし、社会にかかわり、社会をよくしたいと本当に思うなら、他者が悪いと責める前に、自分がよくならなければならないのです。
「社会」は、相手にばかり求めて、自分の満足いくようにしてくれるユートピアではないのです。
アメリカのニクソン大統領の言葉を借りれば、「国が何をしてくれるかを望むより、あなたが国に何ができるか」です。
(Ask not what your country can do for you—ask what you can do for your country.)
社会が何をしてくれるかを問うより、あなたが社会に何ができるかを問うのです。
三中生は、こんな自覚をもち、「社会」にかかわろうとすることを願います。
生徒には、いつか機会があれば、もう少し平易な表現で、社会にでる心構えとして、以上のことを伝えたいと思っています。