箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

授業では思考力を育てる

2020年07月31日 06時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ

みなさんが「学校の授業」と聞いたとき、まず連想されるのは、先生が子どもに「教える」を思いつかれるでしょう。

それは、みなさんの多くが、自身が学校で受けてきた授業という経験を通して、授業というものをイメージされるからです。

数ある世の中の仕事の中でも、それがどういう仕事かをいちばんよく知られているのは、学校の先生という仕事です。

なぜなら、学校は義務教育を受けるなかでみんなが経験しているからです。

学校の先生ほど、世の中で、社会で、その仕事がどんなのかを知られている仕事はないのでないかと、私はいつも考えています。

ところが、いま全国で行われている授業、あるいは教師がめざしている授業は、みなさんがイメージされる授業とは、大きく違ってきています。

そのちがいは、いろいろとあるのですが、今回はその中でも一番特徴的な「思考力を育てる」という点で、説明してみます。

わたしは、平素、学校関係者と授業の専門的な話をすることが多いのですが、その内容は、一般の人たちにはなかなか理解されにくいものです。

そこで、一般の保護者の方や業界外の人びとに「思考力を育てる授業」ということを理解してもらえるような説明をします。

そもそも「思考力が育つ」とはどういうことでしょうか。そのために子どもが「よりよく思考する」を考えてみます。

「よりよく思考する」とは、「より多くのことがらや条件を取り込んで考えている」ことです。これを別の表現で言うと、「より深く掘り下げて考えている」ことです。

そしてそれは長年をかけて考えたというのではなく、時間をかけすぎてもいけないのです。

つまり、「思考力が育つ」とは、「より短い時間で、より広く、より深く思考して、結果を生み出すことができるようになること」だといえるでしょう。

では、思考力を授業で育てるには、どうすれば効果的なのでしょうか。

それには、まず子どもたちの意欲を高めることです。

授業の中で、課題に対して「解決したい」という意欲をもたせたり、なぜこれを学習するのかという、その子にとっての必然性がいります。その必然性があれば、主体的に学習に向かうことができます。

そのため、たとえば、「スーパーのレジ袋は有料にすべきか」とう子どもの生活に密着した課題を設定するなど工夫がいります。

ただし、思考は頭の中で行われ、外からは見えません。それを知るためには、思考を「見える化」します。




「有料化すべきだと思います」→「なぜ、そう思うのですか」
→「なぜなら理由が2つあります。一つは、プラスチックごみを減らすためです。二つ目は、レジ袋が本当に必要かを考えることになり、生活の仕方を見直すことになるからです」

「私はプラスチックごみを減らすことないはならないと思います。なぜなら多くの人はレジ袋を、ごみ袋などに再利用しています。レジ袋は丈夫で口をしばることができ、臭いを閉じ込めることもできます。
うちの家では生ごみの袋にしていますし、犬の散歩のとき、フン入れにも使っています。こんな便利な袋が無料で手に入らなくなれば、持ち手のあるゴミ袋を新しく買うようになります。」

授業では、これらの考えをチャートにして黒板に表します。

そうすると、多くの子どもが思考のパターンを学ぶことができます。

たとえば、
「主張は~である。その根拠は~である」
「反対である。その根拠に反対だから」
「共通するのは~である」

このようにすることで、どう考えればいいかわからず「思考停止」に陥っている子に考え方の道案内をすることにもなります。

また、見える化によって、思考の交流や共有もしやすくなります。

この見える化は、小中学校では先生が行う場合が多いのです。

この点で、授業では先生は「教える」という役割よりも、子どもに気づきを生み出し、よりよく思考する学びへ導く「促進役」の役割になるのです。

授業では、基礎基本となる知識や技能は、もちろん教師が「教える」ことになります。

でも、「教える」ことにとどまらず、子どもが「学ぶ」ことへ導いていくのが、授業者としての役割なのです。


未来から吹く風

2020年07月30日 08時23分00秒 | 教育・子育てあれこれ

諸君はこの颯爽たる

諸君の未来圏から吹いて来る

透明な清潔な風を感じないのか

(宮沢賢治『生徒諸君に寄せる』より)


この言葉は長編詩のごく一部です。

教師だった宮沢賢治が生徒に贈った詩です。

生徒が卒業するにあたって、生徒への希望・願い、そして生徒への感謝を述べています。

冒頭の言葉には、生徒のこれからの人生に対しての、意気揚々とした思いが綴られています。

この詩が発表されたのは、昭和21年(1946年)4月でした。

だから、第二次世界対戦中に書かれたことになります。

生徒へ贈ったこの詩には、宮沢賢治が戦時中の言論統制下で、自由にものが言いにくい「生きにくさ」を感じていたのではないか。

言論できる自由への、宮沢賢治自身の渇望も散りばめられているように、私は感じます。








夢実現にはたくさんの失敗

2020年07月29日 17時17分00秒 | エッセイ
昭和の時代、今のヤクルト、当時の国鉄スワローズ、その後ジャイアンツが9連覇を達成した川上監督の時代におもに活躍した投手が、昨年亡くなられた金田正一選手でした。

スワローズとジャイアンツを通して不滅の400勝投手になりました。

昔は先発・中継ぎ・おさえという分業制がなかった頃で、先発完投が多く400勝しました。

その金田投手が言った言葉が

「オレは400勝しているが、300敗してるんだぞ」

でした。

多くの成功をするためには、誰よりも多くの失敗をすることになるのです。

こう言い聞かせないと、夢の実現を諦めてしまうことになり、先の心境に進めなくなります。

私は年頭のブログで、「好きを仕事にすることは今の時代は難しい」と書きました。

でもどうしても好きなこととで、夢を実現するならば、それと引き換えにたくさんの失敗を重ねる強い意志がいることを、私たちに教えてくれます。

中学生と高校生の英語力が向上

2020年07月29日 08時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ


グローバル時代の英語教育の重要性は言うまでもなく、国は小学校時代からの早期英語教育強化策を打ち出しています。

私は英語科の教員だったこともあり、さまざまな意味で英語の授業は、早くから始めた方がいいという考えをもっています。

文科省が全国の公立小中高に対して行った2019年度の「英語教育実施状況調査」の結果が、このほど発表されました。

それによると、

中学3年生については、英検3級以上の力がある生徒が44.0%(前年度42.6%)でした。

高校3年生については、英検準2級以上の力がある生徒が43.6%(前年度40.2%)でした。

どちらも数値は、上昇しています。

なかでも、高校では英検準2級程度の英語力をもつ生徒は普通科が56.2%です。
ところが、英語科や国際科、グローバル科などでは90%以上の高率となり、それ相当の学習を行った結果であると考えられます。

また、小学校の場合、現状は3.4年生で週1時間の英語活動、5.6年生で週2時間の教科としての英語授業を行うことになっています。

「実施状況調査」では、学級担任が担当するのが70.5%(前年度80.5%)で、英語専科教員が担当する場合が約30%となっています。

なお、自治体によっては、先行的に英語教育に取り組んでいる場合もあります。

大阪府箕面市の場合は2015年度より、小学校1年生からネイティブスピーカーのALT(英語指導助手assistant language teacher)を多く任用して、英語活動・英語授業を行っています。

中学校1年生からは、「教育課程特例校制度」を使い、週に4時間(4回)の英語の授業に加え、1時間(1回)の英語コミュニケーション科を行っています。

ですから、週に英語関係の授業が5時間(5回)あります。

その成果は表れており、英語の学力テスト等でも高い結果が出ています。


ちなみに、英語力の中でもリスニング力や音声面に関しては、およそ9歳になるまでのできるだけ早期に学習した方が身につきやすいという言語学的な考えがあります。

とくに幼少期に聞きなれた英語の音は、一度英語に触れる生活から離れても、再度学習しなおすととり戻すことが容易であると言われています。

ところが、10歳ごろから初めて英語学習を開始した人は、かなりの努力をしないと、とくに音声面での力が身につきにくいという考え方です。

それはともあれ、どうせ英語を習うのなら、早く始める方がいいのです。

日本語が十分身についていない時期から英語を始めても、言語習得上の混乱や困難はないことのほうが多いです。

阪急電車神戸線開業100年

2020年07月28日 10時07分00秒 | エッセイ
関西では、関東よりも、私鉄が発達していると、長年言われてきましたが、最近ではJRも鉄道網を整備しています。

関西の私鉄のなかでも阪急電車の茶色は「マルーン」と言われる独特の色です。

シートはゴールデンオリーブ色で、高級なものが歴代使われています。


阪急電車の神戸線が今年、開業100年となりました。

私は、大学のとき通学で乗るようになり、当時、宝塚線に慣れていた私は、大阪から神戸へ続くという、ある意味の洗練さと「カッコよさ」に惹かれたのを思い出します。

また、宝塚線とちがい、駅と駅の距離が遠く、それを高速で走る「特急」は、大阪市→伊丹市→尼崎市→西宮市→芦屋市→神戸市へとつながり、今でも車窓からの風景には、飽きないものがあります。

また、阪急電車神戸線の南にはJRが走り、またその南には阪神電車が並行して走っています。

1995年の阪神大震災では、阪急電車も高架の駅や陸橋が倒れるなど大きな被害を受けました。
三宮の神戸阪急ビルも崩れました。

それでも、とりあえず梅田から西宮北口まではすぐに開通したので、私も西宮北口まで阪急電車に乗り、そこから徒歩で被災地に向かったのを思い出します。

それからは、阪急電鉄は不眠不休で工事をして、6月ごろには完全復旧を果たしました。

そのような歴史を経て、100周年を迎えた阪急神戸線。

神戸阪急ビルは建て替えられ、来年には地上30階ほどのビルが完成すると聞きます。

阪急神戸線は、今後も大阪-神戸を結ぶいちばん山手の電車として君臨し続けるでしょう。


「阪急電車」という曲があります。

歌詞の一部を記します。

現実を見るより
遠い理想ばかり眺めてた Ah

二度と戻らない青春は
窓に広がった懐かしい光
何を見逃してしまったか?
答え探してる阪急電車

走り去って行く風景は
何もあの頃と変わってないのに
愛を知らぬ間に通過して
切なくなって来た阪急電車

いつも乗っていた快速は
沈む太陽と全てを知ってる
夢はどの駅で降りたのか?
一人 ドアのそば阪急電車

(NMB48 「阪急電車」[2018年 作詞 秋元康]の歌詞を一部掲載させてもらいました。)

阪急電車神戸線にも、車窓から見える風景を見て、人それぞれに若き日を思い出す人もいるでしょう。

私自身がそうです。何か切なく、ほろ苦い若き頃を想う気分です。

(このブログは、2020年7月18日のものを一部変更して書いています。)




新型コロナウイルス感染防止 高齢者の場合

2020年07月28日 08時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルスは、高齢者になるほど重症化しやすいと聞きます。

緊急事態宣言は解除されましたが、その後も基本的には出歩くことは控えた方がいいのは確かなようです。

そこで、気になるのは高齢者です。家の外に出たり、人との交流が減ることになります。

もともと、仕事をしていない、家から外に出ない、人と会わない、地域の会にも出ないといった高齢者は、要介護になりやすいと聞きます。

また研究では、直接会って会話する対面式のほうが、電話やメール、手紙による交流よりも要介護になりにくいという報告もあります。

そこへ、新型コロナウイルスの感染リスクが重なってくると、外出や人と会うことを高齢者はどうしても控えるようになります。

そうなると、要介護になる可能性がさらに高まるのでないかと危惧します?  

でも、考えてみれば新型コロナウイルス感染者と接触する確率は、家に閉じこもったり、社会的に孤立したりして要介護、認知症、うつなどになる比率より小さいはずです。

だから、老人会等で大々的に旅行へ行ったりするのは無理ですが、少人数で密集しないよう外出や換気のいい施設で交流するのがいいでしょう。

「認知症カフェ」などの居場所づくりを進めようという地域もあるようです。

または可能ならオンラインを積極的に活用する見守りで、孤立をを防ぐなどの対策が必要になるのだと思います。

地域での人同士の支えあいは、行政やNPOによる「まちづくり」の取り組みの本命だと考えています。

広島・長崎原爆投下75年

2020年07月27日 08時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今年は広島と長崎に原爆が投下され、まる75年です。

私は教員時代にナガサキ修学旅行へ生徒を引率して何度か訪れました。

修学旅行の下見では、原爆の悲惨さ、その被害の大きさに、わたしはしばらく資料館の展示場に立ちすくんでいたことを、今も覚えています。

修学旅行で生徒たちは、長崎の観光を楽しみ、自然を満喫もしましたが、被爆体験者からの聞きとりは、平和学習の柱でした。

実際に被爆を体験した人が語る原子爆弾の威力のすさまじさ、人びとが受けた地獄図の体験、平和を願う思いを身近で感じることができました。

戦後75年がたち、被爆者の多くが亡くなりました。このままでは被爆体験を語ってくれる人がいなくなってしまいます。

そこで、いま生存しておられる被爆者からの体験記を記録にして残そうという動きがあります。

その方法は、書籍にしてまとめる方法もありますが、今の時代なら、ご本人の了解が取れれば、動画にして残していくことができるでしょう。

また生存されている被爆者の場合でも、大勢の生徒を前にして語るのは体力がいるので、語り手と聞き手をオンラインで結ぶこともできると思います。

被爆体験と聞けば、どうしても原爆投下の1945年8月6日と9日に注目が集まりやすいですが、被爆者が戦後から今までをどう生きてきたのか、苦難とどう対峙してきたのかという被爆者の生きざまを知ることで、原爆が被爆者に何をもたらしたのかが明らかになります。

また、日本は唯一の原爆被爆国ですが、核実験による被害者、原発事故の犠牲者も同じく被爆者です。

この意味では、世界に被爆者がいるので、連帯して、核兵器を廃絶し、平和を希求する動きをつくれたらいいと思います。

<オバマ大統領広島訪問時のスピーチ(2016年5月27日 )から抜粋>

Why do we come to this place, to Hiroshima? 
We come to ponder a terrible force unleashed in a not so distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 in Japanese men, women and children; thousands of Koreans; a dozen Americans held prisoner. Their souls speak to us. They ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.

なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか。
私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです。10万人を超す日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです。彼らの魂が私たちに語りかけます。私たちに内省し、私たちが何者なのか、これからどのような存在になりえるのかをよく考えるように求めているのです。

・・・・・・
(中略)・・・・・・・・・・・・・・・

But today, the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting, and then extending to every child. That is the future we can choose ― a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.

しかし今日、この街の子どもたちは平和に暮らしています。なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子どもたちに与える価値のあるものです。それは私たちが選ぶことのできる未来です。広島と長崎が「核戦争の夜明け」ではなく、私たちが道義的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです。

(冒頭のカバー写真は「毎日新聞」2018年8月7日に掲載されたものです。)

新型コロナウイルスが照らし出したもの

2020年07月26日 06時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ
五月病という言葉があります。

4月から入学や就職をした人が緊張して学校や職場に通い続け、ゴールデンウィークが明けたあたりに、気分がすぐれないとか、登校・出社に前向きな意欲がわかない状態になります。

ところが、今年の場合は少し違っていたようです。

新型コロナウイルス感染防止で、4月から学校は休校が続いていました。職場はテレワークで出勤しなくてすむ人もいたのでした。

他者と接するのが苦手な人、人間関係を結ぶのにかなり気を使う人でも、「今日も行かなくていいのです」と、遠慮なく言えることができたのでした。

登校・出勤するのが「当たり前」という価値観に覆われた社会に、変化が起きました。

ここで、学校の場合はちょっと置いておき、会社の場合を考えてみます。

新型コロナウイルス感染拡大の前は、オンラインで済む仕事でも、出社するのが「当たり前」でした。

考えてみれば、極端に言うと、パソコンを使い終日仕事をしていた人なら、「これって会社でなくてもできるのじゃないかな」となんとなくは思っていた。

でも、出社するのが「当たり前」という価値観や固定観念で貫かれていた頃には、言葉にして言うのもはばかられたというのが実情だったのでしょう。

でも、新型コロナウイルスの「おかげ」で、じつは会社でなくても仕事はできると感じていたのは、自分だけでなかったことに気づくことができたのです。

経営陣のほうも、意識が変わりだしました。

もう、広いオフィスを使わずとも、もっと狭いスペースで会社は十分にまわっていく。

じっさいに、オフィスを狭くする方向に舵をきるケースも生まれてきています。

今後は、画一出勤の制度しか考えない会社は働く人から敬遠され、在宅勤務も認める柔軟性のある会社に人が集まるようになるのかもしれません。

もちろん、在宅勤務ができない、その形態が馴染まない職場があるのは当然です。
そうであっても、働き方を改善する工夫は、なんらかの面で必要になってくることも予想できます。

では、学校の場合はどうでしょうか。

実際にオンライン授業が多くの大学で行われています。これを受講とみなして、学生には単位が与えられます。

小中高の学校でも、一部ですがオンライン授業が行われました。

登校しなくても、授業は受けることができるという考えもあるでしょう。

また、人間関係が苦手という生徒もいます。友だち関係がしんどくて、心が疲れてしまい、不登校になる場合もあります。

「学校に通わなくてもいい」となると、その子たちはどれほど救われた気持ちになるでしょうか。

ただ、学校の場合は、学力をつけるという目的以外に、集団生活の中で人とかかわり、人間関係を学習するという役割があります。

大学でも研究やゼミは生命線です。また、自治活動やクラブ、サークル活動は人との交流が大きな価値をもちます。

ですから、オンラインだけでいいというようにはならない面があります。

人は他者とのかかわりのなかで、自分を成長させることができます。

そのうえで、社会に出たとき、在宅勤務が働き方の一つの選択肢となるのです。

その点で、新型コロナウイルスは、学校の存在意義をあらためて照らし出した。

そのように、私は考えています。


わかってはいるが・・・

2020年07月25日 07時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
学校は子どもを育てる公式の場ですから、社会でダメと決められているルールや規範は、子どもに守るように指導します。
 
 
信号が赤なら、道を渡ってはいけない。校外学習や対外試合の引率をしていると、赤信号では止まって待つように指導します。
 
私は、信号が赤なら、横断歩道では待ちます。
 
わが子にも、渡らないように言ってきました。
 
 
 
ところで、学校外の私的な場面で、右を見ても左を見ても、明らかに車が走ってこない。
 
こんな時は信号に、自分の行動を支配されなくてもいいと思う子がいます。
 
大人の中にも、こう思う人がいます。
 
そのような「柔軟性」を持つ人のほうが、言われた通りする子より、何が大切かをを知っていると言えるのかもしれません。
 
 
さて、家庭では「わかっているが、できない」ということがあるのではないでしょうか。
 
酒を飲みすぎてはいけないとわかっていながら、つい飲みすぎてしまう。
 
夫婦ゲンカはしないほうがいいのに、してしまう。
 
そのように、人には、わかっていてもできないことがあるのです。
 
こういうことは、公式な教育である学校教育では教えないことです。
 
しかし、私的な教育である家庭教育では、こういうことも子どもは学んでいきます。
 
だから、できないことがある、守れないことがあるという点が自分にもあると知るのは家庭です。
 
その意味で、親が学校の教師の場合、なかでも両親ともが教師の場合、親はわが子に学校で教えることと同じことをわが子に強いるのです。
 
子どもにしてみれば、両親が教師だと、学校と同じことを躾けられるので、なかには息がつまることもあります。
 
教師の子どもが学校で問題を起こすこともあるのですが、それは子どもがおとなからの圧迫感をもつからかもしれません。
 
柔らかく生きる子は、人から言われた通りにする硬直性よりも、もっと大切なものをもっていると言えるのかもしれません。
 
そうかといって、ダメなことを、人間にはしてしまうことがあるのだから、してもいいと、私は言っているのではありません。
 
わかってはいるけれど、そのようにできないという点に悩みがある。
 
そしてできない人もいるという善悪についての人間が持つ複雑な事情を、親の姿から子どもが知っておくことに意味があるということです。

未来のことはわからない

2020年07月24日 07時40分00秒 | 教育・子育てあれこれ

新型コロナウイルスは、まだワクチンがなく、わが国でもふたたび感染者の増加が心配になります。

この頃の感染者数の増加で、私たちは不安をかきたてられます。

すでに、緊急事態宣言により、日本経済は大きな痛手を受けています。

まさに、ある意味で、国の危機ともいえる状況です。

こんなときは、政府の大臣や自治体の知事と人びとの間の信頼関係が重要です。

危機やリスクが大きければ、大きいほど、リーダーと人々の信頼関係が強くないと、困難を乗り越えることができない。

このことは歴史の教訓です。

第二次世界大戦中、勢いを伸ばすヒットラー率いるドイツにひるまず、国民を勇気づけたのがイギリスのチャーチル首相でした。

「未来のことはわからない。
しかし、我々には過去が
希望を与えてくれるはずである。」
(ウインストン・チャーチル 『イギリス国民の歴史』)


姜尚中(かんさんじゅん)さんも、著書『悩む力』の中で、「吾輩は過去である」という言葉とともに、過去こそがすべてであることを言われています。

「未来」というものは、まだ何もないというゼロの状態。ところが、「過去」はその人の後ろに控え、「現在」の自分を形作っている。

このように、姜尚中さんは、綴っています。

だから、「過去」を大切にしなさいと、私はよく中学生に話してきました。

グローバリズムが進み、新型コロナウイルスが流行し、先が読めない社会になっています。

私の少年時代、高度経済成長期のように、「勤勉に働いて、電化製品を買ったりして豊かなくらしをする」とか「努力して出世して、父よりも偉くなる」というように、皆が同じ方向を向いていた時代は終わりました。

皆がバラバラで、人それぞれの価値観をもつようになってきたのです。

だから、みんながそれぞれに、何を目指すか、何を目標にするのかで、悩みながら生きるのです。
この点で、いまは悩むことが大事になる時代なのです。

福祉の国とは

2020年07月23日 08時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ

私たちの社会では、「あの人とは考え方がちがう。あわない」とか、「あの人のやりかたは、受け入れることができない」などで、人と人のつながりを絶ってしまうことがあります。

国どうしでも自国の利益だけを追い求め、他国との協調関係を顧みない動きが多くなってきていました。

「分断」が深まってきているとでもいうのでしょうか。

人を分断する言動は、相手への敵対心や怒りから生まれます。

そのようなときに、新型コロナウイルスによる感染症が広がりました。

このウイルスは、物理的にも、身体的にも人と人を離れさせました。

でもそれは一面的な見方であり、社会的には分野を超えてつながらなければ乗り越えることはできないことを人びとは知っていたと言えるでしょう。

たとえば、医師会は「感染防止のためには経済活動は二の次だ」という意見をかりに持っていたとしても、「店を閉めれば失業者が増え、生活困窮者が生まれる」と経済界から意見が出ます。

そこで、新型コロナウイルスの流行をきっかけに、お互いに理解し合い、協調し合い、折り合いをつけ、合意を形成する。

そして、ともにつながり合い、その大切さや力強さを、人びとはあらためて感じているのではないでしょうか。

マスクが不足していると言えば、裁縫業の人が手縫いのマスクを考案しました。

夏に向けてマスクをしていると熱中症の危険があると聞けば、衣服メーカーが通気性に優れたマスクを販売する。

医療従事者のたいへんさとその使命感が伝わると、励ましのメッセージや医療用防護服が提供される。

学校が再開すると、感染防止のため、教職員は消毒や手洗いを奨励して指導する。子ども同士が近づきすぎないよう配慮して、必要に応じて注意を促す。

ただし、こうしたつながりは、民間やNPOの動き、職務として、人びとの善意だけから生み出されるだけではよくないと思います。

日本が福祉国家だとするならば、その大原則は「すべての人びとに最低限度の生活を営むための援助を保障する」という理念が貫かれる必要があります。

その点からも、国はその財源を使い、機動的に、タイムリーに、簡易な手続きで、公助のセーフティネットを広げてほしい。

それでも足りないことができてきます。そのときには、民間やNPO等による「おたがいさま」の助け合いが功を奏して、みんなの安心感につながるのはないでしょうか。


「マスクをつけろ」って !?

2020年07月22日 06時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ


いま電車に乗ると、前の座席に座っている人が7人いるとすれば、7人ほぼ全員がマスクをつけています。

プリーツ型、立体型、少ないですが平型があります。また色は白色が多いですが、最近は黒色も増えてきました。

手作りのきれいな模様の布マスクをつけている人もいて、見ているとけっこう飽きないほどの種類があります。

そんな中で、ときどきマスクをつけていない人がいます。すると、周りからはどうしても目立ちます。

「忘れたのかな?」
「暑いから嫌なのかな?」
「自分の考えてわつけていないのかな?」など、いろいろ考えてしまいます。

でも、つけてない当の本人は、それがもし私なら気になります。周りからの視線が刺さるようです。

そういうこともあり、私は買い物をしたり、乗り物に乗ったり、まわりが閉鎖された部屋や建物ではつけています。

ただ私が気になるのが、つけていない人を揶揄したり、攻撃したりする人がいることです。

いま、ツイッター上には「#マスク警察」というハッシュタグが出ています。

「マスクをつけろ」とか「つけなさい」と言われるのは、子どもに対してもあるようです。

学校には「マスクをしていない生徒がいるぞ。ちゃんと指導しろ!」という苦情が入ったとも聞きます。

でも、人が接近した状態で周りにはいないとか、完全な広い場所の屋外など、暑くなってくる時期には外していてもいいと思います。

つけていない人に対して、「正義感」を前面に押し出し強く当たる人には、「あなたは、なにかムシャクシャすることがあるのですか」と聞いてみたいものです。

また、人によってはつけると息が苦しくなる人もいるでしょう、しんどくなる人もいるかもしれません。

マスクをつけていない人には、様々な事情がないかと考え、他者には寛容でありたいものです。

自然と人間の調和

2020年07月21日 08時28分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今年の梅雨は、大雨で日本各地に洪水、土砂崩れ、家屋への土砂流入など、深刻な被害をもたらしました。




かつてなかったほどの雨が降ると言われましたが、その予報が毎年のように出されるようになりました。

川の増水による被害が伝えられますが、日本各地にある農業用水蓄えるため池も、増水で溢れたり、決壊するリスクを抱えています。

四国・香川県に満濃池(まんのういけ)というため池があります。

池といっても湖のように広く、周囲は約20kmもあります。釣りの場所としても、昭和の頃から有名です。

わたしは、小学校の頃、ここがへラブナ釣りのスポットと聞き、行きたいと思った記憶があります。

このため池は、西暦700年ころに作られたそうです。その後、洪水により堤防の決壊・改修が繰り返されたそうです。

この改修に派遣されたのが空海でした。彼は池のふちを曲線で弧を描いたアーチ形(R状曲線)にしました。

じつは空海は、自然の中で修業をした人であり、雨が降りそうなのを自然の予兆から動物的に感じとる力を体得していました。

物理的なことは知らなくとも、曲線を使うことが土木工事で水の力を分配するというか、水圧と堤の強さが調和を保つのに有効であることを知っていたのでしょう。

それから1200年以上たったいま、私たちは大規模な洪水に毎年悩まされています。

じつは、温暖化になり、雨の降り方が変わったという気象条件の変化はあります。

しかし、日本は古来から、洪水、地震、台風、津波、ききんなど、さまざまな自然災害に悩まされてきているのです。

だから、科学がいくら発達したにしても、大自然の力に、人間は太刀打ちできません。

科学は人びとの生活を便利にしてくれます。だけど、科学の力で自然災害をコントロールなどできないのです。

そもそも、私自身は、大阪府内の自然環境豊かな地域で生まれ、ずっと暮らしてきました。

だから、感じるのですが、「人と自然の共存」を打ち出し、人間は自然に依存しようとするのですが、自然は人間に依存などしていません。

いつもキリッとしていて、「おまえたちがいなくても、わたしは存在しているよ」というメッセージを暗に発しています。

なのに、人間はガーデニングや科学(化学)農業を使い、自然をコントロールしているように錯覚しているのです。

おそらく、環境問題にしても、「自然にやさしい」というとりくみも、それは人間が生きていく視点で言っているだけで、自然はそのようなものが必要ですとは言っていないのです。

このように考えたとき、自然との「共存」というのはおこがましくさえ、私には思えるのです。

ですから、人間は自然に対して、「申し訳ないですが、私たちも生きなければなりません。せめて、調和しながらいっしょにおつきあいしてください」という謙虚な気持ちになることです。

災害対策には、空海のように「自然と調和していく」という視点が欠かせないのです。

学校教育の一つの分野に「環境教育」があります。「環境にやさしく」をテーマに行います。

その際でも、人間が安心して安全に暮らしていくために、児童生徒は学習します。

また、「防災教育」もあります。
そのとき、日本はそもそも自然災害を避けて通ることはできない。
自然災害が起きれば、災害を最小限に留めるためにどうするかを学習するのです。

自然というものに敬意を払い、畏敬の気持ちをもちたいのです。

どこか悲しい音がする

2020年07月20日 08時10分00秒 | エッセイ

最近は、新型コロナウイルス感染防止のため、外で懇親会や飲み会をしたとしても、少人数であまり長時間にならないように、なごやかに楽しむ人が多いのではないでしょうか。

「では、さようなら」と解散して、すぐに自宅に引き上げる人がいます。

そんな場面で思い出すのが、夏目漱石の名作『吾輩は猫である』です。

苦沙弥(くしゃみ)先生のところに、仲間たちが集まりとりとめのない話で、場がなごやかに盛り上がります。

そこへ多々良三平はビールをもって参上します。三平は結婚が決まって、みんなが祝う。

そして、おひらきになり、みんなが「では、これで・・・」とか「なら、おれも・・・」と、次々と帰っていきます。

そして、急に場はさみしくなりました。

この様子を終始眺めていた猫がつぶやくのです。

「呑気(のんき)と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」

100年以上前に書かれた小説ですが、いまのコロナの時代や大きな自然災害多発時代に重なる人びとの心情を、猫がうまく言いあてており、この言葉はいま俄然輝きを増します。

今の時代、みんなが心の底では漠然とした不安を抱えているのではないでしょうか。

仕事がなくなるのではないか。
感染したらどうしよう。
病気になるのではないか。
大きな自然災害に見舞われるのではないか。
大雨で家が流されたらどうしよう。
大きな地震がくるかも。
家族が元気で暮らせるだろうか。
年金だけでは、この先生活していけないな。
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また、人といるときはつかの間の楽しみがあるが、群れから離れてひとりになると、どことなく孤独でさみしい気持ちになる。

孤独になると、人の関心は他者ではなく、自分に向くのです。

このように猫が客観的に人間を見ているのです。いわば人間の存在そのものを言い当てているようにも思います。

不安をどことなく感じながらも、人は生きていくのかもしれません。

事実を詳しく説明することの大切さ

2020年07月19日 07時21分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新聞記事に以下の特集を見つけました。

東京都江戸川区の東京臨海病院は、2月に帰国者・接触者外来を開設した。一般病棟の一つのフロアに入院していた患者をすべて他のフロアに移しそこに、新型コロナウイルス患者の専用フロアを設置した。

医療スタッフ総出で対応に当たる中、さまざまな差別や偏見を経験したという。

新型コロナウイルス感染患者が亡くなった際には、近隣の火葬場から受け入れを断られ、4日間遺体を安置したのち、遠くの火葬場まで運んだこともあります。
新型コロナウイルス以外の病気で入院した患者の治療が終わり、その人の住む老人介護施設へ連絡したところ、「“コロナ病院”から退院した人は引き取れない」と断られた。

同病院の看護師は、保育所に預けた子供を迎えに行くと、施設内に入ることを拒まれ、門の外で待たされたと言う。家族から仕事を辞めるよう求められた人もいた。

このように、病院と医療従事者は、新型コロナウイルスだけでなく、社会の差別・偏見とも向き合わなければならなかった。

そうした中で、小林滋病院長は、内情を知ってもらおうと報道機関の取材に応じることを決めた。そして、4月下旬に毎日新聞デジタル版やテレビで報道されると、「風向きが大きく変わった」という。

集中治療室や新型コロナウイルス患者専用フロアなどを公開し、小林病院長自らインタビューに応じて、病院の感染防護体制や病院が直面している課題、差別などについて詳細を説明した。

これが大きく報じられると、「直後から新たな差別は偏見の報告はほとんどなくなり、激励や称賛の言葉をもらうことが多くなった」と病院長。SNS上には「そのうち院内感染を起こすぞ」などと病院の取り組みを否定するような書き込みもあったが、むしろ少数であり、「温かい応援の方が圧倒的に多かった」という。また、病院にはN95マスクや防護服や食料品が、手紙とともに届くようになった。

飲食店や仕出し店からも弁当などの支援の申し出が相次いだ。インドの家族が新型コロナウイルスに感染して入院した際には、(よく受け入れてくれたと)近くに住む30人ほどのインドの人が救急外来の前で感謝の拍手をしてくれて、カレー弁当を差し入れしてくれた。

小林病院長は「治療はたいへんだったが、そうした支援一つ一つにスタッフはほんとうに励まされ、人の温かさに触れることができた」と話す。当初、退院患者の受け入れを拒んでいた施設なども、丁寧に説明を続けると、協力してくれるようになった。

医療関係者に対する差別・偏見について、病院長は「実際に院内感染が起きた病院もあり、一般の人がそういう気持ちになるのは無理もない」と理解を示す。その上で、「一般の人は病院の内情を知り得ないので不安になるのだろう。実情を公開したことで、理解をしてもらえたのではないか」と語る。
(2020年7月15日『毎日新聞』朝刊の「クローズアップ」の「情報開示で偏見改善」からほぼ全文を抜粋。一部表記を変更しました。)


この記事を読んで、私が考えたことや感想を三つ紹介します。

(1)学校での人権教育や社会での人権啓発の大切さ
偏見や差別は「知らないこと」から起こることが多いものです。その意味で、病院長が、詳細に病院の実情を説明したことで、人びとは自分の思っていた印象が思い込みで、正しい実態を知らずにいたことを理解できたのです。
これは、学校で児童生徒に対して人権教育をおこなうこと、また社会人に人権啓発をおこなう意義と大切さをあらためて教えてくれます。

人権の問題に対して、正しい知識と行動力をもっていないと、
1 .自分で勝手に「あの人は」とか「あのグループは」というひとくくりのきめつけ(ステレオタイプ的な見方)をしてしまいがちです。
2 .次にそのグループや人に嫌悪の感情をもちます。(偏見
3 .さらに、「来ない」でと避けるとか、排除する言動が生まれます(差別

(2)メディアの効果
テレビ離れや新聞離れが進んでいると言われますが、一つの正確な事実や情報を、多くの人びとに知らせるというテレビや新聞の役割は、やはり大きいと思います。

(3)人間はやっぱり温かい
がんばっている人に対してエールを送ったり、励ましたり、差し入れをしたりという温かいハートをもっているのが人間であると信じたいのです。
そして、その温かさに触れた人は、どれほどうれしくて、仕事のやりがいを感じることができるか。

新聞記事を読んでいると、暗いニュースも多いですが、このような人間の温かさをとりあげたものもあります。