箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

杖言葉とは

2020年12月31日 07時44分00秒 | 教育・子育てあれこれ
「杖言葉」というものがあるのをご存じでしょうか。

これは作家の五木寛之さんが著書のなかで触れられています。

その人の行動や生活の仕方の支えになっている言葉のことです。

わたしは、その杖言葉は、人がつねに意識している場合もあれば、無意識のうちに支えになっていることもあると考えています。

私が学級担任をした生徒のなかにも、卒業前に伝えた言葉を、今でも支えにしている人がいます。

波瀾万丈で、悩みの中学校生活をくぐってきた男子生徒に、わたしが卒業前に言ったことばがあります。

それは、「苦労した分だけ強くなった」でした。

彼は、卒業後も仕事でうまくいかないときには、この言葉を思い出していたそうです。

こうなると、教師は自分が放つ言葉の大切さを自覚すべきなのですが、ずっと支えになるか、ならないかは、生徒次第だと思います。

ふだん意識していなくても、ふと思い出して「あのときの、あの先生の言葉に支えられてきた」と、思い出すこともあるでしょう。

今年は新型コロナウイルスは、私たちに人と引き離すように仕向けました。

「日常」だと思い込んでいたことが、当たり前でないことを、私たちに思い知らせました。

そのぶん、同時にそれまでの自分がさまざまなものごとに対して、いかに無自覚でいたかに気づくのです。

そのとき、ふだんは意識していないけれど、自分を支えてくれている言葉があることに気づくのです。

先ほどの言葉が杖言葉であるとするなら、いま苦労してでも、その苦労に意味があると思い、人は困難なことにも取り組もうとするのです。

こうなると、新型コロナウイルスは、思索して、自分を見つめる時間を、私たちに与えてくれていると考えることができます。

こんな想いとともに、令和2年(2020年)が過ぎていこうとしています。



自立するために必要なこと

2020年12月30日 08時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ
最近の傾向として、チャレンジする子どもが少なくなっているという傾向は、さまざまな点で言えることだと思います。

とくに未経験なこと、はじめてやることには、ためらうとか、しり込みする中学生が多いようです。

はじめて一人でダンスをみんなの前で踊るとか、一人で英語のスピーチをするとか、一人で海外に留学するとか、後先を顧みず「わたしがやる」というような青少年は減ってきています。

ダンスや英語のスピーチや留学すべきだと、わたしは言っているのではありません。

「みんなにダンスを見てほしい」とか「英語を話したい」とか「あの国で学習してみたい」と思うとき、自分の力を信じることができず、チャレンジする意欲が下がってしまうのは、残念です。

学校教育では、そのような児童生徒の課題を、成功体験が少ないから、失敗することをおそれ、チャレンジしないという説明を、学校関係者や教育関係者は言います。

わたしも、その考えには賛成しますが、それだけではないと考えています。

そもそも、自分の知らない世界に飛び込む意欲や態度は、家庭が安定していて、親に保護されることで身につきます。

幼少期からたっぷりと親に依存する人間関係で育った子ほど、自立が早いのです。

依存というと、他に頼るということで、あまりいいイメージをもたない人もいるかもしれませんが、依存する体験は子どもの成長に不可欠です。

子育てにおける、「依存」と「自立」は一見、相反するように感じがちですが、両者は密接に関連しあっています。

自立するためには、依存が必要なのです。

思春期の反抗期というのは、そんな親に依存していた自分と決別するための行動です。

しかし、まだ十分には大人になっていない思春期の子は、反抗しながらも、ときには依存して親に甘えます。その繰り返しで、自立に向かうのです。

その依存と反抗をしっかりと受け止めてくれる家族といっしょに暮らす時間・期間をもつことで、子どもは自立できるのです。

悲しみを抱えて生きる

2020年12月29日 09時28分00秒 | エッセイ


今年は、新型コロナウイルスの感染拡大で終わる1年になります。

このウイルスに感染して亡くなった人もいました。

葬儀は生きる事実と死ぬ事実が交わる「交差点」のようなものです。残された人が亡き人を思い、悲しみを分かちあう場であるのです。

しかし、最近では葬式が簡略化されて、家族葬がここ数年間で当たり前のようになりました。故人と縁のあったお客さんの参列をお断りする葬式が増えました。

葬式の簡略化で痛みを多くの人で分かち合うことなく、残された人が個々に痛みを抱え込むようになったのです。

生活が個人化して、大切な人間関係をつなぐ糸は細くなり、死別で細くなった一本の糸が切れてしまうことになります。
そして、一人で胸いっぱいの悲しみを抱えることになってしまいます。

オンライン葬式にしても、画面越しに葬式の中継が映され、手を合わすことができたにしても、何かが足りないと感じてしいます。

それは、故人を偲ぶことができず、残された人が集まり、悲しみや寂しさを多くの人たちと共有できないからでしょう。

今年2020年に感染が広がり、いまだ終息のめどが立たない新型コロナウイルス。

感染して亡くなった人の場合、「密」や感染を避けるため、葬式そのものを行うことができなかったこともあるでしょう。

そうなると、肉親にとっては、亡くなった人と自分がどういうかかわりで、どう付き合ってきたかを回顧することもできなかった。

人生の最期の段階で別れの言葉を継げることもできなかった。

そのことを思うに、残された人の悔しさと苦しみは余りあります。

人の最期に大切で必要なのは、「共にいる」ことです。

悲しみを分ちあうという習慣が社会全体で感じられなくなり、近い人の間でもできなくなった。

いま孤立するとそのまま見放されてしまうのでないかという不安が社会を包んでいます。

悲しみから目を背けようとする社会は、生きることを大切にしていないのでないかと、わたしは思います。

よく「悲しみを乗り越えて」と言いますが、悲しみは乗り越えられるものではないと思います。
残った人が一生胸に抱えて生きていくものなのでしょう。

そのような悲しみを抱えた人は、他者の悲しみにも共感できるのです。

愉快な心で

2020年12月28日 08時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ


2020年は、新型コロナウイルス感染防止がテーマになった年で、後世の歴史に残る1年になることでしょう。

感染症や疫病がはやり、亡くなる人も多数出ると、不安や心配が増大します。

でも、人間は、気分まで憂鬱になるのは、好ましくありません。

私は大学では英文学を学びました。
英文学の第一人者といえば、シェイクスピアです。

イングランドが生んだ、劇作家ウイリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)は次のように言いました。

『人は心が愉快であれば終日歩んでも嫌になることはないが、心に憂いがあればわずか一里でも嫌になる。
人生の行路もこれと同様で、人は常に明るく愉快な心をもって人生の行路を歩まねばならぬ。』

来る2021年は愉快な心で過ごせる1年でありたいと思います。

コロナ禍の影響 子どもも同じ

2020年12月27日 07時50分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルス感染症の影響を調べるため、今年9・10月に小学1年生から高校3年生の子どもに行った調査(国立成育医療センター)があります。

それによると、かなり多くの児童生徒に登校意欲の面で影響が出ていることがわかりました。

「最近1週間で、学校に行きたくないことがある」が31%でした。
このうちで
「いつも」・・・7%
「たいてい」・・・5%
「ときどき」・・・19%

ストレス反応として、「最近1か月でコロナのことを考えるとイヤな気持ちになる」、「すぐにイライラする」、「集中できない」を選んだ子どもは、全体の73%になりました。

さらに、「私が考えを話せるように、先生が質問したり確かめたりしてくれる」は、「してくれない」が21%になりました。

なお、この調査には、質問にすこし意図的な表現が多いと私は感じます。

たとえば、子どもは「学校に行きたいか」と聞かれると「はい」と答えやすい、「学校に行きたくないか」と聞かれれば「はい」と答えやすいのです。

しかし、全般的な傾向をみる調査としては、客観性があると思われます。

やはり、新型コロナウイルス禍は、子どものメンタル面への大きな影響を与えていることが明らかになっています。

また、学校で子どもが自分の考えや意見を自由に表現することができる工夫をする必要があると考えられます。

以下の自由記述のコメントは、それが多い、少ないにかかわらず、かりに少数意見であったとしても、大人が真摯に受け止めるべき「キラリ」と光る鋭い指摘があることが多いものです。

・先生が優しく「大丈夫?」といってくれると、なんだか安心して先生に今の気持ちを落ち着いて言える。(小学生)

・他の生徒に聞かれないところで、安心して話せる部屋で話を聞いてもらう(中学生)

・学校側はどうして行事などが実施できないのか明確に理由を話す。生徒にも意見を述べる場を与えてほしい(高校生)


コロナ禍の影響で、教職員が心の余裕をもって子どもに対応できておらず、つい子どもを急かして活動させてしまう、子どもの心理的な面に配慮したていねいさがないなどの状況が見えてきます。

また、子どもが自分の意見や意思を表明する可能性やチャンスに欠けている学校・教職員の姿が浮かび上がってきます。

新型コロナウイルスに対して、教職員は初めての対応なので、なにかと行き届かない点、気がつかない点もあるでしょうが、子どもの本音や声には耳を傾け、子どもの悩みや疑問に応えていく必要があります。

ひきずらない

2020年12月26日 21時01分00秒 | エッセイ


Tomorrow is another day!


この言葉の意味は

「明日は明日の風が吹く

なんとかなる。

悲しみは今日で終わりにしたい。」

このように解釈します。


なんとなく、同じ毎日の繰り返しとなってしまっている今日この頃。
そんなとき、英語の先生からもらったこの言葉を思い出します。
今日という一日の重みを感じて、大切に過していきたいなって思いにしてくれる大切な言葉です。


教育で大切にされる「研究」と「実践」

2020年12月26日 09時53分00秒 | 教育・子育てあれこれ


教職員の研修組織として「研究会」がどこの自治体にもあります。

この研究会は、一般の市民にはそれがどのようなものであるかは、なかなか理解されにくいものです。

また、教育行政に身を置く人でも、教員出身でない、行政職、いわゆる役所の公務員から教育委員会に所属した人にも理解されにくいのが実情です。

初めて教育委員会に来た行政職の人のなかには、「〇〇研究会! それってなんですか? そんなものに交付金をつけるのですか」という人が少なくありません。

「研究会」は、たとえば国語教育研究会や図書館教育研究会、人権教育研究会、道徳教育研究会など、教科や領域、教育課題ごとに設けられた教員の研究組織です。

その会は、教員同士で運営することが多いですが、その分野での研究者(大学の教員)や学識経験者などを講師として招き、指導理論を研修します。

この研究会は、そもそも「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」(教育公務員特例法第19条)という、法で規定された教員の研修の手段・場として機能しています。

教育界では、研究による「理論」と授業をはじめとする教育活動の「実践」の往来が重要になります。

授業を例にとって、考えてみます。

授業では、いきあたりばったりの指導ではなく、理論に基づく指導が大切であると教員は認識しています。

そして、その理論は学校現場の授業で活用され、つまり実践されて、いきるものとなります。



たとえば、「子どもの学習を持続させるにはどうすればいいか」を研究テーマにします。

教員同士が論議し、それには①学習する場(空間)と②教えてくれる人(教師)と③子どもの学力にあった教材提供が必要になるという理論を導いたとします。

その3条件を満たす授業を実践してみて、子どもが目つきを変えて、集中して学習に取り組む変化があった、という報告(実践報告)を研究会で行います。

研究会では、3条件にさらに「友だちといっしょに学習できる」を加えるといいのではないかと研究が深まり、次回に実践をする。

このように研究と実践を往来させ、重ねていくのです。

子どもの行動が目標にむかって変わっていく(成果が出る)ことが、その理論が役立つものであるかをみる指標になります。

そして、また理論をさらに研究して実践していくのです。つまり、研究と実践は行き来するものです。

教育の現場では、むずかしい理論を議論して理屈をこねまわすのではなく、実際の実践がセットになっていなければ、子どもへの成果として実ることはありません。

たえず「研究」と「実践」が繰り返され、行き来して、両方がブラッシュ・アップされていくのです。

それが、「教育の答や方針は現場にある」という意味でもあるのです。

学校で守るべきもの

2020年12月25日 08時42分00秒 | 教育・子育てあれこれ



2020年10月22日に文科省は、2019年度の子どもの自殺者数を発表しました。

2018年度から2年連続で300人を超えたとのことです。2年間で649人もの子ども(小学生、中学生、高校生)が自ら命を絶ちました。

教育関係者は、この現実をどう受け止めるべきでしょうか。

いま、学校で何が起こっているのでしょうか。

そもそも、子どもは一人ぼっちだと感じたときに、自ら命を絶つのだとすれば、学校は子どもが「助けて」とか「help me」とか言える場所であるかが問われているのだと考えられます。

子どもの自死を聞くたびに、その日その時に、誰かが心配してその子に寄り添っていれば、とりかえしのつかない事実をうまなくてすんだのでないかと思います。

なくしてしまった命は、どんなに後悔しても二度と戻ってはきません。学校としては取り返しのつかないことがあってはならないのです。

学校が子どものことで守るものはいろいろありますが、子どもの命を守ることは最上位にきます。

2年間で600越えの命がなくなった事実と現実を、教職員は重く受け止めなければなりません。

すべての子どもにとって居場所のある学校をつくらなければなりません。

このコロナ禍によって、ホッとできる居場所を失ったと感じる子どもが増えています。

大人も生きづらさを感じているのだから、子どもも同じです。

大人がわりきれないうっぷんを抱え、仕事に行き詰まると、家での子どものようすに気がつきにくくなります。

家庭内で、両親が言い合いやけんかをしている傍らで、子どもが思考停止に陥り、じっとしている姿も浮かんできます。

教職員には、いま学校で子どもの内面を見る努力が求められます。

内面を見ることなく、臨時休校の遅れや感染防止に躍起になり、「次はこれ」「その次はあれ」というように命令口調になり、指示をくりかえしていないでしょうか。

そんなバタバタとあわただしくしている教師に、子どもは話しかけたりするのは遠慮してしまいます。

子どもが抱えている、もっていきようのない不安な思いを伝えることはできないのです。

教職員は協力し合って、助け合って、自分の学校の子どもの命を守るためにできることは何でもやる。

それは、学力向上よりも授業づくりよりも、部活動よりも、優先するはずです。いちばん守るべきものは、子どもの命です。

教育に人材育成はなじまない

2020年12月24日 01時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ
文部科学省がsociety5.0に対応する人材を教育で育てるという方針を打ちだしています。

society5.0は、AI技術の発達によって、定型的業務や数値的に表現可能な業務は、AI技術がとってかわる社会という定義です。

ところが、今の日本はAIに関する研究開発に人材が不足しているので、学校教育でそのような人材を輩出することをねらいにしています。

わたしは、AIに関する研究を否定をしたりはしません。

しかし、いま教育の目的を社会に役立つ人材の育成にしている点には、少々のとまどいを覚えます。

教育の目的とは、教育基本法が定める通り、「人格の完成」をめざすものです。

これからの社会を担っていく人を育てるという面が教育にないこともありません。

しかし、今の文科省の方針は社会に貢献できる有能な人材を育てる、ひいては国家に有益な人を育てることに、重きを置きすぎだと思うのです。

教育の目的とは、もっと崇高なもので、人間を形成することであり、人材育成が第一義にくるものではありません。

なんでもかんでも、学校教育にたのむのは好ましくありません。

日本は、なんでも学校教育に期待しすぎる傾向があります。

教師は、しつけなど本来は家庭教育が担うべき役割も引き受けています。

グローバル時代に対応するため、英語教育を分厚くするのも学校にお任せです。

プログラミング教育を推進するのも学校です。

それらが、山のように次々と中央から降ってきて、「やりなさい」です。

たくさんのことをやるので、学校の教師たちは疲弊しています。

しかし、教育とは発達途上にある子どもを大人に育むことが本質であることを忘れてはならないのです。

生身の人と人のかかわりが、人間を育てます。

その点だけは、見失ってはいけないのです。


以前からマスク

2020年12月23日 08時52分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルスの感染予防のため、みんながマスクをつけるのが日常の風景となりました。

学校でも、生徒・教職員がほぼ100%、マスクをつけています。

最初、マスク着用に違和感をもった人もいたでしょうが、いまでは当たり前になり、こうなると、マスクをつけないとかえって「無防備」と感じてしまいます。

そこでふと思ったのですが、新型コロナウイルスが広がる前から、学校には、とくに女子生徒に多かったのですが、マスクをつける生徒が何人かいました。

インフルエンザ防止や病気でもないのに、校内でマスクをつけていたのです。もちろんクラスや学年で合唱をするときなどは、外して歌いましたが。

その生徒たちがなぜマスクをつけていたのかというと、「安心感がある」という理由でした。

「マスクをつけていると落ち着く」と言っていました。

つまり、人と対面して話すときに、自分の口元を見られるのがイヤなのでしょう。

「マスクを外しなさい」と言われれば外すけど、つけているほうが安心するという事情でした。

そういえば、私もマスクをするようになり、感じたことがあります。
マスクをつけて話すのは、話しにくいという感じる半面、口元を見られないので、なにか楽な気分になります。

これはおそらく、対面コミュニケーションでは、相手から自分の顔や口元を見つめられことからくるプレッシャーが下がるからでないかと思います。

まして、今どきの中学生です。「適度な距離感がいい」と言います。近すぎる距離は苦手、かといって、遠く離れた距離もよそよそしく感じます。

マスクをすると、近いという「圧」を感じなくて、緊張せず話すことができるという事情だったようです。

つまり、コロナ禍にかかわらず、いまの学校、とくに思春期の中学校・高校では、生徒にとって、他者とのコミュニケーションが一定の圧力になっているのです。

授業でも「主体的・対話的で深い学びの学習」のために、グループになって話し合う活動が増えています。
相手に近づいてコミュニケーションをとる機会が増えていました。

全体の流れはそうなのですが、生徒たちのなかにはいろいろな子がいます。

コミュニケーション活動に追いつめてしまうことで、苦しさやしんどさをいだく生徒がいることも、教育関係者は留意しておく必要があります。


あらたな「自助」を求めて

2020年12月22日 08時32分00秒 | 教育・子育てあれこれ

このコロナ禍のなか、失業するリスクが増しています。

誰にでも病気になるとか、ケガをするリスクがあります。

誰にでも高齢で働けなくなるリスクがあります。

このようなリスクに出会った人を支えるために、雇用保険、医療保険、年金制度などがあります。

そこで、みんなが保険料を納め、支え合う「共助」があります。

そして、共助でも救えない場合のために、最後の砦として生活保護という「公助」があるのです。

日本は、このような段階的で重層的なセーフティネットを整備してきたのが高度経済成長期でした。

この成長期には、「一億総中流」といわれた分厚い中間層があり、税金や保険料を支払ってくれ、「自助」・「共助」・「公助」というシステムが機能していたのでした。

この観点からみると、「自助」→「共助」→「公助」という順序は、そのとおりであると言えるのではないでしょうか。

中学校の授業でも、社会保障制度を学習するとき、このしくみと順序を教えています。

ただ、高度経済成長期の「自助」は、人が家族、親族、職場、地域での人間関係で支えられて、自助努力ができたのです。

そもそも、何でも自分でやり、「人の助けを借りずに生きていくこと」が「自助」ではなく、周りの人間関係に助けられ、「自助」が成立していたのです。

しかし、いまは核家族が当然のようになり、シングルで暮らす人も増えています。
離婚家庭も増えています。
一人で暮らす人が増えています。

また、終身雇用制・年功序列制が崩れて、非正規雇用が増えました。正社員でも所得は上がらず、子育てや親の介護に悩む人も少なくありません。
地域に帰っても、かつてのようなつながりが薄くなって久しいのです。

他者から支えてもらうことは期待できません。一人でがんばるしかなくなっているのです。

このような状況で、突然「まず、自助だ(努力しなさい)」と言われると、人びとは突き放され感をもったのでないでしょうか。

つまり、「いっしょに」という併走感を、人びとは感じることができなかったと思うのです。

いま、頼るのはふたたび、地域であり、NPO等の民間ボランティアでないかと、私は思います。

かといって、昭和時代にあったような地域の人との強いつながり(束縛する関係、「絆」)に戻すのではありません。

地域で人と人がつながる「ゆるやかな人間関係」が好ましいと思います。

たとえば、いま、地域では新たな動きが起こっています。

元気な60歳代の高齢者が後期高齢者の生活を支援する活動

保育園の迎えを助け合う活動

ホームレスの人や生活するのが困難な人を支援するNPO活動・・・。

このような併走型支援を受けながら、「いっしょに生きていこうよ」と「自助」を支え直す支援活動が、今の時代に望ましく、ふさわしいのだと考えます。


教師の仕事は対人援助専門職

2020年12月21日 08時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ

学校には、困ったことや悩みを抱えていたりする児童生徒がいます。また、学校生活で不適応を起こしている児童生徒の相談を受けたりするとき、児童生徒の話をききます。

教師と児童生徒の間の「きく」には、3通りあります。それは、「聞く」、「聴く」、「訊く」です。

①「聞く」:
(=hear)子どもが話している内容に耳を傾け、何を言おうとしているか、そのだいたいの意味を理解しようとする。
あるいは「聞こう」としなくても「耳に入ってくる」という感覚で、おおまかな意味を理解しようとする。

②「聞く」:
(=listen)しっかりと耳を傾け、子どもが話していることの背景や感情をつかもうとして聴く。言外の意味を理解しようとする。

③「訊く」:
(=ask)子どもを理解するために、教師が子どもに尋ねる、質問をするというはたらきかけをする。
これにより、子どもが答えることをきくことになります。
ただ「訊く」のは、教師側の問題意識があり、質問が発せられるので、これはかなり難しい「きく」になります。

この3種類の「きく」を適切に使い分けることができれば、相談を受ける教師として十分かと言えば、そうとも言い切れません。

なぜなら、この3つは児童生徒が話すことをきくときに、言語を介在させるだけだからです。

児童生徒は教師が話す言葉からもメッセージを受けとりますが、じつは教師の話し方や話すクセからも非言語のメッセージを受けとります。

その非言語である態度や話し方、たとえば、教師がまったく頷かないない、表情が必要以上に暗い、腕組みをしている、足を組んでいる、「上から目線」などで「きく」という態度をとれば相談活動がうまくいかなくなります。

教師は授業の専門家であり、心理士やカウンセラーではないという考え方もあるでしょう。

しかし、教育が児童生徒と教師の人間関係をもとに営まれるという点を考えると、教師は対人援助専門職であるという自覚をもち、業務にあたらなければ、今の時代、務まりません。

相談活動を適切にできなければ、教職の専門職性を発揮していないことになります。難しいことですが。

日本の移民政策の転換を

2020年12月20日 07時54分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルス感染が広がる前、日本はインバウンド景気、つまり外国人の観光客が宿泊したり、商品を買ってくれ、日本経済は一定程度外国人の消費者に依存して利益を上げていました。

大阪のミナミでは、外国語が飛び交い、大きなスーツケースをもった外国人でごった返していたのは、ついこのまえのことでした。

今年になって大阪の街では、インバウンドの外国人が消えました。

また、そのころから商店や工場では働き手が不足し、従業員が足りないので店を開けることができないということが問題となっていました。

そこで、インバウンドとは別に、日本では労働を外国人にたよる流れができてきたのですが、今年の秋には160万人以上になりました。

2010年からみると10年間で100万人以上増加したことになります。

彼らは、おもに製造業やサービス業に従事しています。そして、その増加の多くは「技能実習生」です。

技能実習制度は、外国人が日本で、滞在する期限を決めたうえで、知識や技能を身につけることで、開発途上の自国の経済発展に尽くす役割です。

だから、本来は労働者には当たらないのですが、日本に来ると格好の働き手として利用されていました。

そのなかには、家庭と子どもをもちながら、本国に置いてきて単身で日本に働きに来ている人もいます。給料の中から生活を切り詰めて残ったお金を家族に仕送りしていたのです。

ところが、今回のコロナ禍で雇用を切るとき、真っ先に解雇されるという状況になりました。

解雇された人は、あらたな仕事を見つけられず、途方に暮れる状況に陥っています。

新型コロナウイルスは、日本社会での偏った移民政策、つまり人手不足を技能実習生で補完しようとしていた問題点をあぶりだしたのです。

本当の意味での外国人や外国籍の人と共生する社会に向けて、移民政策の転換が求められます。

高い要求をされる子育て

2020年12月19日 08時55分00秒 | 教育・子育てあれこれ

子どもは本来、型にはまるものではないのですが、今の日本では、社会が子育てに高い要求をしていると思うことがあります。

昭和時代には、子ども同士のけんかや遊んでいて何かを壊すというようなことは、よく町で見られた光景です。

保護者も地域の人も、ゆったりと構えていました。子どもを怒ったり、叱ったりはしましたが、「まあ、子どもがすることだから、しかたないよね」と構えていました。

しかし、今の時代では、世間からの「まなざし」を受け、親は子どもが傷つくことなく、だれにも迷惑をかけないようにしなければならないというプレッシャーを感じています。

でも、子どもはそんなふうには育たなくて、親が悩んだり、頭を抱えているのが今の子育て事情です。

本来、子育てとは集団で行う活動であり、近所や地域の人といっしょに親が育てました。

そこでは、親がいまほどわが子に手をかけないものでした。世間からの親への「まなざし」も、それほど強くなかったものです。

ところが、子どもは器用なもので、なかには、高い要求に応えていける子もいます。

行儀よく乗り物に乗り、学校では先生の言うことに口答えせず、学習にがんばる子もいます。

だから、ちゃんとできない子の場合、その親はすごく焦ります。「なんでちゃんとできないの!」と責め立てます。
また、みんなが同じでないといけないという価値観を背負っています。

いまの子育ては、こういった意味で、難しさを増しています。

いっぽう、私たちは「個性を大切に、多様性を認める」という現代の社会の価値観の中で生きています。子どもたちにもそれを求めます。

しかし、みんなが同じであるように望むのは、「個性尊重」や「多様化」よりも「均一化」という言葉がピッタリきます。

私たちは、多様性と言いながら均一化に価値観のベクトルを向かせているということは、最低限自覚だけはしておきたいところです。

「送信」を押す前に

2020年12月18日 08時25分00秒 | 教育・子育てあれこれ


誰でも、人はほかの人との関係の中で、つまり対人関係の中で、うまくいかない場合、不満をもったり、相手にこの点を改めてほしいと思うことがあります。

また、自分の身の回りで起きていることに対して、自分なりの意見や感想、感情をもったりします。

それを面と向かって表明するのは、けっこう勇気がいることです。

これを言えば、人間関係が壊れるのではないか。

こう言ったら、言われた側はどう感じるだろうか。相手が傷つかないように言うには、どう言えばいいだろうか。

また、AさんとBさんの間に起きていることを、直接関係のない自分が口を挟んで意見をするのはやめておこう。

いろいろと考えて言動をすることが多いのではないでしょうか。

このように、いろいろと考え、思いを巡らして、自制することで、人間関係が維持できていることは、じっさい多いと思います。

表現のしかたを工夫して伝えたことで、相手が傷つかずにすむということもあります。

思っていることや、感じていることを黙っていることには、それなりの効用があるのです。

その意味で、「沈黙は金」(Silence is gold.)なのです。

しかし、ネットの世界は違います。

手軽に自分のコメントや意見、考えを書きこむことができます。それも匿名で発言できます。

さらに、だれに自分の考え、感想、意見を表明するかという点では、ネットはその範囲が不特定多数の人が対象になります。

この手軽さ、匿名性、範囲の広さなどが、誹謗中傷となり、人を深く傷つけます。

誰かが、文面やショートメッセ―ジを入力します。

そして、送信ボタンを押すと自分の入力した言葉がインターネット上に上がります。

このとき、「送信ボタンを押す」前に、もう一度たちどまり、この言葉はその人の「背中を押す」ことになるだろうか。

励ましたり、勇気づけたり、喜ばせたりというように「背中を押す」ことになるだろうか。

自分にとっては、一瞬の「送信ボタンを押す」、「投稿する」「ツイートする」ことであったとしても、相手にとっては一生にかかわることになるかもしれないというおそれをもちたいのです。

誹謗中傷を受けて平気な人はいません。

この点を深く、十分に考えたいのです。

匿名性に関しては、中高生はネット上に自分のコメントや意見・考えをアップするときには、かりに実名でのせるとしたら、そのまま送信できる内容であるかを見直すようにしてほしいと思います。