自宅近くの川の水面に今にも届きそうな藤の花を見て、ふと思い出しました。
中学生のとき、国語で習った短歌を。
「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」(正岡子規)
机の上の花瓶にさした藤の花は美しいのだが、垂れ下がっている花房が短く、もう少しのところで畳の上に届かないのだ。
こんな意味でしょうか。当時、正岡子規は結核を患い、寝たきりでした。藤の花房の短さは子規の命を表していると、国語の先生から聞きました。
このように、たまたま藤の花を見て、中学時代に習ったことを思い出します。
中学時代の学習が血となり、肉となり、私の中に染み込んでいるのです。これが教養というものかもしれません。
中学時代の学習がいかに大切であるかを、あらためて実感します。
「なぜ勉強しなければならないの」と、もし中学生に問われたら、私は冒頭のような経験を話すかもしれせん。
しかしながら、私が教養で満ちているかといえば、そんなことはありません。
中学生のとき、習ったことで忘れていることもあります。
それよりも、私がいいたいのは、中学生は、「なにを学ぶかよりも、誰から学ぶかの方が大切である」ということなのです。
中学生のとき、私に国語の短歌を教えてくれた先生は、初任2年目の若い女の先生でした。
教職経験が短いので、至らない点もありましたが、その先生は一生けんめいに教えてくださいました。
国語の世界を、自分の感情を込めて、ていねいに伝えてくださいました。
私はそんな一生けんめいな先生に惹かれ、国語が好きで、短歌の学習が好きでした。
だからこそ、藤の花を見ただけで、40年以上たっても、当時習った短歌が鮮やかに蘇ってくるのです。
そこで、次のことが言えると思います。
子どもは、好きな人からしか学ばない。
三中の生徒たちも、「この先生が好き。だからこの先生の授業が好き」という教師と出会ってほしいと、私は願うのです。