昨年度に1ヶ月以上メンタル疾患で休んだ公立学校の教員は、はじめて1万人を越えました。
もともと、学校の教員は民間企業に比べ、病休をとる割合が多かったのですが、昨年度(2021年度)は、一昨年度と比較しておよそ15%増えたのでした。
さらに、1ヶ月を越える長期療養の教員も増加傾向にあります。
学校の教員の場合、「病気休暇」は90日までとることができます。それにくわえ、90日以上の「休職」は今までで最多になりました。
公立学校では、過労死ラインが問題となり、現在働き方改革を進め、長時間労働を是正していくことに取り組んでいますが、かえって一部の教員に負担が集中し、メンタルによる休職につながったという見方もできます。
メンタルの病気休暇をとったり休職した教員は、年齢層が若くなるほど多くなっています。
とくに、20歳代の増え方は顕著です。「なりたかったけど、自分は教師に向いていない」と退職する人もいます。
今の学校の現状でいえば、一般的に30代半ばから40代半ばの年齢層(中堅)の教員が少なくなっています。
これは、各自治体が今までに採用数を抑えていたため、いまこの年齢の人が少なくなっているのです。
ましてベテラン層が退職でいなくなる中、学校の仕事は若い人に集中する傾向があります。
学校も組織だから、若い人に集中しないよう組織対応すればいいという意見もあるでしょうが、学校の実状はそうではありません。
基本的に、学校の教員は「チーム学校」と言われながらも、教員個人の「独立性」が高い仕事をします。
授業へは一人で教室に向かい、一人で30人から40人の子どもを相手にします。それも一人ひとりがちがう多様な子に授業をするのです。
だから、教職はある意味で、「独立性」の高い職種なのです。
しかし、だからこそ、職員室へ帰れば弱音を吐いたり、授業のこと、子どものことで相談できる同僚が必要なのです。
その意味で、教職は「同僚性」がより求められる仕事でもあるのです。
このあたりの教職の特異性をみないと、世間一般の見解では語れない点があるのです。
今の学校ではみんなが多忙で、早く帰るという無言の「圧力」がかかり、若い教員の相談に十分耳を傾ける時間もない。
そこで、悩みや困難を抱えた若い教員がバーンアウトしてしまう。
わたしは、経験上、雑談のもつ効果は大きいと感じています。
誤解をおそれずにいうならば、雑談が行き交う職場は病休者・病気休暇が出にくいとまで思います。
直接仕事に関係のない話で、家庭の相談や自分の余暇の話題などが同僚に話せる職場は、コミュニケーションの「潤滑剤」がよくまわります。
「自分は一人でない」と感じる職場の「土壌」ができるので、教職のことで困っている同僚のことを気にかけたり、声をかけたりすることが自然と多くなるのです。
学校の管理職には、相談のできる職場づくりが今ほど求められているときはないと意識して、学校づくりに取り組んでほしいと思います。
自宅の庭に生える草が最近変わってきました。
今までには見なかった草が生えるようになりました。
夜空が白く曇り、以前のような満天の星を見ることができなくなりました。
年中を通して気温は確かに上がっていると実感します。
地球温暖化は日本でも確実に進行しています。
今回出された国連の気候変動に関する政府間パネル(IPPC)の第6次報告書は、ショッキングな内容です。
子どもの中には、いろいろな子がいます。
① クラスの中で、なかなか意思表示をはっきりとしない子がいます。
② 人見知りの強い子がいます。
③ 忘れ物の多い子がいます。
④ 先生にたよって、自分でやらない子がいます。
このようないろいろな子がいるクラスを担当した学級担任がいました。
おとなによっては、それらを次のように注意する人もいます。
①「やりたいのか、やりたくないのか。はっきりしなさい」
②「もっと積極的に人とかかわりなさい」
③「忘れ物ばかりしていたら、社会に通用しないよ」
④「先生ばかりをあてにせず、自分のことは自分でしなくてどうするのだ」
それらはすべて「正論」です。また、教師の中にもできていない子を注意しない担任教師をとがめる人もいました。
しかし、基本的に子どもは発達途上にあります。そこには「できる」・「できない」の個人差があるのです。
できなくても、その生徒をとがめることなく、あたたかく見守ることに徹する学級担任でした。
その教師は、周りの先生からは、「○○先生、あの子のもっとできていないことを注意してくださいよ。
甘やかせてばかりいてはよくないですよ」と言われている教師がいました。
でも、その先生はじっと子どもを見守り、その先生を慕い、3学期頃には「あの子たち変わったわね。1学期とはちがって、成長したよね」と周りの先生から言われるようになっていました。そして、2・3年生ではしっとりとしたいいクラスになっていました。
わたしは思うのですが、何かを育てるのがじょうずな人は、待つことのできる人です。
そして「待つ」ということは、「信じる」ことと同じ意味です。
子どもは、土の中で生きる球根のようなものです。どんな花が咲くかはわからない。
だけれども、きっと美しい花が咲くにちがいない。
その開花の時期はわからなくても、きっとそうなると信じて、ちゃんと水をやり、肥料を与え、日に当て、大輪の花か、あるいは小さなかわいい花かと思いを巡らせ「きっと咲く」と信じて見守ることができる人こそ、子どもを成長させる教師です。
もちろん、ただ見守るだけではありません。その子への日々の声かけやかかわりを欠かしません。
子どもは、待ってもらっている時間の中で、その子のペースで内面を耕していきます。
自分の得意なことを知ったり、やりたいことを見つけ、世の中のルールを受け入れ、自分の中の小さな誇りを育てていきます。
待ってもらうことで心を成熟させていくのです。
そのことを信じることができるのは、今までの教育実践に裏づけされた本人の確信なのです。
変えるべき、変わるべきなのは、実践よりも「正論」(~すべき)はかりを重んじる私たちの考えかたです。
先日、長女がパートナーと子ども(わたしにとっての孫)を連れて、我が家に里帰りしてきました。次女も合流して、私たち夫婦との6人でひとときを過ごしました。
夜に回転寿司に行き、つかの間でしたが、大家族になりました。
べつに特別に豪華な料理を食べているわけでもない、高価な旅館やホテルに旅行するわけでもない。
それでも、家族がいて孫がいて、仲よくたわいもない会話をするひとときを過ごせる喜びを感じました。
人生100年時代といわれますが、私たちの人生はいやおうなく長くなる傾向があります。
しかしその人生は一日一日の積み重ねから成り立ちます。
その日、あるいはその短い時間に、どう考えるか、どう行動するかで人生のありようがきまってくるのでしょう。
ささやかな日々の暮らしのなかにかけがえのない喜びを感じることができるなら、人はしあわせを感じます。
いまの暮らしがしんどいから、もっとよくなればいいのにというように、これから先がよくなっていくことだけを期待して、それにたよるならば、かけがえのない、いまのしあわせを味わうことができません。
私たちがしあわせをいつ感じるべきでしょうか。
それは、今です。
しあわせとは今、この瞬間に感じるものです。